第5話 深淵の公爵と、虚構の貨幣
「……解せぬ」
アリスがポツリと溢した。隣で賞味期限切れの廃棄弁当を選別していた佐藤が、手を止めずに返す。
「何がだよ。その一万円、偽札か?」
「いや。……この紙切れだ。精巧な細工は認めよう。だが、材質はただの紙。金や銀のような、それ自体が持つ重みも輝きも、呪符のように特別な力すらも込められてはいない。なぜ、この無価値な紙と、私の愛する『肉まん』を交換できるのだ?」 (人間は、集団で幻術にでも掛かっているのか?)
佐藤は「あー、そこからか」と苦笑しながら、作業の手を休めてカウンターに寄りかかった。
「最初は金貨とか銀貨だったんだよ。でも、それだと持ち運びが重いし、作るのにも金銀が必要だろ? だから代わりに、より安価な金属に変えたり、紙の『預かり証』を発行したりしたんだ。昔は『この紙を持ってきたら金と替えてあげるよ』っていう約束で流通してた。……でも、ある時気づいたんだ。誰も金に替えに来ないなら、もう『この紙自体に価値がある』ってことにしちゃえば良くね? ってな」
アリスは絶句した。
「……何だと? つまり、金銀や宝石でもないのに、紙に価値があると、全員が思い込んでいるだけだと言うのか?」
「そう、信用だよ。みんなが『これは一万円の価値がある』と信じてるから、一万円になる。一種の集団催眠みたいなもんだな」
アリスの背筋に冷たいものが走った。 幽界の契約は、常に等価交換だ。魂の重さ、魔力の多寡、それこそが絶対的な価値の基準である。しかし、人間の経済は「目に見えない合意」という、あまりにも危うい土台の上に築かれている。
「だが、それは『偽りの価値』ではないか! もし明日、誰かが『この紙はただのゴミだ』と言い出したらどうなる!」
「ああ、実際にあるよ。ハイパーインフレーションってやつだ。朝には百ドルで買えたパンが、夕方には二万ドル払わないと買えなくなる。紙幣の価値が半日で半分以下になるんだ」
「……なんだそれは……? 謎かけか?」
アリスは混乱した。パンの価値が朝晩でそんなに変動するなど、時空の歪みに等しい。
「謎かけじゃない。それが実際の紙幣の怖さだ。市場が『この紙、もう信用できないわ』と思えば、一瞬でただの燃えるゴミになる。仮想通貨の相場なんかもっとひどいしな」
「怖くないのか!? なんだその虚構的な価値は!! 汝ら人間は、そんな不安定な薄氷の上で文明を築いているというのか!?」
驚愕するアリスに、佐藤はさらに追い打ちをかけるように、財布から一枚のプラスチックの板を取り出した。クレジットカードだ。
「もっとすごいのもあるぞ。これは『存在しない金』を使える魔法の板だ。今、金を持ってなくても、未来の自分が稼ぐはずの金を前借りして買い物ができる。さらに『リボ払い』って言って、借金を細切れにして永遠に払い続けるシステムや、ATMから現金を直接引き出す『キャッシング』……まあ、どれも魂の前借りだな」
佐藤はアリスを裏社会の住人だと思っているので、少し声を潜めて続けた。
「お前のいた『裏の世界』でも、闇金とかそういうのは日常茶飯事だったんだろ?」
「……。……断じて、ない」
アリスは顔を青白くさせ、ガタガタと震えながら首を振った。
「断じてないぞ、サトウ!! 私の世界の契約書ですら、もっと誠実だ! 魂を対価に力を与える。それは明確な取引だ! だが、なんだその『リボ』とかいうのは……。未来の自分を食いつぶし、存在しない価値を増殖させ、返せぬ者に更なる虚構を積み上げる……。そんな恐ろしいシステム、存在せぬわ!!」
「えっ、闇社会よりエグいの、オモテの経済……。まぁあんまり変わらんとは昔から思ってたけど……」
佐藤は少し引いたが、アリスの恐怖は本物だった。 彼女の目には、店内の隅に鎮座するATMが、今や「人間の欲望と虚構を吐き出す異界の門」に見えていた。中から紙切れを出し入れする人間たちが、呪神を崇める狂信者のようにすら思える。
「……アリス、そろそろ床掃除の時間だぞ。ほら、モップ持って」
「嫌だ! 近寄りたくない! あの箱(ATM)は不吉すぎる! 空間の因果がねじ曲がっているぞ!」
「いいから! 機械にビビってんじゃねえよ!」
その日の深夜、サニーマートには、ATMを避けようとして不自然なステップでモップを掛ける「元魔界公爵」と、それを「掃除の仕方がなっとらん!」と怒鳴りつける「最強の店員」の姿があった。
人間の「信用」という名の魔法は、最強の悪魔ですら戦慄させる、最も邪悪で不可思議な術であった。
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