第12話「味のしない成功」

 文化祭当日の朝。

 あの日から、三日が経った。


 秋穂は、私を避けていた。

 教室で資料を置く。廊下ですれ違う。家庭科室の扉が開く。

 そのたび、私は視線を逸らされる。

 逸らされるたび、胸の奥が冷える。


 昨日も、一昨日も、同じだった。

 「おはよう」も言えない。「ありがとう」も届かない。

 私たちは同じクラスで、同じブースを回しているのに、言葉だけが死んでいた。


 でも、今日は文化祭だ。

 逃げられない。ごまかせない。

 秋穂の夢が形になる日。

 その日に、私は秋穂と目を合わせられない。


     ◇


 校門をくぐった瞬間から、学校は"学校のふり"をやめる。

 普段は灰色のはずの廊下が、色紙とポスターで別の生き物みたいに見える。階段を上がるたび、どこかの教室から音楽が漏れ、笑い声が跳ね返り、揚げ物の匂いが鼻先をかすめる。制服じゃない服の色が混ざって、知らない人の足音がいつもより軽い。


 私たちのクラスの前には、すでに小さな渦ができていた。

 「喫茶店コラボ」「スイーツ」「限定」――手書きの文字に、廊下の人が吸い寄せられていく。


「美春、エプロン紐! ほどけてる」

 れいなが背中に手を伸ばし、きゅっと結び直した。

「ありがと」

「いや、似合いすぎ。メイド、天職」

「やめてよ」

 口では否定しても、笑顔は出せた。笑顔は、今まで何度も練習してきた"形"だ。


 白いエプロンの裾が揺れる。カチューシャが少し浮く。鏡で見た自分は、知らない誰かみたいだった。

 それでも、役割が決まっていると身体は動く。


 机を寄せて作ったカウンター。レジ代わりの箱。紙コップの束。アルコール、手袋、トング。

 そして、コーヒーの香り。


 湯気の立つサーバーの前に立つだけで、胸の奥が少し落ち着く。喫茶店で覚えた匂い。マスターがいつも淹れてくれた匂い。

 秋穂の作る焼き菓子に混ざると、そこだけ別の季節になる匂い。


「いらっしゃいませ!」

 私は声を張る。

 声は、今の私の"仕事の言葉"だ。迷いを押し込めるための音。


 最初の客は、近所の小学生二人組だった。

「これ、ほんとに高校生が作ったの?」

「周防さんって人、天才らしいよ」

 その名前が出るたび、胸の奥が微かに疼く。

 でも私は笑顔のまま、メニューを指でなぞった。


「おすすめは、レモンケーキとコーヒー寒天です」

「寒天! それにする!」

「レモンケーキ、すっぱい?」

「ううん、甘いよ。でも、ちゃんと大人の味」

 私は答えながら、喉の奥で言葉を飲み込んだ。


 ――秋穂の味だよ。

 そう言いたかった。言えなかった。

 秋穂の名前を口にしたら、胸の薄い膜が破れてしまいそうだった。


 小銭がトレーに落ちる音。紙コップが重なる音。

 "文化祭の音"が、カウンターの前でひっきりなしに鳴り続ける。


 列はすぐに伸びた。

 廊下の端まで人が連なり、途中で曲がって、別のクラスの前を通り過ぎていく。

 誰かがスマホを構えて「うわ、行列」と笑い、誰かが「回転早いから大丈夫」と言う。

 私たちのブースは、ただ売れているだけじゃなくて、ちゃんと"場"になっていた。


 ――成功だ。

 間違いなく、成功している。


 それなのに。


 私は、秋穂と目を合わせなかった。

 合わせられなかった。


 秋穂は家庭科室と教室を往復している。厨房役。補充役。仕上げ役。

 私はホール役。注文を聞き、会計をし、笑顔を返す役。

 役割分担としては完璧で、運営としては理想的だ。私たちは、滞りなく回っている。


 "滞りなく"回っているのに、心だけが空回りしている。


 家庭科室の扉が開くたび、私は視線を落とした。

 トレーに並ぶ焼き菓子の輪郭、粉砂糖の白、秋穂の指先の動き――それらを見たら、胸の奥の薄い膜が破れてしまいそうだった。


 あの日から、私たちは、言葉を交わしていない。

 あの嘘のせいで。

 "深い意味はない"という、逃げ道みたいな否定のせいで。


 否定したのは場のため。

 守ったのは空気。

 壊したのは――たぶん、秋穂のいちばん柔らかいところ。


     ◇


 午前の山が一段落した頃、ひとつ小さな事件が起きた。


「すみません、コーヒー、甘さ控えめってできますか?」

 年配の女性が、申し訳なさそうに言った。

 砂糖の袋はもう半分になっていた。ミルクポーションも残りわずか。

 列の後ろでは、「早く食べたい」「次どこ行く?」と声が弾む。


 私は一瞬だけ迷った。

 迷う癖が顔を出す。全部に応えようとして、全部を落とす癖。


 ――でも、夏祭りで学んだ。

 迷って止まるより、判断して進む方が場は回る。

 完璧じゃなくてもいい。"次"につながる答えなら、それでいい。


「できます」

 私はすぐに答えた。

「ブラックに近い味になりますけど、大丈夫ですか?」

「ええ、それで」

「ありがとうございます。少しだけお待ちくださいね」


 私はれいなに目配せし、砂糖の在庫を確認し、手順を頭の中で組み立てる。

 迷いの代わりに、判断が出た。


 ――私にも、できることはある。

 秋穂の焼き菓子みたいに"綺麗に整える"ことはできなくても。

 "回す"ことなら、私にもできる。


 それでも。

 その"できる"の真ん中に、秋穂がいないと、どうしてこんなに味気ないんだろう。


 年配の女性がコーヒーを一口飲んで、ほんの少しだけ目を細めた。


「いい匂いね。落ち着く」

「ありがとうございます」

「このお菓子も、高校生が?」

「はい。クラスメイトが作りました」


 クラスメイト。

 その言い方が、自分でも薄く感じる。

 秋穂は、クラスメイト以上の存在だ。


 でも、それを言えない。

 言葉にする資格がない。

 私は、秋穂を"深い意味はない"で切ったから。


     ◇


 午前の山が過ぎ、列が一瞬だけ短くなった。

 その隙間で、家庭科室の扉が開く音がした。


 秋穂が、新しいトレーを持って戻ってくる。

 焼き菓子が綺麗に並んでいる。いつもの秋穂の"整え方"だ。


 私は視線を逸らした。

 逸らしたのに、秋穂の足音だけは聞こえてしまう。

 教室を横切る音。カウンターに近づく音。

 トレーを置く、とん、という小さな合図。


「……補充」

 秋穂が短く言う。

 誰に、というわけでもない。空気に向けた報告。


「ありがとう!」

 クラスメイトが代わりに返す。

 私は、何も言えない。


 秋穂は背を向けて、また家庭科室へ戻っていく。

 その背中が、遠い。

 隣にいるのに、触れられない距離。


 私は、トレーの焼き菓子を見た。

 レモンケーキ。コーヒー寒天。マドレーヌ。

 全部、完璧だ。

 秋穂は一人でも、ちゃんと作れる。


 ――それが、いちばん苦しい。

 秋穂には、私がいなくても回せる。

 でも私は、秋穂がいないと、何も味がしない。


 私はコーヒーの香りを吸い込む。

 喫茶店で覚えた匂い。秋穂と過ごした時間の匂い。

 その匂いが、今は胸を締めつける。


     ◇


 昼過ぎ。

 列がほんの少しだけ短くなった瞬間に、空気が変わった。


 人混みの中でも、揺れない足音。

 視線が自然に道を空けるような、落ち着いた歩き方。


 香織さんだった。


 秋穂の母。

 プレゼンの日の、背筋が伸びる気配。

 正しさを、そのまま服にしたみたいな人。


 香織さんは教室の入口で立ち止まり、ブース全体をゆっくり見渡した。

 列の長さ。動線。衛生。値札。人の表情。

 観察の目が、ひとつずつ情報を拾っていく。


 そして家庭科室の方へ視線が向いたとき、香織さんの表情がほんの少しだけ変わった。


 秋穂が、トレーを持って戻ってくる。

 クラスメイトに「ありがとう!」と声をかけられ、短く「……うん」と返す。

 その"うん"が、いつもより柔らかい。

 忙しいのに、口角がほんのわずか上がっている。


 ――作業している秋穂は、笑えるんだ。

 私は胸の奥で思う。

 タスクがあれば、手を動かせば、秋穂は孤独を忘れられる。

 お菓子を"整える"ことで、自分も整えている。


 それが秋穂の強さで、同時に、弱さだ。

 一人でも回せてしまうから、誰かを必要としない顔ができる。

 でも本当は――


 本当は、秋穂はずっと誰かを求めていた。

 "特別"を求めていた。

 なのに私は、それを否定した。


 香織さんの目が、その笑顔に止まった。


「……あの子」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声。

「……あんな顔で笑うのね」


 私はその言葉に、胸の奥が熱くなった。

 嬉しい、ではなく。

 痛い。

 秋穂が笑えていることが、誇らしいはずなのに、私の中では罪悪感の熱に変わってしまう。


 香織さんの視線が戻り、私を見つけた。


「結城さん?」

 名前を呼ばれると、喉が詰まる。

 私は接客用の笑顔を作って、頷いた。


「はい。結城美春です」


 香織さんは一歩近づいた。

 空気が少しだけ締まる。"大人"の距離。


「秋穂が、あなたの話をよくするわ」

 淡々とした声。責めるでも、褒めるでもない。事実だけが刺さる。


「文化祭の準備も、喫茶店のことも」

 香織さんは続けた。

「あなたがいると、秋穂が少し落ち着くんだと思っていた」


 ――落ち着く。

 その言葉が、胸のいちばん痛い場所を押した。


 私は秋穂を落ち着かせたかった。

 秋穂の夢を守りたかった。

 なのに、私は教室で、あんな言い方をした。


「……今日は、ありがとうございます」

 香織さんが言う。

「秋穂が頑張れているのは、あなたやクラスの協力があるからでしょう」


 お礼を言われる資格なんてない。

 受け取ったら、罰みたいだ。


「……いえ」

 私はそれだけ返した。

 続きが出ない。私は何をした? 支えた? 守った? 壊した?


 香織さんは教室の奥を見た。

 秋穂が、トレーを置いて、別のクラスメイトに何かを説明している。

 付箋の貼られた小さなノートを開いて、指で行をなぞりながら。

 あのノート。喫茶店で見た、レシピの走り書き。

 秋穂は、夢を"手の中に"持っている。


 香織さんの顔が、ほんの少し柔らかくなった。


「……この顔なら」

 小さな独り言。


 香織さんは去り際に、もう一度だけ私を見た。


「美春さん」

「はい」

「秋穂は、あなたを信じている」


 その言葉が、胸に突き刺さった。

 刃じゃない。むしろ温度のある言葉なのに、逃げ場がない。


 信じている。

 信じていた。

 私は、その信頼の上に嘘を置いた。


 香織さんが人混みに消える。

 私は、その背中を見送った瞬間に、決めた。


 ――今日、話す。

 後夜祭まで待たない。

 "決める"のを先延ばしにしない。


 ただし、今は動けない。

 列がある。お金が動く。役割が回っている。

 ここを崩したら、秋穂の夢の"形"まで崩れる。

 だから私は、動ける時間を作る。自分で、作る。


 そう決めた瞬間、胸の空洞が少しだけ輪郭を持った。

 空っぽの正体が見えた。


 成功が虚しいんじゃない。

 秋穂と笑えない成功が、虚しいんだ。


     ◇


「大成功だね!」

 クラスメイトが私の肩を叩いて笑う。

「列、まだある! やば!」

「美春、接客うますぎ!」


 私は笑って頷く。

 笑顔は作れる。声も出る。お釣りも返せる。

 "ちゃんとできる自分"でいれば、ここに居ていいと思える。


 でも、心はどこか別の場所にある。

 秋穂の背中の方。

 家庭科室の扉の向こう。

 あの日の教室の、扉の影。


 れいなが、私の横に来た。

 いつもの軽い声じゃない。ちゃんと心配の声。


「美春」

「なに?」

 私は笑いそうになって、やめた。今日は、笑いで誤魔化したくない。


「……今、顔がさ」

 れいなが言葉を探す。

「勝ってるのに、負けてる顔してる」


 私は息を吐いた。

 的確すぎて、笑えない。


「……空っぽなんだ」

 私は小さく言った。

「やれてるのに、嬉しくない。……秋穂が笑ってるのに、私、笑えない」


 れいなは少しだけ目を見開いて、それから、静かに頷いた。


「……周防さんのこと?」

 れいなが、さらりと言った。

 軽い声じゃない。ちゃんと受け止める声。


 私は喉が詰まった。


「……分かる?」

「分かるよ。だって美春、周防さんのこと見てる時、目が違うもん」

 れいなが少し笑う。


「……でも、私」

 言葉が出にくい。

「嘘をついた。秋穂を傷つけた」


 れいなは少し黙ってから、静かに言った。


「じゃあ、撤回しなよ」

「……撤回?」

「嘘を、取り消す」

 れいなの声が強くなる。

「美春、いつも空気に負けるじゃん。今日はさ、空気に勝ちなよ」


 勝つ、じゃない。

 守る、でもない。

 "選ぶ"だ。

 私はやっと、その言葉に触れた気がした。


「……怖い」

 私は正直に言った。

「撤回したら、また同じ空気になる。笑われる。からかわれる」

「うん」

 れいなは頷いた。

「でも、周防さんを取るか、空気を取るか。美春、どっち?」


 その問いが、胸に落ちる。

 答えは、もう決まっている。

 決まっているのに、口にするのが怖い。


 でも、怖いままじゃ何も変わらない。


「……秋穂」

 私は小さく言った。

「秋穂を、取る」


 れいながにやりと笑った。

 いつもの軽い笑いじゃない。背中を押す笑い。


「よし。じゃあ、今日中に言いなよ」

「……うん」

「応援してる」


 れいなが肩を叩いて、また接客に戻る。

 私は、その背中を見て思う。


 ――友達って、こういうものなんだ。

 迎合じゃなくて。

 押してくれる。


 私は深呼吸をした。

 今日、秋穂に会う。

 今日、撤回する。

 怖くても、やる。


     ◇


 午後。

 列がまた伸び、短くなり、伸びて、短くなる。

 人気のピークは波みたいに何度も来る。

 そのたび、教室の中の空気が変わる。


 小さな子が寒天をスプーンで掬って「ぷるぷる!」と笑う。

 男子生徒が「甘いの苦手だけど、これならいける」と言って顔を赤くする。

 他校の制服の子が「来年ここ来たい」と言って写真を撮る。

 近所のおじさんが「この香り、昔の喫茶店みたいだな」と目を細める。

 コーヒーの苦みと、レモンの酸味と、焼き菓子のバターの香りが混ざって、教室が一瞬だけ本物の店になる。


 そのたび私は、嬉しさの"ふり"をしてしまう。

 本当の嬉しさがどこにあるか、知っているから。


 秋穂のスイーツが評価されるたび、私は誇らしい。

 同時に、痛い。

 秋穂が輝くほど、私が秋穂を傷つけた事実だけが浮き上がる。


 そして――その"浮き上がり"が、私の決意を削らない。

 むしろ固めていく。


 今日、話す。

 今日、撤回する。

 "深い意味はない"を、引き剥がす。


 列が途切れたとき、ふと気づく。

 秋穂が、いない。


 家庭科室も、教室の隅も、補充用のカウンターも。

 どこにも、秋穂の姿がない。


 私は胸がざわつく。

 まさか、帰った?

 逃げた?


 いや。秋穂は逃げない。

 秋穂は、自分の役割を投げ出さない。


 私はれいなに目配せして、教室を出た。

 廊下の人混みをかき分けて、家庭科室へ向かう。


 扉を開けると、秋穂がいた。


 シンクの前で、トレーを洗っている。

 水音だけが響いて、秋穂の背中は小さく見える。


「……秋穂」

 私が呼ぶと、秋穂の手が止まった。


 振り向かない。

 背中のまま、短く言う。


「……なに」


 声が冷たい。

 冷たいというより、疲れている。

 "期待しない"に慣れてしまった声。


 私は一歩だけ近づく。

 ここで逃げたら、また同じだ。


「……ごめん」

 私は言った。

「ごめん、じゃ足りないけど」


 秋穂の肩が、わずかに震える。


「……今さら?」

 秋穂が、やっと振り向いた。


 目が赤い。

 泣いてない。でも、泣きそうな目。


「今さら、だから」

 私は言った。

「遅くなった分、ちゃんと言う」


 秋穂は視線を逸らした。

 逸らして、また戻す。

 その揺れが、秋穂の迷いだ。


「……今、忙しい」

 秋穂が言う。

「文化祭、終わってない」


「分かってる」

 私は頷いた。

「だから、今は短くていい」


 私は息を吸った。

 ここで言う。今、言う。


「後夜祭、屋上にいて」

 秋穂の目が揺れる。

「そこで、ちゃんと話す」


 秋穂は黙った。

 返事がない。

 でも、否定もしない。


 私はそれだけで、十分だった。


「……待ってる」

 私は言って、家庭科室を出た。


 廊下の喧騒が戻ってくる。

 でも、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。


 秋穂に、"約束"を作った。

 それだけで、前に進める気がした。


     ◇


 夕方前。

 教室の入口に、見慣れた背中が現れた。


 マスター。


 紺のシャツに、いつもの穏やかな顔。

 でも目だけが、いつもより真剣だった。


「お邪魔するよ」

 マスターが教室を見渡し、短く笑った。

「……すごいねえ。ほんとに店みたいだ」


 クラスメイトが「本物の店主さんです!」と盛り上がる。

 マスターは照れたように手を振って、奥へ進む。


 ちょうど秋穂がトレーを持って戻ってきた。

 マスターがそれを見て、顔をほころばせる。


「秋穂ちゃん、よく頑張ったな」

 秋穂は一瞬だけ止まり、短く頷く。

「……うん」


 笑顔が硬い。

 それが、私には分かる。分かるから、苦しい。


 マスターも気づいたのだろう。

 秋穂の目をじっと見て、何も言わず、焼き菓子をひとつ手に取った。


「味は、いつもの秋穂ちゃんだ」

 小さく言って、噛みしめる。

 それから、私の方を見た。


「美春ちゃん」

「はい」

 声が震えそうで、喉の奥に力を入れる。


「……成功してるのに、顔が無糖だ」

 マスターの言い方は、優しいのに刺さる。

「売れてるかどうかじゃない顔だ」


 私は笑えなかった。

 答えも、すぐには出ない。


「喧嘩でもしたか?」

 マスターが続ける。


 その一言で、胸の奥に溜めていたものが揺れた。

 泣きそうになる。泣いたら終わる。

 でも、終わっていいのかもしれない。

 "薄くして"続けるのが、もう限界だから。


「……私」

 やっと声が出た。

「嘘をついた」


 マスターは驚かなかった。責めもしない。

 ただ、黙って頷く。聞く準備がある目。


「成功ってのはね」

 マスターが小さく言う。

「誰と作って、誰と笑うかで味が変わる」


 その言葉が、胸に落ちる。

 甘いのに苦い。

 私たちの話だ。


 私は決意を、もう一度確かめた。

 前倒しした決意を、逃げない形にする。


 ――今日。絶対に。


 マスターが肩を軽く叩いた。


「美春ちゃん、君は優しいから」

「……」

「でも、優しさで誤魔化したら、優しさが嘘になる」


 その言葉が、胸を貫く。

 優しさが嘘。

 私の優しさは、嘘だった。


「……はい」

 私は頷いた。

「今日、ちゃんと言います」


 マスターが小さく笑った。

 信じてる、という笑い。


「そうか。なら、大丈夫だ」


     ◇


 空が少しずつ濃くなり、校庭の方から後夜祭の準備のアナウンスが聞こえる。

 教室の中の熱は、まだ残っている。けれど、人の波は"次の場所"へ流れ始めていた。


 私はエプロンの紐を握り、深呼吸をした。

 心臓がうるさい。

 でも、うるさいくらいでいい。今日は、薄くしない。


 れいなが、私の横に来た。


「行ってきなよ」

「……うん」

「美春なら、大丈夫」


 その言葉が、背中を押す。


 私は、秋穂の顔だけを見る。

 空気じゃなくて。

 みんなの視線じゃなくて。

 自分の怖さじゃなくて。


 私は教室を出た。

 廊下を抜けて、階段を上る。

 一段ずつ、足音が響く。


 屋上への扉が見える。

 立入禁止の札が、風で揺れている。


 私は、その扉の前で立ち止まった。

 息を吸う。吐く。

 心臓が跳ねる。


 ――怖い。

 でも、怖いままじゃ何も変わらない。


 私は、ドアノブを握った。

 金属が冷たい。

 でも、その冷たさが現実の温度だ。


 ギィ、と扉が開く。

 夜風が流れ込んで、頬を撫でる。


 秋穂が、フェンスの近くにいた。

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