第10話「嫉妬の言語化」

【美春】


 教室に入った瞬間、私の視線は反射的に秋穂を探していた。


 秋穂は、教室の真ん中にいた。

 机を囲む輪の中心で、誰かの問いに短く答えている。声は小さいのに、言葉は正確で、みんなが頷いて、笑って、拍手みたいに空気が跳ねる。


 ――ああ、また。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 昨日の帰り道、秋穂の周りに拍手が鳴る光景を見た。私は紙を持って、端にいた。秋穂は「美春のおかげ」と言ってくれたけれど、その言葉は優しすぎて、逆に痛かった。


 私は、秋穂の隣にいたいのに、いつも一歩引いてしまう。

 引きながら、秋穂が遠ざかっていくのを見ている。


 この、ひりつく痛みには名前がある。

 私は、知っている。


 ――嫉妬。


 言葉にした瞬間、胸が熱くなる。

 熱くて、苦しくて、でも否定できない。


 私は、秋穂を独占したい。

 秋穂の笑顔を、秋穂の視線を、秋穂の「ありがとう」を、ぜんぶ私だけのものにしたい。


 そんな醜い欲望が、喉の奥で脈打っている。


 あの夏祭りでは、確かに私たちは並んで立っていた。提灯の赤の下、湯気と甘い匂いの中で、私も「こうしよう」と言えた。小さな革命みたいな夜だった。


 でも教室は、違う。

 光の当たり方が違う。音の反響が違う。誰かの視線が、余計に刺さる。


 二学期が始まって、文化祭準備が本格化すると、クラスの空気は一気に忙しなくなった。掲示板には担当表、机の上には集金袋、黒板の隅には提出期限。椅子の脚が床を引っかく音、ホッチキスの乾いた音、プリントを揃える指先の擦れる音――そういう"作業の音"が教室を満たしていく。


 その中心に、いつも秋穂がいる。


「周防さん、これって何分焼くのが正解?」

「卵アレルギーの子がいるんだけど、代替できる?」

「それ、固くならないコツある?」

「ねえ、レモンって皮も使うの?」


 問いが飛ぶ。期待が飛ぶ。

 秋穂は戸惑いながらも、短く答える。視線は落ちがちで、声は小さいのに、言葉は正確だ。必要なところだけを切り取って、すっと渡す。


「……焼きは、オーブンの癖がある。温度で調整」

「……代替なら、豆乳とヨーグルト」

「……皮は、苦味が出るから、削り方に注意」


 そのたびに、「へえ!」と声が弾む。

 拍手みたいに空気が跳ねて、秋穂の周りだけ温度が上がる。


 ――嬉しい。誇らしい。

 秋穂が、ひとりじゃなくなっていくのは、私がずっと望んでいたことだ。


 なのに。


 胸の奥が、ひりつく。

 熱いのに、痛い。


 私はその輪の外側で、段取りの紙を手に持っている。衛生チェック、表示ラベル、当日のシフト、先生に出す計画書。目立たない仕事ほど、抜けたら崩れる。だから私は、崩さない側に回る。


「美春、コピーお願い」

 れいなが紙を差し出す。

「うん、任せて」

 反射みたいに言って立ち上がる。動ける自分でいたい。役に立つ自分でいたい。そうじゃないと、私はここに居られない気がするから。


 コピー機が紙を吸い込む音を聞きながら、私はふと考える。

 私は、いま、秋穂の"隣"にいるんだっけ。


 近づけばいい。普通に話せばいい。

 それだけなのに、足が止まる。


 近づいて、秋穂の視線が私を通り越したら?

 私は笑える? また「大丈夫」と言える? また、薄くなる?


 ――薄味。

 喫茶店でマスターに言われた言葉が、耳の奥で鳴り直す。


 コピーを抱えて教室へ戻ると、秋穂の周りにはまだ人がいる。

 応援の目もあれば、値踏みの目もある。

 「本当に大丈夫?」という不安と、「失敗したら誰が責任取るの?」という打算が混ざっているのが、私は分かる。教室は優しいだけじゃない。私だって、そこに溶けてきた。


 秋穂は、ほんの少しだけ困った顔をして――それでも逃げないで立っている。

 その姿が、眩しい。眩しすぎて、目を逸らしたくなる。


     ◇


【秋穂】


 私は、美春の手を見ていた。


 シフト表に赤ペンで線を引く指。

 ゆっくりで、正確で、迷わない。その動きを、私は何度も見ていた。


 ――美春は、いつも左上から書き始める。


 メモを取るときも、計画を立てるときも、必ず左上の角から。

 そして、重要なところには二重線を引く。赤ペンで、少しだけ強く。


 夏祭りの準備のとき、美春が段取り表を作っていたのを思い出す。

 あのときも、左上から。赤ペンで、二重線。

 材料の買い出しリストも、担当者のシフトも、ぜんぶ同じ書き方だった。


 私は、美春の癖を覚えていた。


 ――いつから?


 気づいたら、美春の動きを追うようになっていた。


 美春が誰かに頼まれたとき、必ず「うん、任せて」と言う。

 語尾を少し上げて、口元だけで笑う。でも目は笑っていないときがある。


 美春が困っている人を見つけたとき、声をかける前に一呼吸置く。

 相手の表情を確かめてから、そっと近づく。


 美春が本当に笑うとき、目が先に細くなって、口が少し遅れてついてくる。

 その笑顔は、柔らかくて、温かい。


 そういう小さなことを、私は知っている。

 知らないうちに、記憶していた。


 ――他のクラスメイトのことは、こんなに覚えていない。


 れいなが話すときの手の動き。

 他の誰かのペンの持ち方。

 私は、そういうものを記憶していない。


 でも、美春のことは――ぜんぶ、覚えてしまっている。


 美春の「うん、任せて」の語尾の上がり方。

 美春の目が笑わないときの、ほんの少しの影。

 美春の指先が、赤ペンで二重線を引くときの力の入れ方。


 ――なぜ、美春だけ?


 答えは、まだ分からない。

 でも、胸の奥で小さな声がする。


 ――美春は、特別なんじゃないか。


 その言葉を思った瞬間、心臓が跳ねた。

 怖い。怖いのに、否定できない。


 美春は今、教室の端で、誰かの頼みを聞いている。

 私の隣ではなく、少し離れたところで。


 ――なぜ、いつも端にいるんだろう。


 私がみんなに囲まれているとき、美春は紙を持って立っている。

 私が質問に答えているとき、美春は誰かのために動いている。


 ――私のために、動いてくれているのに。


 その距離が、少しずつ気になり始めていた。


 なぜ、美春は近づいてこないんだろう。

 なぜ、私は美春を呼ばないんだろう。


 ――私は、美春に特別だと思われているのかな。


 その疑問が、胸の奥で小さく灯る。

 灯って、すぐに怖くなる。


 期待したら、裏切られる。

 特別だと思ったら、そうじゃないって気づく。

 私は、そういう経験を何度もしてきた。


 だから、期待しない。

 だから、疑問を押し込める。


 でも――


 美春の動きを追う自分を、止められない。

 美春の笑い方を、覚えてしまう自分を、否定できない。


 美春の動き方。

 美春の笑い方。

 美春の、小さな癖。


 ――ぜんぶ、覚えてしまっている。


 それが何を意味するのか、まだ言葉にはできない。

 でも、美春から目が離せなくなっている自分に、気づいていた。


 ――美春は、私にとって、特別なのかもしれない。


 そして、もしかしたら――


 ――私は、美春にとって、特別でありたいのかもしれない。


 その期待が、怖くて、痛くて、でも消せなかった。


 ただ、胸の奥が少しだけ温かくて、少しだけ苦しかった。


 ――そして、その日の放課後。

 私はいつものように、喫茶店へ向かった。


     ◇


【美春】


 喫茶店は、いつものままだ。

 ベルの音も、木の匂いも、湯気の揺れ方も。なのに、秋穂の"空気"だけが、少し違って見えた。


 マスターは奥で洗い物をしている。私は紅茶の湯気越しに秋穂の横顔を盗み見る。


 秋穂はレシピノートを開いていた。付箋が増えている。端が少し擦れて、何度も開かれた跡がある。

 でも今日は、ページをめくる手が時々止まる。考えているというより、何かを反芻しているみたいに。


「……美春」

 秋穂がぽつりと言った。

「なに?」

「最近、クラスの子が話しかけてくる」

「うん」

 私はできるだけ軽く返す。

「いいことじゃん」


 口元は笑っているはずなのに、喉の奥が乾く。

 秋穂はノートから目を上げて、私を見る。


「……不思議」

「不思議?」

「私、ずっと一人だったのに」

 静かな声。静かだからこそ、重い。

「急に、みんなが……」


 私はカウンターを拭く手を止めない。止めたら、胸の奥の声が漏れる気がするから。


「みんな、秋穂のこと分かってきただけだよ」

 綺麗な言葉。正しい言葉。

 ――そして、私が得意な言葉。


 秋穂は小さく頷いた。

「……そうなのかな」

「そうだよ」

 私は言い切ってしまう。言い切るほど、胸がざらつく。


 心の中の、別の声が囁く。

 ――私だけを見てほしい。


 恥ずかしい。幼い。醜い。

 私はそういう自分が嫌いなのに、消せない。


 そのとき、マスターが洗い物を終えてタオルで手を拭きながら出てきた。

 秋穂のノートと、私の顔を交互に見て、少しだけ目を細める。


「美春ちゃん」

「はい?」

「顔が薄味だぞ」


 胸が跳ねる。

 笑って誤魔化そうとしたのに、笑いが引っかかる。


「え、そうですか?」

「うん。いつもは甘いのに」

 冗談みたいに言って、でも目は冗談じゃない。

「甘いのが売りの子が、急に無糖になってる」


 私は笑うしかない。

 逃げ道をくれるみたいで、逃げ道を塞がれるみたいで。


 秋穂は気づかないふりをして、ノートに視線を戻した。

 ページをめくる、ぱら、と小さな音が鳴る。

 その音が、今夜はやけに寂しく聞こえた。


     ◇


【美春】


 文化祭の試作が重なると、ほんの小さなズレが、大きな音になる。


 その日、秋穂が持ってきたのは改良版のレモンケーキだった。しっとりしていて、香りが強い。表面の艶が綺麗で、切り口のきめが細かい。

 クラスの味見会用に、小さくカットされている。


「……食べて」

 秋穂が言う。

 いつもの合図。いつもの"最初の味見"。


 私は一口食べた。

 ――おいしい。間違いなく、おいしい。


 でも。

 甘さが、ほんの少しだけ前に出ている。

 夏の終わりの湿った空気には、少し重いかもしれない。レモンの酸味が、追い越せない。


 その瞬間、私は口を開いてしまった。


「……ちょっと、甘いかも」


 言い方が硬かった。

 自分でも分かる。刃が入っていた。


 秋穂の動きが止まる。

 呼吸が一拍、途切れる。


「……そう」

 小さい声。

「……ごめん」


 ごめん。

 その二文字が、胸に刺さる。


 秋穂は謝る癖がある。自分を否定する癖がある。

 私はそれをやめさせたいと思ってきたのに――今、自分の言葉で引き出してしまった。


「違う、そうじゃなくて」

 私は慌てて言いかけて、言葉が詰まる。

 "違う"の説明が、遅い。遅すぎる。


 秋穂はもう、目を落としていた。


「……私、また失敗した」

 呟くみたいな声。

 盾みたいに、ノートにペンを走らせる。感情を作業で覆う、いつものやり方。


 なんで、私はこんな言い方をしたんだろう。

 答えは分かっている。


 ――嫉妬だ。


 秋穂がみんなに褒められているのが、怖かった。

 私だけの秋穂じゃなくなるのが、怖かった。

 だから私は、"私だけの意見"で引き戻そうとした。


 最低だ。


「秋穂、ごめん」

 私は、遅れてでも言った。

「甘いっていうか……ほんの少しだけ砂糖を引いたら、レモンがもっと立つかなって。秋穂の味、消したいわけじゃない」


 言い訳みたいで、でも本音だった。

 秋穂は小さく頷いた。


「……分かった」

 それ以上は言わない。

 受け取ってくれたのか、閉じたのか、私は判断できない。


 れいなが遠くから、こちらを見ていた。

 鋭い目。「今の、何?」と問いかける目。

 でも、その奥に心配の色も見える。

 私は笑ってごまかそうとする。笑顔が少し震えた。


     ◇


【美春】


 帰り道、秋穂と並んで歩いた。


 いつもの道。いつもの距離。

 肩が触れるか触れないかの、微妙な間隔。


 秋穂は小さく息を吐いて、空を見上げた。

 夕焼けが、秋穂の横顔を染めている。まつ毛の影が頬に落ちて、唇が少しだけ開いている。


 私は、秋穂の横顔を見ながら、胸の奥で言葉を転がしていた。


 ――今日、クラスのみんなとたくさん話してたね。


 言いたい。でも言えない。

 言ったら、「嫉妬してる」って気づかれる気がするから。


 ――秋穂が、笑ってるの、嬉しかった。


 これも言いたい。でも、これも嘘になる。

 嬉しいのに、苦しいから。


 私は、秋穂が好きだ。

 秋穂の笑顔が好きで、秋穂の声が好きで、秋穂の不器用な優しさが好きで、秋穂の全部が好きだ。


 でも、秋穂を好きなのは、私だけじゃない。

 今日、秋穂の周りにいた、あの笑顔たち。あの期待の視線。


 私は、その中の一人になりたくない。

 秋穂にとって「特別な誰か」でありたい。


 ――でも、それは、わがまま?


 秋穂が、みんなに受け入れられることを、私は望んでいたはずなのに。


 言葉が喉の奥で絡まって、出てこない。

 歩幅を合わせながら、私はただ、秋穂の横顔を見ていた。


 秋穂が、ふと足を止めた。


「……美春」


 名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。


「……今日、ありがとう」


 短い言葉。

 でも、秋穂の声は少しだけ温かくて、私の胸に染みる。


「……うん」


 私は、笑顔を作る。

 笑顔を作りながら、胸の奥で嫉妬が脈打っている。


 秋穂は、私の顔を見て、少しだけ首を傾げた。


「……美春、疲れてる?」


 ――バレてる?


 心臓が、ぎゅっと縮む。


「大丈夫。ちょっと寝不足」


 嘘は、すぐに口から出た。

 嘘をつきながら、自分が嫌になる。


 秋穂は、少しだけ眉を寄せた。

 でも、何も言わずに、また歩き出す。


 私も、隣を歩く。

 歩きながら、秋穂との距離が、微妙に広がった気がした。


     ◇


【秋穂】


 閉店間際の喫茶店は、昼間よりも音が少ない。


 皿を重ねる陶器のかすかな触れ合い。シンクの水が途切れる瞬間の、空気の吸い込み。奥でマスターが布巾を絞る音。そういう小さなものだけが残って、店全体がゆっくり落ち着いていく。


 私は厨房の端で、レモンケーキの試作ノートを開いていた。


 ページの右上に、短い文字が残っている。


 ――「ちょっと、甘いすぎる」


 美春が言った言葉。たった一言なのに、今日一日、何度もそこへ戻ってしまう。


 甘すぎる。


 誰かに言われたら「そうか」と思って、砂糖を減らして終わりにできるはずなのに。美春が言うと、言葉の粒が違う形で残る。


 美春の「おいしい」は、安心する。

 美春の「うーん」は、心臓の位置を少しずらす。


 ――特別でなければいけない。


 それは店のためでも、文化祭のためでも、たぶん説明できる。

 "商品としての味を整える"とか、"歩きながら食べても重くない甘さ"とか。


 でも本当は、その言い訳の奥に、別の理由があるのを私は知っている。


 美春にとって、特別でなければ。


 その「特別」は、誰かに勝つためじゃない。

 誰かより美味しいためでもない。


 ただ、美春の中で、ちゃんと私が"残る"ため。


 ……そんなこと、口にしたらおかしい。

 重い。怖い。勝手だ。


 私は、ノートの隅を指でなぞって、息を吐いた。

 指先に、粉糖のざらりとした感触が残っている。洗っても落ちない甘さ。


 作業台の上には、今日の試作の切れ端が一切れ置いてある。

 レモンピールの黄色が、スポンジの中で細く光っている。


 私は包丁を取り、端を薄く切った。

 断面の気泡。焼き色。中央のしっとり具合。見た目は悪くない。香りも立っている。


 それなのに、甘さが前に出る。


 原因は分かっている。

 砂糖を減らすだけだと、今度は軽さだけになって、味が薄くなる。レモンが立ちすぎて、角が尖る。ケーキは"輪郭"だけのものになる。


 私は、そういうのが嫌だ。

 ただ尖ってるだけの味は、きっと美春が笑わない。


 美春の笑わない顔を、私は見たくない。


 ……また、言い訳。


 私は首を振り、まずは現実の順番で考えるふりをした。


 砂糖の量ではなく、甘さの"当たり方"を変える。

 口の中に残る甘い膜を薄くする。

 レモンの香りを、酸味ではなく"風"として立たせる。


 試作ノートに、鉛筆で小さく書き足す。


 ・グラニュー糖 5%減

 ・蜂蜜 少量(しっとり)

 ・レモン果汁 増やさない(酸が立つ)

 ・皮(ゼスト) 増やす(香りで軽く)

 ・アイシング 薄く(香りだけ残す)


 書いているうちに、呼吸が整っていく。

 考えることで、怖さを整理できる。

 レシピは嘘をつかない。数字は裏切らない。


 ……人の心は、裏切るのに。


 私は、冷蔵庫からレモンを取り出した。

 表面を指で撫でると、まだ冷たい。皮の粒がきゅっとしている。


 洗って、水気を拭き取る。

 削り器を手に取ると、金属が少しだけ冷たく手のひらに吸い付いた。


 皮を削る音が、薄く響く。

 シャリ、シャリ、と乾いた音。

 黄色い香りが、空気にぱっと広がる。


 この香りは、嘘じゃない。

 明るいのに、甘くない。

 口に入れる前から、風みたいに軽い。


 私はバターを温める。

 溶け始めたバターは、透明な膜を作って、すぐに黄金色へ変わる。

 泡が立つ。香りが変わる。

 "焼けた匂い"が一瞬、鼻先をかすめる。


 温度が上がりすぎると、甘さが重くなる。

 私は火を弱めて、鍋を少し浮かせ、呼吸を合わせる。


 ……こういう時だけ、自分が落ち着くのが、少し嫌だ。

 お菓子の前だと、私は迷わない。


 ボウルに卵を割り入れる。

 黄身の丸い色が、照明の下でつやつやと光る。

 泡立て器を入れて、静かに混ぜる。


 卵は勢いよく混ぜると、空気が入りすぎる。

 空気が入りすぎると、軽すぎる味になる。

 軽すぎると、甘さだけが残る。

 ……今日は、軽さを香りで作りたい。


 私はいつもよりゆっくり、丁寧に混ぜた。

 泡が大きくならない速度。

 音が立たない速度。


 砂糖は減らす。だけど、しっとりは残す。

 蜂蜜を一匙だけ。

 小さな"ねばり"が、スプーンの裏に糸を引く。


 混ぜるたびに、生地が少しだけ艶を持つ。

 その艶が、嫌いじゃない。

 私は、艶を整えるのが得意だ。


 粉をふるう。

 白い粉が、空気に舞う。

 軽い雪みたいに落ちる。


 私はそこで一度、手を止めた。


 美春の「甘すぎる」が頭の中で鳴る。


 甘さは、悪じゃない。

 甘いのは、むしろ私の作るものの"やさしさ"だ。

 それを否定されたみたいで、胸がちくりとする。


 でも、美春は否定したんじゃない。

 美春は、美春のまま言っただけだ。


 ――美春のまま。


 それが、いつも少し羨ましい。

 私はいつも、"正しい"形に整えてから話す。

 美春は、整えていない声でも、まっすぐ届く。


 だから私は、美春の声が怖い。


 ……また、言い訳。


 私は粉を混ぜ、型に流し、オーブンに入れた。

 タイマーを回す音が、カチ、と小さく鳴る。


 焼いている間に、アイシングを薄く作る。

 粉糖は少なめ。果汁はほんの少し。

 艶は出す。でも膜は厚くしない。


 その"薄さ"が、今日の答えであってほしい。


 タイマーが鳴く。

 オーブンを開けると、熱が顔を撫でた。

 焼けたレモンの香りと、バターの香りが混ざって、ふわっと広がる。


 私は、焼き色を見た。

 濃すぎない。角が焦げていない。表面は均一に膨らんでいる。


 ……たぶん、うまくいった。


 冷ましてから、薄いアイシングをかける。

 白が、表面をさらりと撫でる程度にのる。

 厚い甘い膜ではなく、光る皮膜だけ。


 私は小さく切って、ひと口食べた。


 甘い。

 でも、残らない。


 最初に香りが来て、次に甘さが丸く広がる。

 最後に、レモンの皮の苦味がほんの少しだけ残って、舌の上を軽く掃く。


 ……これなら。


 私は、ノートの端にもう一行書き足した。


 「美春用」


 書いた瞬間、胸が少しだけ熱くなる。

 名前を書いただけなのに、指先がこわばる。


 私はそれを見ないふりをして、ラップをかけ、冷蔵庫に入れた。


 明日、美春に食べてもらう。


 それで、美春が少しでも笑ってくれたら――


 その先の願いは、まだ言葉にしない。

 言葉にしたら、現実になってしまう気がして怖い。


 私は手を洗い、エプロンを外した。

 厨房の灯りを落とすと、店の匂いだけが残る。


 奥でマスターが片付けをしている気配がする。

 私はそれに声をかける代わりに、静かに息を吐いた。


 美春にとって、特別でなければ。


 その決意だけを、胸の中にしまう。

 しまって、鍵をかける。


 ――まだ、これは恋じゃない。

 ただ、負けたくないだけ。

 ただ、美春に"良い"って言われたいだけ。


 そういう形に整えて、私は家へ帰った。

 手のひらには、レモンの香りが薄く残っていた。


 明日も、きっと消えない。


     ◇


【美春】


 翌日。喫茶店の閉店後。

 厨房の奥から、レモンの香りがふわっと流れてくる。甘さの匂いじゃなく、柑橘の皮の、少しだけ苦い香り。


「美春」

 秋穂が呼んだ。

「これ」


 小さな皿が差し出される。改良版のレモンケーキ。昨日より色が淡い。上にかけたアイシングも薄い。

 "直した"というより、"整えた"感じがする。


 私は息を吸って、一口食べた。


 ――おいしい。

 甘さが引いて、レモンが前に出る。軽いのに、ちゃんと満足感がある。秋穂の味は、ちゃんと残っている。


「……おいしい。完璧だよ」

 今度は、逃げない声で言った。


 秋穂の目が揺れて、それから、ほんの少しだけ口元がゆるむ。

 笑った。小さいけれど、確かに。


「……美春の意見、ちゃんと聞きたい」

 秋穂が言う。

「私、一人だと分からない。……味見が必要」


 胸が、甘くなる。甘いのに、痛い。

 私はこういう言葉に弱い。必要とされる場所に、すぐ自分を預けたくなる。


「……私でいいの?」

 声が小さくなる。

「うん」

 秋穂は頷く。

「美春がいい」


 その一言で、昨日の刃が少しだけ鈍くなる。

 "私の意見"が、ちゃんと価値として扱われている。

 私はそれが嬉しくて、怖い。


「……うん」

 私は頷いた。

「ちゃんと言う。……次は、ちゃんと優しく言う」


 秋穂は小さく息を吐いて、頷いた。


「……ありがとう」

「こちらこそ」


 ひとまず、仲直り。


 そう思った――思いたかった。


 でも、胸の奥のざらつきは完全には消えていない。

 

 嫉妬の声は、小さく生きている。

 

 私はそれを"なかったこと"にしたまま、また笑った。

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