第9話「薄味の私」

 二学期の教室には、まだ夏の余熱が薄く残っていた。


 窓を開けても風はぬるく、黒板のチョークの粉が光の筋に漂う。誰かの机の上でシャーペンが転がる音、椅子の脚が床を擦る音、短い笑い声。そういう"いつもの音"が戻ってきたのに――私の胸の奥だけ、まだ祭りの鼓動が終わっていない気がした。


 教室のドアを開けた瞬間、私の視線は反射的に秋穂を探していた。


 秋穂はもう席にいた。

 ノートを開いて、ペンを走らせている。背中はまっすぐで、髪が肩に落ちている。その後ろ姿は、いつもの"教室の秋穂"だった。


 私は息を吸って、近づく。


「おはよう」

 声をかけると、秋穂が顔を上げた。

「……うん」


 短い返事。

 視線はすぐにノートに戻る。


 その瞬間、私の胸に小さな違和感が落ちた。


 あれ?


 夏祭りの夜、秋穂は私の腕に自分の腕を絡めた。肩に頭を預けた。手をつないで歩いた帰り道の温もりが、まだ掌に残っている気がするのに。


 今、目の前の秋穂は――遠い。


 教室という"公共空間"が、二人の距離を元の位置に戻している。

 あの夜の甘さは、夏の夢みたいに薄れていく。


 私は自分の席に座りながら、ふと夏祭りの匂いを思い出す。

 レモンの香り。

 バターの匂い。

 秋穂の髪にほんのり残っていた、甘い粉砂糖の気配。

 手の温もり。

 「一緒で、よかった」と言った、あの声の温度。


 ――あれは、特別だった。


 でも、ここは教室だ。

 提灯の赤もない。花火の音もない。

 ただ、蛍光灯の白い光と、黒板の灰色と、制服の紺色がある。


 私は、少しだけ寂しくなる。

 寂しいのに、口に出せない。

 「あの夜みたいに、話したい」なんて言ったら――秋穂を困らせてしまう気がした。


 秋穂も、きっと同じことを考えている。


 ――美春に、甘えすぎた。


 秋穂の中で、そんな声が鳴っているのが、私には分かる。

 秋穂は"甘え"を怖がる人だ。甘えたら、嫌われる。期待したら、裏切られる。そういう傷が、秋穂の中にずっとある。


 だから秋穂は、学校では"いつも通り"に戻ろうとしている。

 私も、それに合わせる。


 合わせながら、胸の奥に小さな穴が開く。


 夏祭りの熱が冷めていく音が、聞こえた気がした。


     ◇


 それでも、授業の合間に秋穂の横顔を盗み見ると、胸が少しだけ温かくなる。


 秋穂がノートに何かを書いている。

 きっとレシピのメモだ。文字が小さくて、几帳面で、余白を残さない書き方。

 ペン先が紙を擦る音が、シャッ、シャッ、と小さく聞こえる。


 その音が好きだと思った。

 秋穂が"考えている"音。

 秋穂が"生きている"音。


 夏祭りの夜、秋穂は私に抱きついた。

 あの温もりが、まだ肩に残っている。

 あの瞬間の秋穂の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。


 ――また、隣に座りたい。


 教室じゃなくて、喫茶店で。

 提灯の光じゃなくて、コーヒーの湯気の中で。

 あの場所なら、秋穂はもう少し柔らかい顔をする。


 そう思った瞬間、先生が黒板に大きく書いた文字が目に入った。


 『文化祭 企画アンケート』


 その瞬間、私の心は先に動いてしまった。


     ◇


 教室がざわつく。


「今年どうする? お化け屋敷?」

「去年みたいにTシャツでよくない?」

「飲食やれるの?」


 声が重なって、空気がかき混ぜられる。

 私はいつもの自分なら、ここで無難な方へ流れていた。誰かの案に頷いて、笑って、丸く収まる道を選んでいたと思う。


 でも今日は――違った。


 私は机の上にアンケート用紙を広げる。

 真っ白な紙。まだ何も書かれていない。

 ペンを握る。指先が少しだけ震える。


 ――喫茶店。


 あの古い看板の色褪せ。

 カランと鳴るベル。

 紅茶の立ちのぼる香り。

 マスターの穏やかな笑い。

 そして、秋穂の"生きてる顔"。


 あの場所で見た秋穂を、教室の中にも連れて来たい。


 夏祭りの夜、私は初めて「こうしよう」と言い切った。

 材料が足りない、予約が守れない、そんな危機の中で、私は自分で舵を切った。

 あれは、たぶん私にとって小さな革命だった。


 誰かに合わせて流されるのではなく、自分の手で未来を変える感覚。

 今でも指先に、紙袋を渡したときの忙しい温度が残っている。


 だから――もう一度。


 私は、ペン先を紙に当てた。

 インクの匂いがふわっと広がる。

 ペン先が紙に食い込む感触が、指先に伝わる。


 心臓が、うるさい。

 目立つ案だ。面倒も増える。反対だって出るはずだ。


 それでも、私は書いた。


 「喫茶店コラボ(近隣喫茶店マスター監修/スイーツ販売)」


 書き終えた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

 怖さは消えないけれど、怖さの向こう側に、小さな手応えがあった。


 紙の上の文字を見つめる。

 私の字だ。私の意思だ。

 空気に流されて書いた言葉じゃない。


 この文字を出したら、秋穂の名前が教室に出る。

 秋穂が注目される。

 秋穂が、孤立の影から光の中へ出る。


 ――それは、秋穂にとって怖いことかもしれない。


 でも、私は秋穂の夢を、教室の真ん中に持ってきたい。

 秋穂の味を、みんなに知ってほしい。

 秋穂が"やれる"ことを、証明したい。


 そして――私も、一緒に走りたい。


 夏祭りで味わった、あの充実感をもう一度。

 秋穂と並んで立つ、あの温度をもう一度。


 私は、アンケート用紙を提出箱に入れた。

 紙が箱の中に落ちる音が、思ったより大きく聞こえた。


     ◇


 放課後、教科書をバッグに詰める秋穂の横に立って、私は声をかけた。


「秋穂、文化祭のアンケートさ」

「……うん」

 短い返事。視線はノートの端。いつもの距離感。

「喫茶店コラボって書いた。……あの店、学校に持って来たいなって」


 秋穂の手が止まった。

 ペンケースのチャックが途中で止まり、金属の音が小さく鳴る。


「……学校に?」

「うん。夏祭りみたいに、スイーツ出す。あの……秋穂の」


 言いながら、私は自分の言い方が下手だと思った。

 秋穂の負担が増えるのは分かってるのに、気持ちが先に走ってしまう。


 秋穂は少しだけ眉を寄せて、小さく首を振る。


「……私、目立つの苦手」

 声が薄い。けれど本音の輪郭がある。

「クラスの前で説明とか、当日ずっと人の中にいるとか……無理だと思う」


 無理。


 その一言に、胸がひゅっと縮む。

 あの日屋台で笑っていた秋穂の顔が、すぐ浮かぶ。無理じゃない、と言いたくなる。

 でも押し切ったら、秋穂はきっと引く。


 私は知ってる。

 秋穂は"押される"のが怖い。逃げ道を失うのが怖い。


 だから私は、言い方を変えた。


「……じゃあさ。秋穂は"味"だけでいい」

「え」

「作るのは秋穂。売るのと説明は私がやる。段取りも私が組む。秋穂は、レシピを決めてくれたら、それで」


 自分の口から出る言葉が、思ったより真っ直ぐで、私は少し驚いた。


 秋穂はしばらく黙って、視線を落とした。

 それから、ほんの少しだけ頷いた。


「……味だけなら」

「うん。味だけでいい」


 私は笑った。

 秋穂が逃げなくて済む形を、私が作る。それならできる。私の得意分野だ。


 そのとき私は、胸の奥が満たされるのを感じた。

 "必要とされる"感じ。


 それが私の安心の源だということを、私はまだ疑っていなかった。


     ◇


 クラス会議の日。


 黒板に、候補案がずらりと並ぶ。

 お化け屋敷、縁日、ダンス、写真展、メイド喫茶、喫茶店コラボ。


 私が書いた案は、黒板の右端に小さく混ざっている。

 視線がそこに触れるたび、心臓が跳ねる。


 先生が言う。


「じゃあ、議論してください。多数決は最後」


 すぐに声が飛ぶ。


「喫茶店コラボって何? 普通にメイド喫茶でよくない?」


 前の席の男子が笑いながら言う。軽い調子。でも否定の匂いが混ざっている。


「メイド喫茶は他クラスと被りそうじゃない?」


 別の子が即座に返す。


「去年も喫茶系あったし、変化つけたい」


 賛成派の声。

 空気が少しだけ動く。


「そもそも、飲食ってできるの? 衛生とかうるさくない?」


 真面目な委員長タイプの声が飛ぶ。

 私は息を吸って、手を挙げた。


「先生に確認した。加熱済みの焼き菓子、個包装、手袋・マスク、手洗い徹底ならOKになりそうって」


 言いながら、夏祭りで作ったチェック表が頭に浮かぶ。

 あの時覚えた"確認する癖"が、今ここで役に立っている。


「へえ、ちゃんと調べたんだ」


 少し驚いたような声。

 でも次の瞬間、別の角度から刺さる。


「準備、誰がやるの? 絶対めんどいじゃん」


 面倒。


 その言葉は、教室の空気を一瞬だけ冷やした。

 確かに。準備は重い。文化祭は"楽しい"だけじゃ回らない。誰かが泥をかぶる。


 教室が、少しだけ静かになる。


 れいなが手を挙げる。いつもの軽さじゃなく、少しだけ芯のある声。


「めんどいのは全部そうだよ。お化け屋敷も縁日も。どれ選んでも準備はある。だったら"やりたい"の方がよくない?」


 教室が少しだけ笑う。

 空気が戻る。


 その流れの中で、誰かが言った。


「でもさ、スイーツ作れる人いるの?」


 ここで空気が止まった。

 視線が私に集まる。


 私は喉が乾くのを感じた。


「……秋穂が作れる」


 私は言った。自分の声が少しだけ高い。


「周防さん、お菓子作るの得意で……喫茶店でも作ってる」


 次の瞬間、反応は一枚岩じゃなかった。


「え、周防ってあの……いつも一人の?」

「すごくない? ギャップ」

「いやでも、ほんとにできるの?」

「文化祭で失敗したらヤバくない?」

「てか、周防にそんな負担かけて大丈夫?」


 称賛だけじゃなく、疑いも、心配も、打算も混ざる。

 それが、逆に現実だった。


 私は秋穂を見る。


 秋穂は机の上で手を握りしめていた。白い指。

 目立つのが苦手な人が、今まさに"注目"の中心に置かれている。


 私は、ここで逃げたくなった。


 「やっぱりやめようか」って言えば、この場は丸く収まる。秋穂を守れる。自分も傷つかない。


 でも、それは――秋穂の夢から逃げることでもある。


 私は、思い切って言った。


「負担は、私が引き受ける」


 教室が少し静かになる。


「秋穂は"作る"担当だけ。販売とか説明とか、衛生管理のチェックとか、段取りは私がやる。夏祭りで経験もある」


 言い切ってから、私は自分でも驚いた。


 "私がやる"って、ちゃんと言えた。


 心臓が、うるさい。でも震えない。

 夏祭りの夜、私は「こうしよう」と言い切った。

 今日も、もう一度。


 委員長タイプの子が眉を上げる。


「……そこまで言うなら、責任者は結城がやるってこと?」

「うん。私、やる」


 短く、逃げずに言う。

 逃げない声って、こんなに喉が熱くなるんだ。


 しばらくの沈黙の後、先生が口を開く。


「条件はある。衛生管理は厳守。計画書提出。食材の扱い、個包装、アレルギー表示、当日の体制。そこまでできるなら、飲食は許可する」


 私は頷いた。


 "条件付き"は、秋穂の家と同じだ。

 条件は重い。でも、守れば進める。


 多数決が始まる。

 手が上がる。上がる。――思ったより上がる。


 ただし全員ではない。


「準備大変そうだから、縁日がいい」

「私はお化け屋敷派」

「喫茶店って地味じゃない?」


 そういう声も確かにある。


 それでも、最終的に――喫茶店コラボが勝った。


「決まりだね」


 先生が黒板に丸をつける。

 教室がわっと沸く。拍手が起きる。「楽しみ!」の声。


 私は笑顔を作って、その渦に混ざった。


 でも、秋穂は笑っていなかった。


 笑えないというより、笑い方がまだ分からないみたいに、少しだけ戸惑っている。


 そのとき、秋穂が小さく言った。


「……やる」


 小さいのに、輪郭がある声。


「味、作る」


 それだけで、教室の空気が変わる。


 "やる"という言葉は、ただの返事じゃない。宣言だ。


     ◇


「周防さん、すご!」

「何作るの? タルト?」

「映えるやつ! 写真撮りたい!」


 寄ってくる子もいる。興味で近づく子も、純粋に応援する子も。


 でも同時に、少し距離を取って様子を見る子もいた。


 「ほんとにできるの?」という目。

 「結城が張り切ってるだけじゃ?」という目。


 教室は、優しいだけの場所じゃない。私はそれを知っている。


 秋穂は、一瞬固まってから、短く言った。


「……考える」


 それは、逃げない言葉だった。


 教室の真ん中で、秋穂が初めて、ちゃんと立っているように見えた。


 光が当たる。

 孤立の秋穂が、注目の秋穂になる。


 私は嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけざらついた。


 秋穂の周りに人が集まる。

 秋穂の名前が、あちこちで跳ねる。

 秋穂が、教室の"中心"になっていく。


 ――それは、私がずっと望んでいたことだ。


 なのに。


 胸の奥に、小さな棘が刺さる。

 熱いのに、痛い。


 私はその感情を、すぐに押し込めた。

 押し込めながら、笑顔を貼りつける。


 秋穂が幸せなら、それでいい。

 秋穂が認められるなら、それでいい。


 ――そう思おうとした瞬間、秋穂が私を見た。


 視線が合う。


 秋穂の目に、少しだけ不安が浮かんでいる。

 でも同時に、"ありがとう"も浮かんでいる。


 その視線が、私の胸に落ちる。


 秋穂は、私がいたから"やる"と言えた。

 私が逃げ道を作ったから、前に立てた。


 ――美春が、私を守ってくれた。


 秋穂の中で、そんな声が鳴っている気がした。


 前に立つのが怖いって言ったら、"味だけでいい"って。

 こんな風に、私の逃げ道を作ってくれる人、初めて。


 秋穂の視線が、少しだけ温かくなる。


 その温かさに、私の心臓が小さく跳ねた。


     ◇


 準備が始まると、教室の空気はさらに複雑になった。


 秋穂がノートに書いたレシピ案が、れいなのスマホで撮られてグループに流れる。


 「工程が細かい」

 「材料費これくらい?」

 「アレルギー表示どうする?」


 盛り上がりと実務が、同じスピードで走り出す。


 私は、段取り係として動き回った。


 必要な備品リスト。

 衛生チェック。

 手袋・マスク・アルコール。

 個包装の袋。

 表示ラベル。

 先生に提出する計画書のテンプレ。

 当日のシフト表。


 "見える化"がないと崩れる、と夏祭りで学んだ。

 だから私は崩さない。


 机の上にチェック表を広げる。

 ペンで項目を書き出す。

 一つ一つに丸をつけていく。


 その作業が、私を落ち着かせた。


 でも、段取りは――目立たない。


 うまく回れば回るほど、そこに"誰かの努力"があることは見えなくなる。


 教室の中で、秋穂の名前が何度も呼ばれる。


 「周防さん、これって何分焼くのが正解?」

 「卵アレルギーの子がいるんだけど、代替できる?」

 「それ、固くならないコツある?」


 秋穂は短く答える。

 必要なところだけを切り取って、すっと渡す。


 そのたびに、「へえ!」と声が弾む。


 秋穂の周りだけ、温度が上がる。


 私はその輪の外側で、シフト表を見直していた。


 誰が、いつ、どこに立つか。

 黒いペンの線が、紙の上に重なる。


 手を動かせば、余計な気持ちは薄まる……はずだった。


 でも、胸の奥のざらつきが、どうしても消えない。


     ◇


 ある日の放課後、れいなが軽く言った。


「ねえ、美春ってさ」

「なに?」

「周防さんのこと、好きでしょ」


 その一言が、空気を止めた。


 私の手が、ペンを握ったまま固まる。

 心臓が、急に跳ねる。


「ち、ちがうよ!」


 声が、思ったより大きく出た。


「ただの友達だよ。喫茶店で勉強見てもらってるだけで……」


 言葉が滑り出る。

 止められない。


 れいなは少しだけ目を細めて、笑った。


「図星じゃん」

「ちがうって!」


 私は笑って手を振る。

 空気を丸くする。いつもの癖。


 でも、その否定が、胸の奥に小さな棘として残った。


     ◇


 放課後、家庭科室で試作の味見会が開かれた。


 扉を開けた瞬間、甘い匂いが流れ込んできた。


 レモンの香り。

 焼けたバターの匂い。

 砂糖が焦げる、ほんの少しだけ苦い甘さ。


 その匂いが、教室とは違う空気を作っている。


 白い皿の上に、小さな焼き菓子が並んでいた。


 レモンケーキ。

 クッキー。

 カップに入ったコーヒー寒天。


 どれも、輪郭が崩れていない。

 色も、形も、余計なものがない。

 秋穂の"整える力"が、そのままお菓子になっている。


 私は、その光景を見た瞬間、息を忘れた。


 秋穂が、並べている。


 白い指先が、皿の端を整える。

 一つ一つの位置を、ほんの少しだけずらす。

 完璧なバランスを探している。


 その仕草が、美しい。


 秋穂の手が作るものは、全部美しい。


 夏祭りで見た秋穂の横顔が、フラッシュバックする。

 提灯の赤の下、湯気と甘い匂いの中で、秋穂は小さく笑っていた。

 あの瞬間の秋穂の温もりが、まだ肩に残っている。


 ――この人の手が作るものは、全部、愛おしい。


 胸の奥が、甘く痛くなる。


 その瞬間、クラスメイトが群がった。


「周防ちゃん、これ作ったの?」

「やば、見た目からして天才……」

「香り、すご……」

「家でも作れる? レシピ教えて!」


 声が飛ぶたび、秋穂は短く返す。


「……うん」

「……温度は、これくらい」

「……分量は、あとで」


 言葉の端は淡いのに、内容は正確だ。


「すごい!」

「プロじゃん!」

「文化祭、勝ったわ!」


 笑い声がはねる。期待が積もる。

 秋穂の周りだけ、光が集まる。


 私は少し離れたところで、その光景を見ていた。


 嬉しいはずだった。

 秋穂が認められるのは、私がずっと望んでいたことだ。


 なのに。


 胸の奥に、小さな棘が刺さる。


 ――秋穂が、みんなのものになっていく。


 その言葉が浮かんで、私は慌てて押し込める。


 押し込めながら、笑顔を貼りつける。


 れいなが、私の肩を叩いた。


「じゃあ、まず美春が食べて」

「え?」

「だって、いちばん秋穂の味を知ってるでしょ」


 周りが笑う。


 私は照れて、秋穂を見る。


 秋穂は少しだけ視線を逸らし――でも、頷いた。


 私は一歩前に出る。


 皿の上のレモンケーキを手に取る。

 指先に、ほんのり温かさが残っている。


 一口食べる。


 酸味がふわっと立って、後からコクが追いかける。

 甘いのに、重くない。

 レモンの皮の苦味が、ほんの少しだけ舌の端に残る。


 秋穂の"こだわり"が、味の形になっている。


「……おいしい」


 私は正直に言った。


「すごく、いい」


 秋穂の目が揺れる。

 あの喫茶店で、初めてタルトを食べた時の「……本当?」の目。


 私は頷く。


「本当」


 秋穂の口元が、ほんの少しだけ上がった。

 その小さな笑いが嬉しくて、胸が温かくなる。


 ――秋穂が、私だけを見ている。

 その瞬間が、特別だった。


 秋穂の視線の温度。

 私だけに向けられる、あの柔らかさ。


 私の心臓が、小さく跳ねる。


 ――これは、何?


 胸の奥が、甘くなる。

 甘いのに、少しだけ苦い。


 その感情の正体が、まだ分からない。


 でも、すぐに周囲の声が重なった。

「うわ、まじでおいしい!」

「これ売れるじゃん!」

「周防さん天才!」

「てか、結城さ、よく周防引っ張り出したね」


 笑い声。称賛。拍手。

 秋穂の名前が、あちこちで跳ねる。


 「周防さん」が、何度も呼ばれる。

 「結城さん」は――補足扱い。


 私は同じ輪の中で笑いながら、どこか取り残される感覚を覚えた。


 私も動いている。

 私が段取りを組んだ。

 私が責任者を引き受けた。


 でも、"味"が主役の場所では、私の働きは影になる。


 影でいい。私は支える役が得意だから。

 ……そう思おうとした瞬間、胸の奥に小さな穴が開く。


 影に慣れすぎて、影しか自分の居場所がないみたいに感じてしまう。

 私は"主役"になりたいわけじゃない。

 ただ、私は――私が何をしたいのか、自分の言葉で言えない。

 それが急に恥ずかしくなった。


 みんなには、好きなものがある。

 ダンスが好き。写真が好き。お化け屋敷が好き。


 私は?


 「支える」が好き?

 それは"好き"じゃなく、"癖"じゃないの?

 そんな考えが浮かんで、私は慌てて笑顔を貼り直した。


 空気に溶ける。うまく溶ける。

 でも、溶けるほど自分が薄くなる。


 れいなが、私の横顔をちらっと見た。

「……美春」

「なに?」

「今日、なんか変」

「変?」

「笑ってるけど、目が置いてけぼり」


 置いてけぼり。

 その言葉が、妙に的確で、私は言葉を失いかけた。

 

「そんなことないよ」

 私は笑って言った。

「秋穂、すごいし。嬉しいし」


 嘘じゃない。


 でも、"全部"じゃない。


 れいなは、何も言わずに私を見ていた。

 空気じゃなく、私そのものを見る目。


 私はその目から逃げるように、皿を片付け、手を動かした。


     ◇


 その瞬間、秋穂が小さく言った。

「……美春」


 振り向くと、秋穂が私を見ていた。

 周りの笑い声が遠のいて、秋穂の声だけが近い。

 

「美春の"おいしい"が、いちばん安心する」

 その一言が、胸に落ちる。


 秋穂の目が、少しだけ揺れている。

「誰に褒められても、美春が頷かないと、不安になる」


 秋穂が、小さく首を傾げる。

「……これって、おかしい?」


 おかしくない。

 私は、そう言いたかった。


 でも、言葉が出ない。


 喉の奥が、熱い。


 秋穂は、私を"特別"だと思ってくれている。

 

 その事実が、嬉しいのに、怖い。


 怖いのは――私も、秋穂を"特別"だと思っているから。

 

 そして、その"特別"を、誰にも渡したくないから。


     ◇


 夜、喫茶店。


 文化祭の話題は、店の空気まで少し浮き立たせていた。


 マスターが「学校で店の名前が出るなんてねえ」と笑い、秋穂はレシピノートに付箋を増やしている。


 紙をめくる音が、パラ、パラ、と静かに響く。

 ペンが走る音が、シャッ、シャッ、と続く。


 その音が好きだと思った。

 秋穂が"考えている"音。

 秋穂が"生きている"音。


 私は紅茶を啜りながら、段取りの確認を頭の中で反芻していた。

 そして、ふと気づく。


 私、今日ずっと"確認"ばかりしている。

 自分の気持ちは、一つも確認していない。


 秋穂が顔を上げた。

「……美春」

「ん?」

「最近、疲れてない?」

 その一言は、優しいのに逃げ道がない。


 私は反射で笑った。

「大丈夫」


 "いつもの"言葉。

 "いつもの"私。


 秋穂は少しだけ眉を寄せる。

 何か言いかけて、やめる。

 そのやめ方が、私を余計に苦しくさせた。


 マスターが、カウンターの奥から声をかけてきた。

「美春ちゃん」

「はい」

「顔が薄味だぞ」


 胸が跳ねる。

 笑って誤魔化そうとしたのに、笑いが引っかかる。


「え、そうですか?」

「うん。いつもは甘いのに」


 冗談みたいに言って、でも目は冗談じゃない。

「甘いのが売りの子が、急に無糖になってる」


 私は笑うしかない。


 逃げ道をくれるみたいで、逃げ道を塞がれるみたいで。


 秋穂は気づかないふりをして、ノートに視線を戻した。

 ページをめくる、ぱら、と小さな音が鳴る。

 その音が、今夜はやけに寂しく聞こえた。


     ◇


 喫茶店の閉店後。


 マスターが奥で片付けをしている音が、静かに響く。

 秋穂は先に帰った。

 私は一人で、カウンターに広げた段取り表を見直していた。


 チェック項目が並ぶ。


 ・衛生管理

 ・材料費

 ・シフト表

 ・アレルギー表示

 ・計画書提出

 ・備品リスト


 全部、丸がついている。

 最後の欄だけ、空白だった。


 「秋穂の気持ち」


 私はペンを握る。

 ペン先を、その欄に当てる。


 ――書けない。


 秋穂の気持ちが、分からない。

 私の気持ちも、分からない。


 いや、分かっているのかもしれない。

 でも、分かっていることを認めるのが、怖い。


 私はペンを走らせかけて、止めた。

 ……まだ、分からない。


 私も、秋穂も。


 ペンを置く。

 段取り表を閉じる。

 紙が重なる音が、小さく鳴る。


 窓の外を見ると、秋穂の後ろ姿が見えた。


 もう遠くなっている。

 街灯の下を、一人で歩いている。


 私の視線が、そこに吸い寄せられる。


 秋穂が、遠い。

 近いのに、遠い。


 教室では光の中にいる秋穂が、今は一人で夜道を歩いている。

 私は、その背中を追いかけたくなる。

 でも、足が動かない。


 追いかけて、何を言う?

 「秋穂のこと、好き」?


 言えない。


 まだ、言えない。


 私は、窓に映る自分の顔を見た。

 薄い顔。

 マスターの言う通り、甘さが消えている。

 私は、いつから"薄く"なったんだろう。


 外で、夜風がベルを鳴らした。

 カラン、と小さな音。

 その音が、秋穂を呼んでいる気がした。


 秋穂の後ろ姿が、曲がり角で消える。

 私は、その消えた場所を、ただ見ていた。


 胸の奥に、小さな穴が開いている。

 その穴の名前を、私はまだ知らない。


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