第14話「最初の味見」

【美春】


 後夜祭の終わりは、校庭のざわめきが「現実」に戻っていく時間だった。

 スピーカーの余韻が細くなり、誰かの笑い声がほどけ、靴音が増えていく。窓の明かりがひとつ、またひとつ消えて、校舎はゆっくり"学校の顔"に戻っていく。


 屋上は、その全部から少しだけ外れていた。

 コンクリートは昼の熱をもう手放していて、風が角を取られた冷たさで頬を撫でる。フェンス越しに見える校庭の光は、粒というより、薄い膜みたいに揺れていた。


 秋穂は、手すりのそばに立ったまま、下を見ている。

 私は、その隣に立つ。


 降りようと思えば、今すぐ降りられる。

 後夜祭の熱に混ざって、また"普通の顔"に戻ることもできる。


 でも――


 秋穂の手が、手すりの冷たい金属を握っている。その指先が、少しだけ震えているのが見えた。


「……降りなくていいの?」

 秋穂が、小さく言う。


「いいよ」

 私は即答した。

「まだ、ここにいたい」


 秋穂が、ほんの少しだけこちらを見る。

 視線が合う。今度は、逸らさない。


「……ありがとう」


 その言葉の意味が、私には分かった。


 ――一緒にいてくれて、ありがとう。

 逃げないでくれて、ありがとう。


 私は、秋穂の隣にゆっくりと腰を下ろした。コンクリートが冷たい。膝にジーンズの生地越しに冷気が染みて、太ももの裏がじわっと痺れる。


 秋穂も、少し遅れて座った。


 座るまでの一呼吸が、やけに長い。

 でも、座ったら――拍子抜けするくらい自然だった。


 肩と肩の距離は、手のひら一つ分くらい。

 触れそうで触れない。

 触れたら、今度こそ決まってしまう距離。


 秋穂は、まだ泣いたあとの目をしている。

 涙は拭いたはずなのに、まつげの先がわずかに光る。頬は赤くて、でもその赤さが"寒さ"のせいなのか"中身"のせいなのか、私は決めきれない。呼吸は落ち着いているのに、胸の奥だけがまだ揺れているのが、隣にいると伝わってくる。


 触れたら崩れそうで、触れないと消えそうで。

 私は、手を膝の上に置いたまま、そこから先に進めないでいた。


     ◇


【美春】


 下から、数を数える声がふっと届く。校庭のどこかで、誰かが合図を作っているらしい。続いて、短い沈黙。人が息を揃える瞬間の、あの妙に澄んだ間。


 それから、遠くで何かが弾けた。

 空のどこかで破裂した光は、屋上まで届くともう"音"よりも"反射"になっていた。窓ガラスが一瞬白くなり、フェンスの影が足元で細く踊る。遅れて、ぱん、と乾いた音が来る。つづけざまに、もう一つ。煙の匂いが風に混じって、ほんの少しだけ焦げた甘さがした。


 私は秋穂と並んだまま、その気配を受け取る。

 見上げても、すべてが見えるわけじゃない。校舎の屋根が邪魔して、光の中心は隠れてしまう。けれど、隠れているからこそ、よけいに"そこで起きている"ことだけが鮮明になる。


 肩が触れそうで触れない距離。

 触れたら、今度こそ決まってしまう距離。


 今日は――決める日だ。


 私が撤回した日。

 秋穂が泣いた日。

 そして、ふたりが自分たちで選び直す日。


 秋穂の手が、膝の上で強く握られている。指先が白くなるほど。私は自分の手を、ほんの少しだけ近づけた。重ねない。けれど、逃げられない位置に置く。


 秋穂が、息を吸って、吐く。

「……美春」

 呼ばれた名前は、風にさらわれそうで、でもちゃんとここに残った。


「うん」

 短い返事に、心臓が小さく跳ねる。


 秋穂は視線を前に置いたまま、続ける。

「美春が……私を選ぶって言うなら」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


 "選ぶ"。


 あの日、私がいちばん苦手なことを口にした言葉。

 秋穂が受け取ってしまった言葉。


 秋穂は、喉を鳴らしてから言った。

「私はもう、一人に戻れない」

 声が震える。でも、逃げる震えじゃない。

「戻れないって言うのは……弱いってことだと思う」

「でも」


 秋穂の唇が、ほんの少しだけ歪む。

「……美春に"特別"って言われたら、戻れない」


 冷たい空気を吸ったのに、胸の中だけが灼けるみたいだった。

 私は、その言葉の重さをちゃんと受け取った。


 秋穂は今、代償を言語化している。

 "私を選んだら、こういうリスクがある"って。

 それを先に言ってしまうのが、秋穂の癖だ。


 怖くなったら突き放す。

 期待を裏切る前に、自分から諦める。

 それが秋穂の生き方だったから。


 でも、今は違う。


 秋穂は、怖がりながらも――ちゃんと、ここにいる。

 私に、リスクを見せている。

 隠さないで。


 それが、どれだけ勇気のいることか。


「戻らなくていい」

 言葉は、思ったよりもまっすぐに出た。

「私も……戻りたくない」


 秋穂が、ゆっくりこちらを向く。

 光がまたどこかで弾けて、秋穂の瞳に小さな白が映る。その白が揺れているのを見た瞬間、私は思った。


 ――私は、この人を守りたい。


 夢だけじゃない。

 孤立の癖も、自己否定も、ちゃんと抱えたままの秋穂を。

 "直ったら好き"じゃなくて、"今のまま"を。


 秋穂は唇を噛んで、それでも言葉を落とした。

「でも、私……美春を傷つける」

「怖いと、突き放す」

「自分が悪いって先に決めて、先に諦める」

「追いかけてもらっても、信じきれない」


 秋穂が一度だけ目を閉じて、また開く。

「そういうの……変わらないかもしれない」

「美春が傷ついて」

「それで、美春が離れて」

「私が、また一人になる」


 その言葉が、胸に刺さる。


 ――変わらないかもしれない。


 それは未来の不安で、代償の匂いだった。軽い恋の話じゃない。口にした瞬間に責任が増える、重い言葉だ。

 私は、その重さを見てしまったからこそ、逃げたくなった。


 ――また、薄く生きたくなる。


 でも。


 薄く生きて、秋穂を失うのは、もう嫌だ。


 私は秋穂の手を見た。握りしめられた指の関節が、こわばっている。お菓子を作る手。粉の感触も、熱の加減も、きっと誰より知っている手。なのに今は、どこに力を入れていいのか分からなくて、ただ自分を痛めつけている。


 私は、言葉より先に、少しだけ身体を近づけた。

「……その"変わらないかもしれない"も、ちゃんと聞く」


 秋穂が目を見開く。


「怖くなるのも、突き放すのも、諦める癖があるのも――全部、秋穂の一部でしょ」

「それで、私が痛い日が来るかもしれない」

「たぶん、来る」


 私は小さく笑った。笑って誤魔化したいからじゃない。ここで笑わないと、自分がまた逃げるから。

「でもね、秋穂」


 私は、自分の手をゆっくり持ち上げた。膝の上から、ほんの数センチ。世界でいちばん短い距離が、いちばん長い。

「痛いって分かった上で手を取るほうが、私は――ずっと正直だと思う」


 "傷ついてもいい"なんて、簡単に言いたくない。

 痛いのは怖い。泣くのは嫌だ。置いていかれるのは、もっと嫌だ。


 だからこそ、私は言い方を変える。

「秋穂が手を離しそうになったら、私がもう一回、握り直す」

「逃げ道みたいに嘘をつくのは……もうやめる」

「秋穂のことを"特別"って言ったの、撤回しない」


 私は、秋穂の目をまっすぐ見た。

「撤回しないから――秋穂も、私から撤回しないで」

 秋穂のまつげが揺れた。喉が動く。言葉が詰まる音がした。


 遠くでまた光が弾けて、校舎の壁が一瞬明るくなる。音は遅れて届き、空気を少しだけ震わせた。


 秋穂が、かすれた声で言う。

「それ……ずるい」


「うん」

 私はうなずいた。

「ずるいくらいじゃないと、私はまた"平気な顔"しちゃう」

「それで秋穂を一人にしたら……私、今度こそ自分が許せない」


 秋穂が息を吐く。それは、諦めの息じゃない。決める前の、最後の呼吸だ。


 秋穂の視線が、私の手に落ちる。

 そして、ゆっくりと、その手が伸びてきた。

 指先が触れる。ひんやりしているのに、触れた場所だけ熱い。秋穂の指が、私の指を探って絡める。掴むというより、確かめるみたいに。確認しながら、それでも離さない。


 私は、その感触に呼吸を忘れた。


 秋穂の視線が、私の手から――ゆっくりと上がってくる。

 指先。手首。腕。肩。首筋。


 そして、私の唇に落ちる。

 ほんの一瞬。けれど、その一瞬に全部が詰まっている。


 私の心臓が、音を立てた。

 秋穂の呼吸が、一度だけ止まる。

 風が、二人の間を通り抜けていく。

 冷たいはずなのに、頬が熱い。


 秋穂が、震える声で言った。

「……最初の味見、してくれる?」


 一瞬、意味が追いつかない。

 次の瞬間、胸の奥が甘く痛くなった。


 最初の味見。


 それは、秋穂が作ったものを私が最初に食べる、ただの役割じゃない。

 評価じゃなく、共有。

 "ここにいていい"を確認するための合言葉。


 それを――今、秋穂が、私に向けて言った。


 お菓子じゃない。

 秋穂自身を。


 私は、笑った。

 薄く溶ける笑いじゃなくて、舌に残る笑い方で。

 秋穂の目が揺れて、ほんの少しだけ口角が上がる。けれど、すぐに真顔になる。怖さと決意が同じ場所に並んでいる顔。


 秋穂が手を握ったまま、距離を詰める。


 冷たさが遠のく。遠くの歓声も、スピーカーも、靴音も、一枚ずつ布をかけられたみたいに薄くなる。残るのは、私と秋穂の呼吸の重なりだけ。


 秋穂の顔が、近い。

 まつげの一本一本が見える。

 目の奥に、小さく私が映っている。


 秋穂が、私の額に触れそうなくらい近づいて、言った。

「……返事、待てない」


 その言葉が、"逃げ道を残さない"って意味だと分かってしまう。

 かつて私の嘘が壊したものを、今ここで作り直すみたいに。


 そして、秋穂が――来た。


 唇が、触れた。


 柔らかい。温かい。驚くほど静かで、だからこそ怖いくらい確かだった。


 私は一瞬、固まってしまいそうになる。


 でも――次の瞬間。

 私は、秋穂の手を握り返した。指を絡めたまま、逃げない力で。もう片方の手で、秋穂の頬に触れる。冷えているはずの肌が、触れた瞬間に熱を持つ。


 そして私は、遅れて"返事"をした。

 秋穂のキスに、ちゃんと返した。

 ただ受け取るんじゃなくて、こちらからも寄せて、確かめるように、もう少しだけ深く。


 ――これが、最初の味見。


 お菓子じゃない。

 秋穂の。


 短いのに、確かに世界の温度が変わる味。


 甘いというより――温かい。

 温かいというより――やさしい。

 やさしいというより――痛い。


 痛いのに、離れたくない。

 息が混ざるのが怖くて、でも怖いのに離れたくなくて、私は秋穂の頬を包む指に力を込めた。


 秋穂の唇が、ほんの少しだけ動く。

 キスの中で、言葉を探しているみたいに。


 それが、また胸を締めつける。

 時間が引き伸ばされたみたいに長くて、でも一瞬で終わってしまう。


 唇が離れた瞬間、私は息を吸った。

 冷たい空気が肺に入ってくるのに、さっきよりずっと甘く感じる。


 秋穂の顔が近い。

 頬が赤い。

 目が潤んでいて、今にも逸らしそうで、でも逸らさない。


 秋穂が、小さく笑って、すぐに困った顔になった。

「……今の、ずるい」


 私は、思わず息を漏らした。

「秋穂が言う?」

「だって……返事、待てないって言ったのに」

「待てなかったのは秋穂でしょ」


 秋穂が一度だけ目を閉じて、開いた。

「……そう」

「でも、美春」

 声が、少しだけ現実に戻る。

「これ……クラスには言えない」


 秋穂の声が、少しだけ硬くなる。

「言ったら、面倒になる」

「からかわれる」

「噂になる」

「……私、耐えられないかもしれない」


 自己否定の影が、また秋穂の後ろに立つ。

 でも、今はその影に飲まれない。秋穂は"言える"。怖いことを、私に言える。言えるってことは、逃げる前に手を伸ばせているってことだ。


 私はうなずいた。

「うん」

「今は、内緒」


 秋穂が、少しだけ眉をひそめる。

「……ごめん」

 その"ごめん"が出る前から、私はもう返事を決めていた。


「謝らないで」

 私は、秋穂の手を握ったまま続ける。

「秘密にするのも、私が選ぶ」

「秋穂が怖いなら、私も怖い」

「だから、一緒に慎重になる」


 秋穂の目が揺れる。

「でも……それって、美春が我慢するってことでしょ」

「我慢じゃないよ」

 私は首を振った。

「大事にするって意味」

「大事に?」

「うん」


 私は自分の胸の辺りを指で軽く叩いた。

「二人だけの箱に入れておくの」

「割れやすいから、最初は丁寧に運ぶ」

「慎重にするのは、怖いからじゃなくて――壊したくないから」


 秋穂の唇が震える。

「……箱」


「そう」

 私は続けた。


「箱の中には、今日のこと全部入れる」

「秋穂が泣いたことも」

「私が撤回したことも」

「手を繋いだことも」

「……今、したことも」


 秋穂の目がまた濡れる。


「それって……重くない?」

「重いよ」

 私は即答した。

「でも、軽いものじゃないでしょ」

「軽く扱ったら、なかったことになっちゃう」

「私はそれが嫌」


 秋穂が、視線を落とす。

「……私も、嫌」


「だったら」

 私は秋穂の手を、指を絡めたまま持ち上げる。

「手は離さない」

「箱は隠すけど、捨てない」

「秋穂が準備できたら……そのとき、一緒に開ける」


 秋穂の目がまた上がってくる。

「開けるって……言うってこと?」


「いつかね」

 私は頷いた。


「今じゃなくていい」

「秋穂が"言ってもいい"って思えるまで、私は待つ」

「でも、待ってる間も――箱の中身は、ちゃんとあるから」


 秋穂が、息を吐く。

「……美春、ずるい」


 私は笑ってしまった。

「ずるくないと、秋穂を守れない」


 秋穂が、泣きそうになる顔なのに、崩れない。崩れそうな部分を、今は私が支えられる気がした。


     ◇


【秋穂】


 美春の顔が、近い。


 さっきまで泣いていた私の目を、美春は逸らさない。

 逃げない。

 それが、怖い。


 怖いけど――嬉しい。


 私は、ずっと"一人でいる方が楽"だと思っていた。

 期待しなければ、裏切られない。

 傷つく前に、自分から離れる。


 それが、正しいと思っていた。

 でも、美春は違う。


 美春は、私の"変わらないかもしれない"を聞いて――それでも手を取ると言った。

 痛いかもしれないのに。

 傷つくかもしれないのに。


 そんなの、ずるい。


 私の手を、美春は温かい手で包んでいる。

 冷えていた指先が、少しずつ熱を取り戻していく。


 美春の唇は、少しだけ震えている。

 怖いのは、私だけじゃないんだ。


 美春も、怖がってる。

 それなのに、逃げない。


 ――だったら、私も。


 私は、美春の頬にそっと触れた。

「……美春、もう一回って言ったら、怒る?」

 その言葉が出た瞬間、自分で驚いた。

 私が、こんなこと言うなんて。


 美春が、笑った。

 今度は、隠さない笑い。


「怒らない」

「でも、今は……我慢できる?」


 我慢、できない。


 でも――


「……できる」

 私は頷いた。


 今すぐじゃなくていい。

 この手の温度だけで、十分だから。


     ◇


【美春】


 秋穂が、少しだけ笑う。


「えらい」

 私は、思わず言ってしまった。


「子ども扱いしないで」

 秋穂が、少しだけ膨れる。


「してない」

 私は指を絡め直した。

「ただ、すごく……大事にしたい」


 秋穂が、息を飲む。言葉が出ない。だから私は、代わりに言った。


     ◇


【美春】


「最初の味見ってさ」

 秋穂が、私の言葉を待つ。

「最初だから、特別なんじゃないよね」

「……うん」


「"いつも"って言えるようにするための、最初なんだよね」

 秋穂が、ゆっくりうなずく。

「……うん」

 そして、小さく言った。

「いつも、美春に」


 その言い方があまりに真っ直ぐで、私はまた胸が熱くなる。

「ねえ、秋穂」

「なに」

「今日のこと、明日になっても消えない?」

「消えない」

 即答だった。

「消したくない」


 私はその答えに、安心してしまうのが怖かった。安心って油断だから。油断って、また逃げる入口になるから。

 だから私は、もう一つだけ、ちゃんと自分から言う。

「私も、消さない」

「もし、私がまた怖くなって変な顔したら……引っ張って」

「今日みたいに」


 私は秋穂の手を少し持ち上げた。

「返事、待てないって」


 秋穂が、ほんの少しだけ笑う。

「……言わない」

「え」

「言わないで、する」

「……それは反則」


 秋穂が目を細める。その顔が、少しだけ"幸せ"に近い。


「でもさ、秋穂」

「なに」

「"いつも"って、どういうこと?」

 私は、少しだけ真面目な顔で聞いた。


 秋穂が、視線を落とす。

「……分かんない」

 正直な答えだった。

「でも」


 秋穂が、また顔を上げる。

「美春が喫茶店に来るたびに、最初の味見をしてもらう」

「それが"いつも"になればいいなって」


 その言葉が、胸に染みた。

「うん」

 私は頷いた。

「それ、いい」

「約束」


「……約束」

 秋穂が、小さく繰り返す。


 遠くで、最後の大きな光が上がる。校庭のどこかが一瞬だけ昼みたいに明るくなって、歓声が遅れて届く。屋上の影が足元で揺れ、また静かになる。


 秋穂が、私の頬に触れようとして――途中で止めた。

「……触っていい?」


 その問いが、胸の奥をぎゅっと締めた。

「いいよ」


 答えた瞬間、秋穂の指先がそっと頬に触れた。さっき私がしたみたいに、確かめるみたいに。


 校庭の喧噪はもう薄く、風の音だけが屋上を撫でる。煙の匂いも流れていって、代わりに秋の夜の乾いた匂いが戻ってくる。


 私たちは手を繋いだまま、しばらく何も言わない。

 何も言わなくても、手の温度だけで足りる時間が、確かにある。


 秋穂が、小さく言った。

「美春、ありがとう」


 その声は、今まででいちばん柔らかい。


 私はうなずいて返す。

「私も」

「秋穂に会えてよかった」

「喫茶店に行ってよかった」

「……自分で決めてよかった」


 秋穂が、少しだけ頷く。

「……よかった」

「一人じゃなくて、よかった」


 私はその言葉を胸に落として、見えない光の残り香が漂う空を見上げた。


     ◇


【美春】


 空は、もう完全に夜の色になっていた。


 星が、いくつか見える。

 冬の星座は、まだ見えない。

 でも、もうすぐ見えるようになる。


 風が、また吹いた。

 さっきより冷たい。

 秋の終わりが、少しずつ冬に変わろうとしている。


 肌寒い。

 でも、秋穂の手は温かい。


 季節は確かに進む。

 この先、冬が来る。

 きっと、怖い日も来る。


 それでも――


 秋穂が、小さく言った。

「……そろそろ、降りる?」


「うん」

 私は頷いた。

「明日、また喫茶店に行く」


「……うん」

 秋穂が、少しだけ笑う。

「マスターに、報告する?」


「しない」

 私は即答した。

「箱の中だから」


「……そっか」

 秋穂が、手を離そうとする。


 でも、私は離さなかった。

「階段まで、このままでいい?」


 秋穂が、驚いたように私を見る。

「……いいの?」


「誰もいないし」

 私は笑った。

「それに、まだ離したくない」


 秋穂の頬が、また赤くなる。

「……ずるい」


 私は、その言葉がもう嫌じゃなかった。

 むしろ、秋穂が"ずるい"って言うたびに――私は、ちゃんと秋穂を選んでいる気がした。


 私たちは、手を繋いだまま立ち上がった。

 膝に残ったコンクリートの冷たさが、ゆっくり消えていく。


 屋上のドアを開けると、廊下の明かりが目に染みた。

 でも、階段を降りるまでの間――私たちは、手を離さなかった。


 階段の踊り場で、秋穂が立ち止まる。

「……ここで」


「うん」

 私は頷いて、手を離した。


 指先が離れる瞬間、少しだけ寂しい。


 でも、大丈夫。

 また明日、喫茶店で会える。


 秋穂が、小さく笑った。

「……また明日」

「うん、また明日」


 私たちは、そこで別れた。


 廊下の蛍光灯が、やけに白く見える。

 後夜祭の音は、もうほとんど聞こえない。


 私は、階段を降りながら思った。


 ――今日は、特別な日になった。


 撤回の日。

 涙の日。

 手を繋いだ日。

 そして、最初の味見の日。


 この先、何が起きるか分からない。

 怖い日も、きっと来る。


 でも、今は――


 口元に残る"秋穂の味"と、手に残る温度だけで、十分だった。


 それから、季節は流れて――


 冬が、やってくる。

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最初の味見は、いつも君に kokubo @kokubox

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