第7話 深淵の公爵と、硝煙の慈善家
その夜の雨は、深夜の街を塗りつぶすように降り続いていた。 店先に一台の黄色いタクシーが停まり、重苦しい空気を纏った男が降りてくる。くたびれた黒のスーツに、湿り気を吸って重くなった白シャツ。傘も差さず、スーツの襟を立てたまま自動ドアを潜ってきたその男は、店内に充満する安っぽい蛍光灯の光をひどく嫌っているように見えた。
男は真っ直ぐレジに向かうと、ポケットからクシャクシャになったタバコの空き箱を取り出す。
「……これと同じやつを頼む」
最近では珍しくなった紙巻きの、それも見たこともない海外の銘柄だった。番号で呼ばずパッケージを見せるその所作には、コンビニのルールに馴染めない者の諦念が混じっていた。
アリスは無言でそれを受け取ると、レジ奥の陳列棚に視線を走らせた。煙草の知識などない。似た色のパッケージを順番に探していく。その手際の悪さに男が舌打ちするかと思ったが、彼はふいに視線を逸らし、誰に聞かせるともなく呟いた。
「……冗談だろ」
アリスは「タバコ探しが遅い」というクレームだと受け取り、反射的に言い返そうとした。だが、男の視線はアリスの瞳の奥、その背後にある「深淵」を正確に射抜いていた。
「こんなところで何してる」
「はい……?」
「地獄の住人がコンビニでバイトか? 笑えるね」
アリスの背筋に、これまでにない鋭い悪寒が走った。 自分の正体を、この「人間」は理解している。即座に男の魔力を測ろうと意識を研ぎ澄ませたが、やはり何も感じない。霊力も、魔力も、神聖な気配すらも。どう感知しても、目の前の男はどこにでもいる、正真正銘の「ただの人間」だった。
その事実が、逆に底知れぬ恐怖を抱かせた。
「……お前、何者だ?」
アリスの問いは、自らが超常の存在であることを認めるに等しかった。だが男は驚く様子もなく、ただ疲れたように笑った。
「『慈善事業家』のエクソシストさ。ただの悪魔祓いだよ」
レジカウンターを挟んで、一気に緊張が跳ね上がる。空間が歪み、現実と幽界の境界がひび割れようとしたその瞬間。
『ウィーン』と自動ドアが開くと同時に入店の音楽が流れる。 そこに立っていたのは、大天使ミカエルだった。外は土砂降りだというのに、彼のスーツには一滴の雨粒もついていない。まるで最初からそこにいたかのような自然さで、彼は男に話しかけた。
「ジョン、彼女は気にしなくていい。『上手くやっている側』だ」
来客の気配を察したのか、バックヤードから佐藤がひょいと顔を出した。
ジョンと呼ばれた男はミカエルを一瞥し、鼻で笑った。 「ああ、この国ではそういう姿か。……『上手くやっている側』、ね。どうかな、お前たちにしてみれば人間の都合なんてどうでもいいんだろ。ルールなんてクソくらえだ」
「お客さん、どうしました? タバコですか」
空気を読まず(あるいは読みすぎて)、佐藤が二人の間に割って入った。カウンターの空き箱を手に取り、まじまじと眺める。
「……これ、海外の銘柄じゃないですか。うちには置いてませんよ」
男は天を仰いだ。 「なんだって。……タバコなしでやってられるかよ」
その呟きは、店への不満ではなく、この救いようのない世界そのものへの毒づきのように聞こえた。 男が深く息を吐き、間を置く。 「なら、近い感じのやつをくれ。……何がいい」
佐藤もタバコには詳しくない。困った顔をする佐藤に、ミカエルが横から助け船を出した。 「……なら、その五番のやつだね」
男は財布を取り出し、札をカウンターに置いた。 「なんて銘柄なんだ。次のために覚えるよ」
会計を淡々とこなすアリスを、男はもはや気にも留めていない様子だった。
ミカエルが答える。「『ピース』だよ」
男は渡されたパッケージを眺め、自嘲気味に口角を上げた。 「Peace……平和か。神は皮肉が効いてるよ」
男はその場でパッケージを破り、一本を咥えるとライターを取り出した。 「あ、すみません。店内は禁煙なので」 佐藤の声に、男は動きを止めた。
指先で弄んでいたジッポの蓋を、パチン! と乾いた音を立てて閉じる。男は無言で店を出ると、外の喫煙所で一服し、待たせていた黄色いタクシーに乗り込んで再び闇へと消えていった。
取り残された店内に、奇妙な沈黙が流れる。 「……なんだったのだ、あのアレは」 アリスが呆然と呟く。佐藤は「あ、搬送トラック来たわ」と、バックヤードへ引っ込んでいった。
ミカエルは、ドアの向こうの雨を眺めながら言った。 「わりと大変なことになると思ったけど、そうでもなかったな。彼は……少し疲れすぎているんだ。君もそう思わないかい?」
ミカエルはふと思いついたように、制服姿のアリスをチラリと見た。 「ところで。その制服、意外と似合ってるじゃないか」
嵐のような緊張感が通り過ぎた後のアリスの耳には、そのからかいの声も半分ほどしか届いていなかった。
「……ゴリヨウ、アリガトウゴザイマシター……」
アリスの口から出たのは、感情の抜け落ちた、しかし完璧な「店員の言葉」だった。
ミカエルが店を出ると、いつの間にか雨は止んでいた。
厚い雲が切れ、朝陽がビルの合間から街を刺すように照らし始めていた。
アスファルトの匂いが立ち上る中、コンビニの看板だけが、変わらぬ白さでそこにあった。
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