第五章 定石


二人の死者を出した翌朝、嵐はわずかに勢いを弱めたものの、依然として島は厚い雲の下に閉じ込められていた。

 蓮見は寝不足の目をこすることもなく、館の書斎で膨大な古い資料を読み耽っていた。傍らでは、阿久津が心配そうに温かいコーヒーを差し出している。

「先生、何か分かりましたか?」

「ええ。この『六駒館』が建てられた二十年前、ここで何が起きたのか……その一端がね」

 蓮見が広げたのは、色褪せた一枚の新聞記事の切り抜きだった。そこには、若き日の九条兼重と、一人の少年の写真が載っていた。

 二十年前、九条兼重はチェスの世界王者として君臨していた。しかし、その座を脅かす一人の天才少年が現れた。名前は瀬戸晴希(せと はるき)。兼重は彼をこの館に招き、非公式の対局を行ったという。だが、対局の最中に少年は謎の失踪を遂げ、兼重もまた、その日を境に現役を引退した。

「失踪……ですか。まさか、今回の事件はその復讐だと?」

 阿久津が声を潜める。

「可能性はあります。瀬戸晴希に縁(ゆかり)のある人物が、この中に紛れ込んでいるのかもしれない。阿久津さん、九条家の親族の中に、当時を知る者、あるいは瀬戸家と繋がりのある者はいますか?」

 その時、書斎の扉が激しく開かれた。

「……そんな昔の話、今更持ち出してどうするのよ!」

 立っていたのは、九条絵里奈だった。彼女の瞳には、明らかな動揺が走っている。その後ろから、慎二も苦々しい顔で姿を現した。

「探偵さん、あんたは遺産を守るために呼ばれたはずだ。過去を掘り返すのが仕事じゃないだろう」

「慎二さん。過去を無視して現在(いま)の事件は解けません。……九条兼重氏は、瀬戸少年に勝つために、何か『不正』をしたのではないですか? そして、それを貴広さんやあなた方は知っていた」

 蓮見の静かな追及に、絵里奈が突然、狂ったように笑い出した。

「不正? あんなの、ただの遊びよ! あのガキが勝手にいなくなっただけ。お父様が苦しんだのは、あの子のせい……。それを今更、死体まで増えるなんて!」

 絵里奈は震える手で首元のペンダントを握りしめた。その様子は、恐怖というよりは、長年隠し続けてきた膿が溢れ出したような、醜悪な拒絶反応に見えた。

 蓮見はその光景を、冷徹な観察眼で見つめていた。

(白と黒の境界線が、崩れ始めている……)

 その日の午後。蓮見は館の庭にある、チェスの駒を模した巨大な石像の並ぶ回廊を歩いていた。そこには、里中志保が一人で佇んでいた。

「志保さん。あなたは、この館の過去について、何か聞いていませんか?」

 志保は小さく肩を竦め、消え入りそうな声で答えた。

「……母から、聞いたことがあります。あの少年は、この館のどこかに『閉じ込められている』って。彼が負けたのは、九条さんが彼の飲み物に薬を混ぜたからだって……」

 蓮見は志保の横顔を見つめた。彼女の瞳には、深い哀しみと、何かに怯える色が混ざり合っている。

「ありがとうございます。……志保さん、あなたも気をつけて。犯人は、罪を隠そうとする者だけでなく、罪を知る者も狙うかもしれません」

 蓮見が志保と別れ、本館へ戻ろうとした時だった。

 背後で、「ガシャン!」という派手な破壊音が響いた。

 急いで振り返ると、回廊の先にある「ルーク(城壁)」を模した展望塔の窓が割れ、そこから一人の人影が落下していくのが見えた。

「きゃあああああ!」

 志保の悲鳴が上がる。

 地面に叩きつけられたのは、九条家の長女、絵里奈だった。

 彼女の喉には、鋭いガラスの破片が突き刺さり、噴き出した鮮血が白地のドレスを無残に染め上げている。

 そして、彼女の亡骸のすぐ横には。

 真っ二つに割られた『白のビショップ』が、まるで断罪の印のように転がっていた。

「ビショップ……僧正の裁きか」

 蓮見は駆け寄り、絶命した絵里奈を無表情に見下ろした。

 周囲には誰もいない。高所からの突き落とし。これもまた、目撃者のいない不可能犯罪に見えた。

 蓮見は空を仰いだ。雨が彼の眼鏡を濡らし、表情を隠す。

「……これで、残る駒はわずかだ」

 その言葉は、悲劇を嘆く探偵のものか。

 それとも、計算通りの「戦果」を喜ぶプレイヤーのものか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る