第十章 投了
夜明け。島を包み込んでいた狂乱の嵐が、嘘のように静まり返った。水平線の彼方から差し込む朝日が、血塗られた六駒館を白日の下に晒し出す。本土から到着した捜査船が数隻、白い飛沫を立てて岸壁に接岸した。
蓮見はテラスの縁に立ち、昇りゆく朝日を静かに眺めていた。彼の表情は、一晩中凶行を止めようと奔走し、心身ともに極限まで疲れ果てた「悲劇の探偵」そのものだった。その目には深い隈が浮かび、唇は乾燥してひび割れ、コートの裾は泥と海水で汚れている。その姿を見た誰もが、彼がどれほどの恐怖と戦ってきたかを疑うことはなかった。
「蓮見先生! ご無事でしたか!」
救助艇から降りてきた警部が、荒い息を切らしながら蓮見の元へ駆け寄った。蓮見はわずかに肩を震わせ、力なく、しかし重々しく首を振った。
「ええ……。ですが、残念ながら、私の力及ばず、九条家の皆様を救うことはできませんでした。……犯人は、次男の九条慎二氏です。彼は、二十年前にこの館で起きた瀬戸晴希君の事件に対する歪んだ復讐心から、自らの一族を手に掛け……。そして、あちらの断崖から、自ら海へ身を投げたようです。私の推理が、あと数分、せめて一歩でも早ければ、彼を止めることができたのかもしれないのに」
蓮見の声は、自責の念に押し潰されそうなほどに震えていた。現場からは、慎二の指紋がびっしりと付着した殺害道具のナイフ、そして蓮見が慎二の部屋から回収したフリをして用意した「完璧な遺書」が発見された。さらに、救出された阿久津と志保の証言が、蓮見の物語を盤石なものにした。二人の記憶は、蓮見が投与した特殊な薬物と、昏睡状態の間に繰り返し囁き続けた強力な暗示によって、「慎二が狂気に染まって家族を惨殺し、蓮見先生が自分たちの命を救ってくれた」という偽りの真実に、完全に書き換えられていたのだ。
「先生、あなたは自分を責める必要はない。ベストを尽くされたのです。このお二人すら、あなたがいなければ今頃は冷たい骸になっていたはずだ。九条家という閉ざされた一族の因業が、慎二という男をこれほどの化け物に変えてしまったのでしょう。……あなたは、この惨劇から唯一の光を救い出した英雄だ」
警部の心からの称賛の言葉に、蓮見は深く、深く頭を下げた。その時、彼の瞳から一滴の涙が零れ落ち、甲板を濡らした。だが、それは失われた命への哀悼ではなく、自らが創り上げた虚構が完璧に「現実」となったことへの、至上の歓喜によるものだった。
「……いいえ。私は、探偵失格です。救えなかった命の重みを、私は生涯、この背に負って生きていくことになるでしょう。……この『黄金のキング』が象徴する、悲しい真実と共に」
蓮見は証拠品として、黄金のキングの駒を警部に差し出した。それは、彼にとって名探偵としての地位を不動のものにするための、最後の「チェックメイト」だった。警察当局にとって、蓮見はもはや単なる協力者ではなく、この凄惨な事件を解決に導き、生存者を守り抜いた救世主となったのだ。彼は、誰にも暴かれることのない「英雄」という名の鎧を纏い、島を後にする準備を整えた。
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