第6話 深淵の公爵と、規範という名の呪縛
深夜、静まり返った店内に響くのは、冷蔵庫の唸りと、執拗に繰り返される人間の怒鳴り声だった。 アリス(ベリアル)は、レジカウンターで眉間に深い皺を刻み、目の前でネチネチと言葉の毒を吐き散らす中年男を凝視していた。
「……だからぁ、さっきから言ってるだろ? 温めが足りないんだよ。人を馬鹿にしてんのか?」
客である男の不満は、もはや因縁のレベルだった。アリスの視界では、この男の魂は澱み、ひどく矮小な魔力しか持っていない。地獄であれば、一瞬で肉塊に変えて魂を喰らい尽くし、それで終わる案件である。 このような、相手の力を知ることも敬意を払うこともできない生物なら、力に従い、征服できる下級悪魔どものほうが何倍もマシだとアリスは思った。だが隣に立つ佐藤は驚くほど平然とした顔で頭を下げ続けていた。
「申し訳ございません。すぐに温め直しますね。……他にお気づきの点はございますか?」
佐藤が辛抱強く話を聞き、男の承認欲求を満たしてやると、あれほど息巻いていた男は「……まぁ、次からは気をつけろよ」と、どこか満足げに去っていった。
「……信じられん。サトウ、貴様は聖者か何かか?」
アリスが呆れ果てて呟くと、佐藤は肩をすくめた。 「力で解決したら、明日から店が開けなくなるだろ。人間社会は面倒なんだよ」
その後、アリスが棚の陳列をしていると、赤ら顔の酔っぱらいが近づいてきた。 アリスは私服の上にエプロンという、いささかアンバランスな姿で働いている。その中性的な美貌は、酒で理性を失った人間にとって、格好の標的となった。
「おっ、ねーちゃん、かわいいねぇ……。こんなとこでバイトしてないで、俺と一杯どうだ?」
男がアリスの肩を抱き寄せようと、汚れた手を伸ばす。 アリスの瞳が、黄金色の殺意に染まった。
「……死にたいか、痴れ者が。その不浄な腕、根元から焼き切ってくれるわ!」
アリスが指を鳴らし、不可視の魔界の炎を召喚しようとした瞬間。背後から飛んできた佐藤が、アリスの腕をガシッと力任せに抑え込んだ。
「だめだアリス! 手を出すな!」
「放せサトウ! この無礼者が我が聖域を汚したのだぞ!」
佐藤に抑え込まれているのをいいことに、酔っぱらいは調子に乗った。 「なんだよ、威勢がいいなぁ! サービス業だろ? ちゃんと客をおもてなししろよ。まったく最近の若えのは……」
ハラスメント発言を連発する男に、佐藤の目にも流石に冷たい色が混じり始めた。 「……お客さん、いい加減にしてください。言い過ぎですよ」
その時、自動ドアが開いた。入ってきたのは、夜間巡回中か休憩中か、制服を着た一人の警察官だった。 「どうかしましたか?」
警官が静かに声をかけた瞬間、それまで態度の大きかった酔っぱらいの顔から、傲岸不遜な態度が消えていった。 「……っ、いや! なんでもないですよ! ちょっと冗談を言ってただけで……。じゃあ!」
男は商品を放り出すようにして、そそくさと店を逃げ出していった。 「なっ……、逃げるな貴様! 決闘だ!」 叫ぶアリスを「あ!何でもないんです!お巡りさん!すみません!決闘とかやらないんで大丈夫です!ははは……!」と佐藤が作り笑いをしながら抑え込む。
警官が「何かあったら遠慮なく通報してください」と言い残して立ち去ったが、その後もアリスは納得のいかない表情を続け、佐藤に詰め寄った。
「解せぬ、サトウ。説明しろ。あの男は、私の威圧(魔力)にも、貴様の警告にも従わなかったのに、あの青い服の男……特別な力も感じぬあの男が現れた瞬間、なぜ怯えたように逃げたのだ?」
佐藤は酔っぱらいが放り出した商品を拾い上げ、片付けるために店内を歩きながら答えた。 「あいつが怖がったのは、あの警官そのものじゃない。その背後にある『法律』とか『社会規範』っていう、目に見えないルールだ」
「ホウリツ……キハン……?」
「そう。クレーマーにとって、店員は『自分より弱い立場』に見える。だから何をしてもいいと思い込む。でも警官は『人を裁ける立場』だ。人間社会は、そういう目に見えないヒエラルキーに弱いんだよ」
アリスは困惑した。魔界にも法はあるが、それは「強者が弱者を喰らう」という明快なパワーに基づいている。しかし人間界では、力の弱い者が「客」という看板を掲げて強者を侮辱し、また別の「法」の盾を持った者がそれを制する。
「私やサトウは、いわばこのコンビニという要塞の主……その代理であろう? ならば訪れる者こそ、頭(こうべ)を垂れるべきではないのか。なぜ我らが、あのような無礼者のために腰を低くせねばならん!」
「客が来なくなったら、この店は潰れる。店が潰れたら、俺たちの給料もなくなる。だから『サービス』っていうのは、一定の妥協が必要なんだよ。クレーマーは、その『腰の低さ』を弱点だと思って漬け込んでくるんだ」
佐藤の達観した説明に、アリスは憤慨した。
「戦であれば、要塞を訪れる使者とて無礼があれば死をもって償わされる! あのような振る舞い、もはや客人として扱うに能わぬ!」
「……まあ、それは一理あるな。次から度が過ぎる奴は、もっと『客』として扱わないようにするか」
商品を棚に戻し終え、二人でレジカウンターへと戻った。
「そうだ。お前用の制服、ようやく届いたぞ」
佐藤がバックヤードから、ビニールで梱包された新品の女性用制服を取り出す。 「ずっと男の店員しかいなかったから取り寄せに時間がかかったけど。……まあ、私服にエプロンよりはマシだろ。変な奴に絡まれる確率も少しは減るはずだ。……たぶん」
制服を手渡され「え……?」と固まるアリス。
数分後。 レジには、サイズが少し大きいコンビニ制服に身を包んだアリスが立っていた。 髪をまとめ、名札を胸につけたその姿は、どこからどう見ても「深夜のコンビニ店員」そのものだ。
「……イラッシャイマセー」
アリスは死んだような目で、棒読みの挨拶を繰り返した。 かつて魔界で恐れられた「深淵の公爵」は、人間社会のヒエラルキーという迷宮に、また一歩深く取り込まれてしまったのである。
「似合ってるぞ、アリス」
「……黙れ、サトウ。貴様の魂の台帳から、私の精神的苦痛を償わせてやるからな……」
魔族のプライドを制服という規律で縛られながら、アリスは今夜も、目に見えない「規範」という名の怪物が支配する世界に立つのであった。
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