第十一章 終局
本土へと戻る船のデッキ。蓮見は一人、海を眺めていた。次第に小さくなっていく六駒館は、水平線に溶け込む黒い影のようだった。海鳥の声が高く響き、冬の鋭い太陽が、波間に砕けて宝石のように輝いている。
彼の手の中には、かつて瀬戸晴希という天才少年が、非業の最期を遂げるまで握りしめていたはずの、煤けた「黒のポーン」があった。これだけは証拠品として提出せず、自らの勝利の記念品として、そっと懐に忍ばせておいたのだ。蓮見はそれを、壊れ物を扱うような優しさで指先で弄んだ後、慈しむような、しかしどこまでも空虚な視線を向けた。そして、未練を断ち切るように、静かに駒を海へと放り投げた。
駒は空中で小さな弧を描き、深い海の底へと、二十年前の罪の記憶と、昨夜の惨劇の真実と共に、永遠に沈んでいった。
「……投了(リザイン)だ」
彼はコートのポケットから、使い込まれた小さな黒革の手帳を取り出した。そこには、各地の資産家、醜い争いを抱えた名家、闇に堕ちた有力者たちからの「依頼」が、まるでチェスの棋譜のように整然とリストアップされている。
次はどの盤面に向かおうか。どの古びた館を舞台に、どんな愚かな人々を駒として並べ、新しい地獄を描き出そうか。彼の脳内では、既に次なる対局の構想が、複雑な幾何学模様のように展開されていた。誰を最初に排除し、誰を最後まで生かして、自分という「名探偵」をより高く、より輝かしく演出するか。そのプロセスを想像するだけで、彼の全身には、麻薬のような甘い快感が駆け巡るのだった。
彼はデッキに置かれたベンチにゆっくりと腰掛け、自分専用の、象牙と黒檀で作られた高級なチェス盤を広げた。そして、銀色に輝く「白のナイト」を盤上の中央に置く。それこそが、自分自身を象徴する唯一無二の駒だ。定石を無視した動きで敵を翻弄し、信頼を勝ち取りながら懐に入り込み、最後には相手の心臓を射抜いてチェックメイトを奪う騎士。
蓮見は、周囲に人の気配がないことを確認し、誰にも見られることのない角度で、冷たく、そして法悦に満ちた勝利の微笑を浮かべた。その微笑みは、もはや人間のものではなく、運命を弄ぶ悪魔のそれであった。
「さて……次の対局(ゲーム)を始めるとしましょうか。今度は、もっと残酷で、もっと救いのない、美しいエンディングを用意しなくてはならない」
太陽が中天に昇り、世界を眩い白さで塗りつぶしていく。名探偵・蓮見を乗せた船は、次の惨劇が、あるいは次の「英雄譚」が待つ港へと、ゆっくりと、しかし確実に進んでいった。船影を追う沿岸警備隊の隊員たちは、一晩の激闘を終えて帰還する英雄に対し、畏敬の念を込めて、いつまでも敬礼を続けていた。その敬礼を、蓮見は心の中で笑い飛ばしながら、新しい盤面へと意識を飛ばしていた。物語は終わったのではない。これは、終わることのない、彼の「不敗の記録」の、ほんの一節に過ぎないのだから。
盤上の死神は、白く笑う @lulu0418
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