第11話「嘘の目撃」
【秋穂】
文化祭準備の教室は、音で満ちていた。
手のひらには、まだレモンの香りが残っている気がした。
試作ノートに「美春用」と書いた文字が、まだ頭の中でちらついている。
椅子が床を擦る、ガムテープが裂ける、ホッチキスが乾いた音を鳴らす。
誰かが笑って、誰かが焦って、誰かが「間に合う?」と叫ぶ。
そういう雑多な響きが、空気をふくらませていく。
その中心に、今日も私はいる。
机の上に並べられた試作の焼き菓子。小さなパウンド、クッキー、カップに入ったコーヒー寒天。
家庭科室の蛍光灯の下でも、輪郭が崩れない。色も、形も、余計なものがない。
私の"整える力"が、そのままお菓子になっている。
「周防さん、これ作ったの?」
「香り、すご……」
声が飛ぶたび、私は短く返す。
「……うん」
「……温度は、これくらい」
言葉の端は淡い。でも、内容は正確だ。
必要なところだけを切り取って差し出すから、みんなは安心して持ち上げられる。
――でも、私の目は、美春を探していた。
美春は少し離れたところで、シフト表を見直していた。
赤ペンを持って、誰かの名前を確認している。いつもの動き。いつもの位置。
――美春は、いつも端にいる。
私がみんなに囲まれているとき、美春は紙を持って立っている。
私が質問に答えているとき、美春は誰かのために動いている。
――なぜ、いつも端にいるんだろう。
その疑問が、昨日よりも、もっと強くなっていた。
昨日の夜、喫茶店で美春は言った。
「完璧だよ」
その声は、逃げない声だった。
美春の声は、いつも少しだけ優しすぎて、でも昨日は違った。
ちゃんと私を見て、ちゃんと評価してくれた。
「美春の意見、ちゃんと聞きたい」
私が言ったら、美春は少し驚いた顔をして、それから頷いてくれた。
「美春がいい」
私がそう言ったとき、美春の目が揺れた。
嬉しそうに見えた。でも、すぐに不安げな顔になった。
――美春は、いつも不安そうだ。
笑っているのに、目が笑っていないときがある。
「大丈夫」と言うのに、声が震えているときがある。
私は、美春のそういうところを、ぜんぶ覚えてしまっている。
――美春は、私にとって、特別だ。
その言葉を思うたび、胸が温かくなる。
温かいのに、怖い。
期待したら、裏切られる。
特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。
でも――
私は、もう止められない。
美春から目が離せない。
美春の動きを追ってしまう。
美春の声を聞きたくなる。
――これは、何?
答えは、まだ言葉にできない。
でも、胸の奥で小さな声がする。
――私は、美春が好きなんじゃないか。
その言葉を思った瞬間、心臓が跳ねた。
怖い。怖いのに、否定できない。
――好き。
その言葉の重さが、胸に沈む。
重いのに、甘い。
私は、美春が好きだ。
美春の笑顔が好きで、美春の声が好きで、美春の不器用な優しさが好きで、美春の全部が好きだ。
――でも、美春は私のことをどう思っているんだろう。
その疑問が、怖くて、痛い。
美春は「美春がいい」と言った。
でも、それは「味見の相手」としてなのか、それとも――
――私も、美春にとって、特別なのかな。
その期待が、胸の奥で灯る。
灯って、すぐに怖くなる。
でも、消せない。
私は、美春の横顔を見ていた。
シフト表に赤ペンで線を引く指。
左上から書き始める癖。
重要なところに二重線を引く癖。
そういう小さなことを、私はぜんぶ覚えている。
――美春のこと、もっと知りたい。
そう思った瞬間、教室の空気が変わった。
◇
【美春】
――秋穂が、みんなのものになっていく。
そんな言葉が、また浮かぶ。
昨日、喫茶店で秋穂は言った。
「美春がいい」
その一言が、今も胸に残っている。
嬉しかった。嬉しいのに、今は苦しい。
秋穂と仲直りして、いったん整えたはずの、甘い安心。
でもその安心は、教室の笑い声の中で、少しずつ溶けていく。
私は少し離れたところで、シフト表を見直すふりをしていた。
目を伏せた紙の上に、黒いペンの線が重なる。
手を動かせば、余計な気持ちは薄まる……はずだった。
でも、胸の奥のざらつきが消えない。
――秋穂を独占したい。
その欲望が、喉の奥で脈打っている。
醜い。幼い。でも、消せない。
「ねえ、結城さん」
女子生徒の声は軽かった。軽いから、油断した。
試作の片付けが一段落して、クラスがそれぞれの作業に散った頃。教室が一瞬だけ"間"を作ったタイミングだった。
「なに?」
私はいつもの調子で返す。合わせる。丸くする。
女子生徒は口元をにやっとさせて、周りにも届く声で言った。
「結城さんってさ、周防さんと付き合ってんの?」
一秒、空気が止まった。
止まって、それから弾けた。
「え、マジ?」
「うそー!」
「確かに、いつも一緒だよね」
「喫茶店も行ってるって聞いた!」
「青春じゃん!」
笑い。からかい。好奇心。
悪意は薄い。薄いからこそ、逃げ道がない。
面白がりながら、私たちの距離に勝手に言葉を貼る。
付き合ってんの?
その言葉が胸の奥を掻き混ぜる。
――ばれた?
違う。ばれてない。
本当に付き合ってるわけじゃない。まだ、言葉にしていない。
それなのに、"付き合う"という言葉だけが先に走って、私の心のどこかを踏み抜いてくる。
私は怖くなった。
誰かに何かを決められることが怖い。
決めてもいないのに、決まったことにされるのが怖い。
そして、秋穂のことを"みんなの話題"にされるのが、たまらなく怖い。
――だから私は、反射で逃げた。
場を丸くする方向へ、いちばん慣れた嘘へ。
「ち、ちがうよ!」
声が、思ったより明るく出た。
笑い声に負けないように、わざと大げさに。
「え、秋穂? ああ、喫茶店で勉強見てもらってるだけだよ」
言葉が滑り出る。止められない。
「別にさ、深い意味はないっていうか……」
深い意味はない。
その言葉が、私の口の中で乾いた。
否定の形をした安全策。
でも本当は、いちばん鋭い刃だと、私は知っていた。
「えー、じゃあ親友って感じ?」
「周防さん、恋愛とか興味なさそうだもんね」
「美春の片想い?(笑)」
笑いがまた起きる。
私は笑って、手を振る。
「ちがうって! ほんとに、助けてもらってるだけ。文化祭も一緒にやってるし」
私は言葉を重ねる。重ねるほど、嘘が固まる。
固まるほど、撤回が難しくなる。
私の手が、無意識に机の角を握っている。
れいなが、その手をちらりと見た。
「美春、ちょっと買い出し行ってきて」
れいなが軽く背中を押す。
私は笑って頷き、れいなに感謝した。これで、都合よくこの場から逃げ出せる。
「うん、いいよ」
その瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
安堵と、後悔。
場は守れた。作業は止まらない。誰も気まずくならない。全部、正しい。
――だけど、私が守りたかったのは、場じゃない。
秋穂の心だ。秋穂の夢だ。
そして、私がやっと見つけた"自分で選ぶ場所"だ。
なのに私は、そこを守るために、秋穂を切り捨てる言葉を選んだ。
深い意味はない。
助けてもらってるだけ。
それは、秋穂がいちばん欲しかったもの――「自分を肯定してくれる人」――を、真横から折る言い方だ。
私はそのことに気づいていて、気づいているからこそ、息が浅くなる。
◇
【秋穂】
私は、教室のドアの影に立っていた。
家庭科室の鍵を取りに戻ったのだ。
忘れ物。ただの忘れ物。
でも、ドアを開けようとした瞬間、女子生徒の声が聞こえた。
「結城さんってさ、周防さんと付き合ってんの?」
手が、止まる。
心臓が、跳ねる。
――付き合ってる?
その言葉が、胸の奥で甘く響く。
私と、美春が。
――そんなわけ、ない。
頭では分かっている。分かっているのに、胸が期待してしまう。
美春の声が、聞こえる。
「ち、ちがうよ!」
――ああ、やっぱり。
否定。当然の否定。
私は、そう思った。
思ったのに、胸が少しだけ痛んだ。
でも、美春の声は続く。
「え、秋穂? ああ、喫茶店で勉強見てもらってるだけだよ」
――勉強、見てもらってる、だけ?
一緒に喫茶店にいるのは、お菓子の話をするため。
味見をしてもらうため。
――ただ、それだけ?
「別にさ、深い意味はないっていうか……」
――深い、意味は、ない。
その言葉が、胸に刺さる。
刺さって、そのまま沈んでいく。
深い意味はない。
助けてもらってるだけ。
――そう、なんだ。
私の中で、何かが音を立てて崩れる。
崩れて、崩れて、崩れていく。
――私が、勘違いしてた。
美春が喫茶店に来てくれるのは、ただの「勉強のため」だった。
――私が、期待しすぎた。
胸の奥で、自己否定の声が響く。
期待したら、裏切られる。
特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。
――また、私が勝手に。
美春は、私にとって特別だ。
でも、私は、美春にとって特別じゃない。
――深い意味はない。
その言葉が、何度も何度も、胸の奥で反響する。
私は、動けなくなった。
足が、重い。
息が、浅い。
教室の笑い声が、遠くで響く。
誰かが「周防さん、恋愛とか興味なさそうだもんね」と言った。
――恋愛、興味ない?
興味ないわけじゃない。
ただ、怖いだけだ。
期待したら、裏切られる。
特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。
だから、興味がないふりをしてきた。
――でも、美春のことは。
美春のことは、違った。
美春のことは、特別だった。
なのに――
――深い意味はない。
その言葉が、全部を否定する。
私は、視線を落とした。
涙が出そうになる。でも、出ない。
泣く余白がない。
胸の中で自分を責める音だけが、響いている。
――勘違いしてた。
――期待した私が悪い。
――また、私が勝手に。
私は、教室からのドアから離れた。
誰にも気づかれないように、静かに。
廊下が、冷たい。
窓から入る風が、頬を撫でる。
――もう、期待しない。
その言葉を、心の奥に刻む。
刻んで、涙を押し込める。
期待しなければ、裏切られない。
特別だと思わなければ、傷つかない。
――私は、また一人に戻る。
靴音だけが、廊下に響く。
私の足音。誰も追いかけてこない音。
その覚悟を決めた瞬間、背後で声がした。
「秋穂!」
美春の声だ。
◇
【美春】
教室のドアの影に、秋穂が立っていた。
最初に気づいたのは、れいなでも、クラスの誰かでもなく、私だった。
視線がふっと引き寄せられて、そこに"影"があるのを見た。
秋穂。
戻ってきたのだろう。家庭科室の鍵か、備品か、買い出しの確認か。
タイミングが悪い。――最悪のタイミング。
秋穂は動かなかった。
扉の陰に半分隠れて、ただ立ち尽くしている。目が焦点を失っているみたいで、こちらを見ているのかどうかも分からない。
私の喉が、音を失う。
さっきの言葉は、全部届いている。
教室の笑い声に紛れても、秋穂の耳は鋭い。必要な情報だけを拾ってしまう人だ。
そして今の言葉は、秋穂にとって"必要すぎる情報"だった。
秋穂の唇が、ほんの少し動いた。
声は出ないのに、その形だけで、私は読めてしまった。
――深い意味はない。
秋穂の目が、わずかに揺れる。
泣きそうじゃない。泣く余白がない。
胸の中で自分を責める音だけが、きっと響いている。
「……勘違いしてた」
そんな声が、秋穂の中から聞こえた気がした。
「期待した私が悪い」
「また、私が勝手に」
「また、私が……」
自己否定が秋穂を包む。
私は一歩動こうとした。口を開こうとした。
「秋穂――」
でも、その瞬間。
秋穂は視線を切って、無言で踵を返した。
影が、扉の向こうへ消える。
教室の音が戻ってくる。誰かが「装飾どうする?」と叫んで、誰かが笑って、世界は何も変わらない顔で動き続ける。
変わったのは、私の中だけだ。
指先が冷たくなった。
汗をかいていたはずなのに、手のひらが冬みたいに冷たい。
「……美春?」
れいなが覗き込む。
「顔、白いけど。大丈夫?」
私は笑おうとして、笑えなかった。
「……なんでもない」
嘘が、もうひとつ増える。
◇
【美春】
放課後。
私は秋穂を探した。
階段の踊り場、図書室の前、家庭科室、校舎裏。
廊下を何往復したか、もう分からない。
どこにもいない。
教室に戻っても、秋穂の席は空だった。資料だけが綺麗に揃えられている。
感情の痕跡がないほど整っているのが、逆に怖い。
やっと校門の方へ向かう背中を見つけて、私は走った。
近いのに遠い。追いつけそうで、追いつけない距離。
「秋穂!」
呼ぶと、秋穂は足を止めた。
振り向かない。背中だけが固い。
私は息を切らして近づき、痛いほど息を吸って言う。
「さっきの、違うの」
声が震える。
「違うっていうか……私、あれは……」
秋穂が、ゆっくり振り向いた。
目に温度がない。
冷たいというより、体温が抜け落ちたみたいな無色さ。
あの喫茶店で見せる、小さな笑いの気配がない。
「……忙しいから」
秋穂が淡々と言う。
「しばらく、喫茶店はいい」
「え、でも――」
私は一歩踏み出す。
秋穂は、その一歩を止めるみたいに言葉を重ねた。
「文化祭も、私は作る役だけやる」
「秋穂……」
「余計なことはしない」
余計なこと。
その言い方が胸に刺さる。私の存在が余計だと言われたみたいで、息が詰まる。
「私、余計なことなんか――」
言いかけて、止まる。
喉に詰まるのは、さっきの嘘だ。
深い意味はない。
助けてもらってるだけ。
撤回するなら、今しかない。
でも撤回したら、教室に戻って、みんなの前で訂正しなくちゃいけない。
私が守ろうとした"場"を、私自身が壊さなくちゃいけない。
怖い。
怖いのに、怖いと言うのも嫌だ。
――でも私は、怖さに縛られている。
秋穂は、私の沈黙を見て、小さく息を吐いた。
その息が、何かの区切りみたいに聞こえた。
「……分かった」
その「分かった」が、何を意味するか。私は分かってしまう。
"撤回しないんだ"
"本当に深い意味はないんだ"
"私が勘違いしてただけなんだ"
秋穂は視線を落として、最後に言った。
「結城……美春」
名前を呼ばれる。
いつもより距離のある呼び方。丁寧な壁。
「……私、もう期待しない」
その一言で、世界がすっと静かになった気がした。
周りの風の音だけがやけに鮮明になる。遠くで部活の掛け声がして、校門の鉄がきしむ音がして――それが全部、別の世界の音みたいに遠い。
秋穂は踵を返して歩き出す。
私は追いかけられない。足が動かない。声が出ない。
迎合で作った嘘は、その場では撤回できない。
私はただ、背中が遠ざかるのを見ていた。
夕方の空は高くて、夏の名残の匂いに、秋の乾いた気配が混じっていた。
季節だけが先へ進む。
私は置いていかれる。
――それから、二人は喋らなくなった。
翌日、秋穂は家庭科室に来なかった。
その翌日も、秋穂は必要な資料だけを机に置いて、私を見なかった。
文化祭まであと三日。
私たちの間に、言葉は戻らなかった。
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