第13話「撤回の言葉」

 後夜祭が始まる合図は、校舎の中の熱がいっせいに外へ押し出される音だった。

 校庭のスピーカーから流れる低いベースが、コンクリートの壁をゆっくり震わせる。廊下には私服の生徒があふれ、制服の頃より少しだけ大胆な笑い声が反射して、天井の蛍光灯がやけに白く見えた。


 私はその流れに逆らって走っていた。

 目的地は決めてある。迷う暇は、今日の私はもう持たない。


 昼間、香織さんに言われた。

『秋穂は、あなたを信じている』

 その言葉が胸に刺さって抜けなくて、息をするたび痛んだ。

 そしてマスターが、私の顔を見抜いて言った。

 成功は"売れたかどうか"じゃなくて、"誰と笑ったか"で味が変わる、と。


 ――だったら、私がすることは一つだ。

 空気に負けた言葉を、剥がす。

 薄くして逃げた私自身を、引き戻す。


 階段を駆け上がる。三階の踊り場で息が乱れる。けれど足は止まらない。

 屋上へ続く扉の前には、いつもなら近づかない「立入禁止」の札がぶら下がっている。札が夜風で小さく揺れて、かすかな紙の音を立てた。


 私はドアノブを握った。金属がひんやりして、指先の熱を奪う。

 一瞬だけ怖くなる。

 ここで扉を開けたら、もう戻れない気がした。


 ……でも、戻りたい場所なんて、もうない。


 ギィ、と乾いた音。

 扉の向こうから夜風が流れ込んで、頬を撫でた。汗が一気に冷えて、肌の表面が細かく粟立つ。秋の気配が混じった風だ。昼間の熱を洗い流すみたいに、冷たくて、清い。


 屋上は薄暗い。校庭の照明が遠くで揺れて、音楽がここまで届く頃には、ひとつ膜をかけたみたいに丸くなっていた。

 その静けさの中で――


 フェンスの近くに、秋穂がいた。


 一人。

 背中をこちらに向けて、校庭の光をただ見ている。

 肩のラインが細く見える。髪が風にほどけ、ゆっくり揺れる。

 その背中が、今日一日でいちばん遠い気がした。


 私は喉の奥に息を溜めて、名前を呼ぶ。


「……秋穂」


 肩がわずかに動く。

 振り向かないまま、短く返事が落ちた。


「……なんで」


 声は冷たいというより、疲れている。

 "期待しない"に慣れてしまった音。


 私は一歩だけ近づく。距離を詰めるだけで胸が痛い。

 でも、痛いのは当然だ。私は痛みを避けるために、嘘を選んだ。


 背中が少しだけ硬くなる。


「……みんな、校庭にいる」

「うん」

「……美春も、そっちの方が――」


 秋穂が言いかけて止める。

 その途中で引き返す癖を、私は知っている。自分を守るための後退。自己否定の手前で口を閉じる癖。


 私は、そこで笑わなかった。

 誤魔化さなかった。

 "空気"に一度でも乗ったら、もう今日の私は負ける。


「話したいことがある」


 秋穂が、ゆっくり振り向いた。


 顔が、夜の光に浮かぶ。

 エプロンはもう外していて、制服のブラウスの襟が少し歪んでいる。髪も乱れている。長い一日の疲れが、肩の丸さに現れている。

 でも、目だけはこちらを見ている。逃げない目。


 その視線が、胸を刺す。

 秋穂の眉がほんの少し寄る。


 声が震える。でも、言葉は止めない。

「文化祭、成功した」

「……うん」

「秋穂のスイーツ、すごかった。みんな本当に喜んでた」

 秋穂の唇がかすかに動く。喜びの形じゃない。戸惑いの形だ。


「でも、私は――」

 言いかけて、言い直す。

 言葉の角度を間違えたくない。


「成功してるのに、私の中が空っぽだった」

「……」

「秋穂と話せない成功が、苦しかった」


 秋穂の目が揺れた。

 揺れて、すぐに硬くなる。


「私、頑張ったのに」

 少しだけ、声が上がる。

「それ、否定するの?」


 胸が締まる。

 私はすぐに首を振った。


「否定しない」

「秋穂が頑張ったのは、全部本物。あれは秋穂の味だった」

 "味"という言葉を使った瞬間、マスターの声が蘇る。

 味は、誰と作って誰と笑うかで変わる。


「……だからこそ」

 私は続ける。

「私は、ちゃんと秋穂に向き合わないと駄目だった」


 夜風がフェンスを小さく鳴らす。金属の擦れる音が、やけに鮮明に響く。

 校庭の歓声が遠くで膨らんで、またしぼむ。


 私は、息を吸った。

 ここからが本題だ。

 撤回。嘘の撤回。迎合の撤回。


 喉が乾いて、舌が重い。

 怖い。

 でも怖さを理由にしたら、また同じことをする。


 私は一歩、秋穂に近づいた。

 触れない距離。触れたら崩れそうな距離。


「秋穂。あの日、教室で……」

 言葉が震える。けれど止めない。


「『別に深い意味はない』って言ったの」

 秋穂の瞳が、ほんの僅かに見開かれる。


「『喫茶店で勉強見てもらってるだけ』って言ったの」

「……」

「秋穂の気持ちを勝手に決めたのも」

「……」

「全部、嘘」


 "嘘"という単語が空気に落ちる。

 屋上が一瞬、無音になる。

 遠い音楽さえ、薄くなった気がした。


 私は言葉を続けた。止まったら逃げる。逃げたら終わる。


「空気が怖かった」

「みんなの笑いに、逆らうのが怖かった」

「変だと思われるのが、怖かった」

「嫌われたくなくて、丸くしたくて……」

 息が苦しい。胸が焼ける。


「でも、怖いのは私で」

 私は唇を噛んで、言い切る。

「傷ついたのは、秋穂だった」


 秋穂の顔が固まる。

 固まったまま、目だけが揺れている。

 言葉が出ない。出ないのに、視線は逸らさない。


 ――受け取ろうとしている。

 その事実が、さらに私を追い込む。逃げたくなる。

 だから、逃げない。


「ごめん」

「私、優しいふりをした」

「"場を守る"って顔で、秋穂を切った」

「それで、秋穂が離れていくのを見て……追いかけたのに、また黙った」


 秋穂が、かすれた声で言う。

「……美春は、優しいから」

 震えている。怒っているのか、泣きたいのか、分からない震え。

「優しいから、みんなに合わせられるんだよ」


 私は首を振った。

 この否定だけは、絶対に曖昧にしない。


「違う」

「優しいんじゃない」

 言葉が自分の喉を切るみたいに痛い。

「ずるいだけ」


 秋穂の目が、また少し見開かれる。

 "ずるい"は自分に向ける刃だ。痛い。でも必要だ。


「傷つくのが怖くて、嫌われるのが怖くて」

「その怖さを、秋穂に押し付けた」

「秋穂が傷ついたのに、私はその場で撤回できなかった」

「それが、いちばんずるい」


 秋穂は視線を落とした。

 フェンスの下、暗いコンクリートの継ぎ目を見ている。

 指先が、制服の裾をぎゅっと握る。力が入って、白くなる。


 それから、ぽつりと落ちた。


「私も……」

 声が小さい。

「私も、勘違いしてた」


 私は息を止める。

 怖い。聞きたい。聞く。


「美春が、私を……特別だと思ってくれてるって」

 秋穂の口元が、笑おうとして失敗する。

「そう思った私が悪いって、ずっと思ってた」

「でも……」

 指が裾を掴む。離せないみたいに。

「期待したかった」


 その一言が、胸に沈む。

 秋穂は"期待しない"の鎧の下で、ずっと期待していた。

 私はその期待に、嘘で蓋をした。


 だから、今度は蓋を外す。


「特別だよ」

 私は言った。

 声は震える。だけど逃げない。


「秋穂は、特別」


 その言葉を、もう一度言う。

 何度でも言う。

 秋穂に届くまで、何度でも。


「私にとって――秋穂は、特別だよ」


 秋穂が顔を上げた。

 夜の光の中で、目が濡れている。涙が溜まって、落ちそうで、落ちない。

 必死に堪えているのが分かる。


「……どうして」

 声が掠れる。

「どうして、そんなこと言うの」

 問いかけの形をしているのに、答えを求めている声。

 否定されるのが怖い声。


「だって本当だから」

 私は、短く返した。

 長い説明をして逃げない。真ん中だけを言う。


「秋穂の夢を応援したい」

「秋穂の笑顔が見たい」

「秋穂の味を、いちばん最初に食べたい」


 私は一つずつ、言葉を重ねる。


「秋穂が困ってたら、助けたい」

「秋穂が泣いてたら、そばにいたい」

「秋穂がいない世界は、色が薄い」


 秋穂の唇が震える。


「それが、私にとっての"特別"」

 私は言い切る。

「秋穂は、私にとって、かけがえのない人」


 秋穂の目から、涙が一粒落ちた。

 落ちた瞬間、秋穂は驚いたみたいに瞬きをして、でももう一粒落ちる。止められない。静かに溢れてくる。


「……ずるい」

 秋穂が小さく言った。

「美春、ずるい」


「うん」

 私は頷いた。

「ずるかった。ずっと」


 秋穂は涙を拭こうともしない。

 ただ、立っている。

 泣いているのに、逃げない。

 それだけで、胸がいっぱいになる。


 私はあと半歩だけ近づき、そこで止まった。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 でも、触れるのはまだ早い。触れたら、言葉が薄まる気がした。


「私、もう」

 秋穂が言いかける。

「もう、期待しないって決めたのに」


 その言葉が、痛い。

 でも痛いのは、私が刺した傷がまだ生きている証拠だ。


「……ごめん」

 私はもう一度だけ言った。

「でも、撤回する」

「教室で言ったこと、全部」

「"深い意味はない"なんて、嘘だったって」


 私は、秋穂の目をまっすぐ見る。


「秋穂のことを、私はちゃんと――」


 秋穂の目が、大きく揺れる。


「今すぐ返事が欲しいわけじゃない」

 私は言う。

「言えないなら、言わなくていい」

「でも、聞いて」

「私はもう、空気に負けない」

「秋穂のこと、誰の前でも、ちゃんと言う」


 秋穂の涙がまた落ちる。

 そして、秋穂は震える声で、やっと言った。


「……私」

 言葉が途中で詰まる。

 自己否定が邪魔をする。

 それでも、秋穂は息を吸って――


 言いかけて、止まった。


「言えない」

 秋穂が小さく言う。

「今、言葉にできない」


 だけど私は分かった。

 秋穂は、受け取った。

 受け取って、今、言葉を探している。


「いいよ」

 私は言った。

「待つ」


 秋穂の目が、また揺れる。


「……待てる?」

「待てる」

 私は即答した。

「秋穂が言葉にできるまで、何日でも」


 でも、と私は続ける。


「今日だけは、一つだけ聞かせて」


 秋穂が息を吸う。


「私のこと……」

 私は声を震わせながら、でも逃げないで聞く。

「嫌いになった?」


 秋穂が、首を振った。

 小さく、でも確かに。


「……嫌いじゃない」


 その言葉だけで、胸がいっぱいになる。

 涙が出そうになる。

 でも、泣くのは後だ。今は、秋穂の言葉を受け取る。


「なら、それでいい」

 私は笑った。

 笑顔が震える。でも、本物の笑顔だ。


 屋上の冷たい風が、二人の間を通り抜ける。

 遠い花火の音みたいな拍手が、校庭から遅れて届く。


 秋穂が、少しだけ前に出る。

 一歩だけ。

 触れられる距離まで。


「……美春」

 秋穂が呼ぶ。

「はい」

「……ありがとう」


 その言葉が、胸に落ちる。

 甘い。甘いのに、苦い。


「こちらこそ」

 私は言った。

「秋穂が、受け取ってくれて、ありがとう」


 秋穂の目が、また潤む。

 でも今度は、泣かない。

 堪えている。


「次は……」

 秋穂が小さく言う。

「次は、私が言う」


 その約束が、空気に刻まれる。


 私は頷いた。

 頷いて、秋穂の顔を見る。


 夜の光の中で、秋穂が少しだけ笑った。

 小さな、でも確かな笑い。


 その笑顔を見た瞬間、私は思った。


 ――これが、秋穂と笑える成功だ。


 校庭の音楽が、少しだけ大きくなる。

 後夜祭のクライマックスが近い。


 でも、私たちの時間は、ここにある。

 屋上の冷たい風の中で、秋穂と向き合えた時間。


 それが、今日いちばんの成功だった。


 秋穂が、手を伸ばしかけて――止めた。


「……まだ、怖い」

 秋穂が言う。

「触れたら、壊れそう」


「分かる」

 私は頷いた。

「私も」


 だから、触れない。

 触れないまま、ただ向き合う。


 それだけで、十分だった。


 次は、秋穂の番。

 次は、秋穂が言葉にする番。


 私は、それを待つ。

 何日でも、待つ。


 後夜祭の夜は、冷たい風と、遠い音楽と、校庭の光で満ちていた。


「……美春」

「なに?」

「もう一回だけ、言って」


 私は、秋穂の目を見た。


「特別」

 私は言った。

「秋穂は、特別」


 秋穂が、小さく笑った。

 今度は、泣かない笑顔。


「……うん」

 秋穂が言う。

「もう一回、聞けた」


 その笑顔を見て、私は思う。


 次は、秋穂の言葉。


 私は、それを待っている。

 胸を焼くような期待と、怖さと、でも確かな予感を抱いて。


 秋穂と目を合わせた

 その温度が、全部を変える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る