第6話「猶予の条件」

 喫茶店のテーブルに、紙が増えた。

 増えた、というより――"積もった"。


 紅茶の湯気の上を、付箋がはためく。パンフレットの紙は少し硬くて、指でなぞるとざらりとした抵抗がある。コピー用紙は薄く、指先の熱でふにゃりと撓む。

 いつものこの場所は、甘い匂いと、少し焦げたコーヒーの匂いと、古い木の匂いでできていたのに。今日はそこへ、インクと紙と、緊張の匂いが混ざっている。


 秋穂は髪をきっちり結び、ペンを走らせていた。

 書く音が細く、速い。図書室で本をめくる音みたいに、静かなのに意志がある音。


 私は資料の束を整えながら、思う。

 これ、本当に、家庭の話なんだろうか。

 会議みたいだ。試験みたいだ。


 でも――秋穂の母親に向き合うなら、たぶんこれくらいでちょうどいい。

 ふわっとした気持ちのままでは、刃に触れてしまう。


「……ここ、数字が古い」

 秋穂が、指でグラフの端を叩いた。

「去年の統計。最新は今年。訂正する」


「了解」

 私はスマホを開いて、検索結果をスクロールする。画面の光が指の腹に冷たい。

「こっち、更新されてる。就職率、少し上がってる」


「……採用する」

 秋穂の声は淡々としている。淡々としているのに、喉の奥に熱がある。

 "あきらめない熱"だ。


 パンフレットには、制服姿の学生が笑っている写真が載っている。

 秋穂はそれを見ない。

 写真よりも、下に小さく書かれた"カリキュラム"と"資格"と"就職支援"の段だけを拾う。必要な部分だけを、過不足なく。


 私はその姿が、綺麗だと思う。

 綺麗、という言葉は軽いかもしれないけど、私にはそれしかない。


「菓子職人って、"夢"じゃなくて"職業"だよね」

 私が言うと、秋穂は小さく頷いた。


「うん。だから……夢の話だけじゃ通らない」

「秋穂のお母さん、理屈でしか納得しない感じ?」

「……理屈と、結果」


 結果。

 その単語が、テーブルの上に重く落ちる。


 秋穂はノートに箇条書きを並べた。

 文字が小さく、整っている。行間まできっちり揃っていて、余白が少ない。余白がないのは、たぶん秋穂の心の中も同じだ。


 ・なぜ菓子職人になりたいか(動機)

 ・どう学ぶか(専門学校/資格)

 ・どう働くか(就職/キャリア)

 ・成績は維持できるか(計画)

 ・校則の問題(バイト)

 ・学費の負担(自分で払う)


「順番、これでいい?」

 秋穂が私を見る。


「うん。筋が通ってる」

 私は言って、少しだけ笑った。

 秋穂が「……笑うところ?」という顔をする。


「笑ったんじゃなくて、安心した。秋穂、ちゃんと"言える形"にしてる」

「……形にしないと、壊れる」

 秋穂がぽつりと言った。


 壊れる。

 夢が。自分が。


 私は喉の奥がきゅっとなるのを感じて、あえて明るく言った。


「じゃあ、壊れない形にしよう。二人で」

「……二人で」

 秋穂が小さく復唱する。

 その復唱が、少し嬉しそうに聞こえた。


 カウンターの奥から、マスターが新聞を畳む音がした。

 紙が擦れる乾いた音のあと、マスターがこちらへ歩いてくる。足音がゆっくりで、床がきしむ。


「ほんとに真剣だねえ。甘い匂いより、紙の匂いが勝ってる」

 マスターが笑いながら、コーヒーのポットを置いた。


 秋穂が小さく眉をひそめる。

「……見ないで」

「見ないよ。見ないけど、聞こえるんだよ。耳は勝手に働く」

「……うるさい」

「うるさいって言えるのは余裕がある証拠」

 マスターは肩をすくめ、私に目を向けた。

「美春ちゃんも、顔が"決める"になってきたね」


 私は、え、という顔になった。

 "決める"って、顔に出るものなの?


 秋穂が私に紙を一枚差し出す。

「……美春も、話す?」

「え」

「美春の言葉は、届く。私は言い方が硬いから」

 秋穂は一瞬だけ視線を逸らして、続ける。

「それに……一人だと、途中で折れる」


 折れる。

 秋穂が自分の弱さを言葉にする。

 それだけで、胸が痛いくらい大きな出来事だ。


 私は返事をする前に、深呼吸をひとつした。

 怖い。

 でも、最近の私は、怖いことを"後回し"にしたくない。


「……行く」

 私は言った。

「一緒に行く。秋穂が言えないところ、私が補う。私が言えないところ、秋穂が補う」


 秋穂の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 息が吐けたみたいに。


「……ありがとう」

 声が小さいのに、きちんと温度がある。


 マスターが、ぽん、とテーブルを軽く叩いた。

「よし。じゃあ今日の宿題は、想定質問の洗い出し。香織さんは、"質問で殴る"タイプだろ?」

「殴るって……」

 私が言うと、マスターは笑う。

「殴るよ。正しさってやつでね。だから盾も槍も準備だ」


 秋穂が小さくうなずく。

「質問、想定する」

 言い方が、もう会議だ。


 私たちはそのまま、想定問答を作った。

 "なぜ大学ではだめなの?"

 "収入の見通しは?"

 "失敗したときのプランは?"

 "成績が落ちたら?"

 "校則は?"

 "危なくないの?"

 "あなたは続けられるの?"


 秋穂は、ひとつひとつ答えを準備した。

 答えに詰まるたび、私は言葉を言い換えた。

 硬い言葉を、相手の耳に届く形にする。

 逃げ道ではなく、橋にする。


 その作業をしている時、私ははっきり気づいていた。

 ――私は、誰かの"夢"の隣に座っている。

 文化祭の成功とか、クラスの空気とか、そういうものよりずっと手触りのあるものの隣に。


 そのことが、嬉しかった。


     ◇


 プレゼン当日。

 空は驚くほど青かった。青さが眩しすぎて、逆に怖い。

 私は秋穂と並んで歩きながら、何度も手のひらを握りしめた。汗で指が少し滑る。


 秋穂の家は、駅から少し離れた住宅街にあった。

 門があって、庭があって、鉢植えが整然と並んでいる。

 この家には、"整える"という価値観が根付いている。

 秋穂のきっちりしたところは、きっとここで育ったんだ。


 インターホンを押す秋穂の指が、ほんの少しだけ震えた。

 私はその震えに気づいて、目だけで言う。――大丈夫。

 秋穂は小さく頷いた。

「大丈夫じゃなくても、やる」


 ドアが開く。

 現れたのは、秋穂によく似た目をした女性――香織さんだった。髪はきちんとまとめられ、服装にも隙がない。冷たいわけじゃないのに、温度が一定。体温というより室温。


「いらっしゃい」

 声が静かだ。

 香織さんの視線が私に止まる。止まった瞬間、刺さる。


「そちらは?」

「同じクラスの、結城美春」

 秋穂が言う。

 香織さんは眉をほんの少し動かした。驚きではなく、情報処理の動き。


「友達?」

「はい」

 私は反射で答えてしまって、胸がちくりとした。

 友達――それだけで片づけるには、もう私は秋穂のことを知ってしまっている。


 香織さんは「どうぞ」とだけ言い、リビングへ案内した。

 机の上には余計なものがない。床にも何も落ちていない。

 空間が、ちゃんとしている。

 私はその"ちゃんとしている"に、少し息が詰まる。喫茶店の黄色い光とは正反対の場所だ。


 香織さんは向かいに座り、メモ帳とペンを手元に置いた。

 家庭の話なのに、議事録を取る体勢。

 秋穂の背筋が、さらに伸びる。


 香織さんは「話して」と言う前に、カップを置いた。

 秋穂の前に一つ。私の前に一つ。

 カップの置き方が、妙に丁寧だった。音がしない。

 砂糖とミルクが、最初から"二人分"並んでいる。


「どうぞ」

 香織さんが言う。

 声は静かなのに、温度が――ほんの少しだけある。


 秋穂が「……ありがとう」と小さく言った。

 その声が、震えている。

 お茶を出されたからじゃない。

 "拒絶されていない"ことを、行動で示されたから。


 私は、カップに手を伸ばす。

 温かい。

 冷たくない。

 それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 秋穂が息を吸う。

「……私、菓子職人になりたい」


 言い切った瞬間、空気が少し硬くなる。

 香織さんは予想していた言葉を聞いた顔で、すぐに問いを置いた。


「大学じゃなくて?」

「うん」

「理由は?」

「好きだから」

 秋穂が答えかけて、すぐ言い直す。

「……好きだから、続けたい。仕事にしたい」


 秋穂は準備してきた順番で話した。

 専門学校のカリキュラム。資格の取得。就職支援。卒業後の進路。

 学費は自分で払うつもりで、そのためにバイトが必要だということ。

 そして、成績維持のための勉強計画。


 秋穂の声は震えているのに、言葉は崩れない。

 ガラスを両手で抱えて、落とさないように運んでいるみたいだ。


 香織さんは途中で遮らなかった。

 ただ、ペン先だけが紙の上を滑る。

 さらさら、という音が、妙に大きく聞こえる。


 秋穂の説明が終わったとき、香織さんは一拍置いて言った。


「現実を見なさい」

 言葉は静かなのに、胸に落ちると冷たい。

「不安定よ。体力も必要。賃金も高くない。続けられる保証もない」

 香織さんは淡々と続ける。

「あなたは成績がいい。大学に行けば選択肢が広がる。わざわざリスクを取る必要がない」


 正しい。

 正しさは、刃みたいに滑らかで、触れると切れる。

 反論すれば、反論した側が幼く見える。


 秋穂の指が膝の上でぎゅっと握られる。

 拳が震える。

 言葉が詰まる。

 その詰まりが、自己否定の癖に見えて、私は怖くなる。


 ここで秋穂が「夢なんて贅沢」と言ってしまったら。

 ここで折れたら、今までの準備が全部"間違い"にされる。


 私は、怖さを飲み込んで口を開いた。


「……すみません」

 自分の声が、思ったより響いた。

 香織さんの視線が私に向く。鋭い。

 でも、逃げない。


「結城さん」

 香織さんが名前を呼ぶ。

「あなたは、何の立場でここにいるの?」


 ――立場。

 私は一瞬詰まった。

 友達、という言葉が喉に浮かぶ。

 でも今日は、"空気を丸くする答え"を出したくない。


 私は、決めた。

 自分の意思で言う。


「……秋穂の話を、最後まで聞いてほしい立場です」

 言ってしまって、胸が熱くなる。

 香織さんの眉がわずかに動く。

 感情ではなく、評価の動き。


 私は続けた。


「私は、秋穂が作ったお菓子を食べたことがあります」

「……喫茶店の?」

 香織さんが確認する。

 秋穂の肩がわずかに強張る。


「はい」

 私は頷く。

「味が、ちゃんと違うんです。甘いだけじゃなくて、奥にちゃんと苦味があって、香りが残る」

 言いながら、自分でも変な表現だと思う。でも、嘘じゃない。


「それは、技術と努力の結果だと思います。才能って言うと軽いけど……でも、"向いてる"って、こういうことだと思いました」

 香織さんは黙っている。

 黙って聞いてくれることが、逆に怖い。


 だから私は、逃げずに"現実"の話に踏み込む。


「香織さんの心配が、分かります」

「……分かる?」

 香織さんの声が少しだけ硬くなる。

 試されている。


「分かります」

 私は言った。

「不安定な仕事だって。失敗するかもしれないって。秋穂が傷つくかもしれないって」

 言いながら、指先が冷たくなる。

 でも、言葉は止めない。


「だから、条件を作るのは正しいと思います」

 香織さんが少し目を細めた。

 条件――その単語に反応した。


 私は、ここで初めて"提案"を出す。

 ただの感想じゃなく、決めるための言葉。


 私は、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。

 手汗で少しふにゃっとしている。昨夜、秋穂と喫茶店で作った"想定問答"。

 香織さんの視線が紙に向く。一瞬だけ、眉が動いた。


「すみません、その、準備してきたので……」

 私は紙を広げる。指先が震える。

 文字が少し滲んでいるのが見える。でも、読める。


「あの、夏休みを……テストみたい、じゃなくて」

 言い間違えた。

 香織さんの視線が鋭くなる。

 私は息を吸い直す。


「夏休みを、"試験期間"にしてほしいです」

 香織さんのペン先が止まる。

 秋穂も驚いた顔で私を見る。


「夏休みの間に、秋穂がどれだけ自分の計画を守れるか。勉強とバイトと、お菓子の練習を両立できるか」

 準備してきたメモをめくる。


「もしできたら、続ける。できなかったら、やめる」

 言い切ると、香織さんの目がさらに細くなる。

 "それで本気か?"と問いかけているみたいに。


 私は続けた。


「成果報告も、毎回します。数字で」

 秋穂が小さく息を呑む。

 きつい条件だ。でも、ここで甘いことを言ったら、逆に香織さんは信じない。


 香織さんが、私と秋穂を交互に見た。

 "二人"を評価している目。


「あなたたち、簡単に言うわね」

 香織さんが言う。

「じゃあ、条件を積みます」


 私の背筋が伸びる。

 香織さんのペン先が紙を叩く。コツ、コツ、と。


「週に一回。成績の進捗、夏期講習の内容、模試の結果、生活リズム、バイトの勤務日数――全部、記録して見せなさい」

 秋穂の肩が強張る。


 そこで香織さんが、私に視線を向けた。


「結城さん。あなたは、どこまで手伝えるの?」


 私は一瞬だけ喉が乾く。

 でも、今日は逃げない。


「……週に一回、秋穂と一緒に勉強計画を見直します」

「それだけ?」

 香織さんの声が鋭い。

 私は、準備してきた紙をもう一度見る。

 ふにゃっとした紙。秋穂の字と私の字が混ざっている。


「必要なら、先生にも相談します。秋穂が一人で抱え込まないように――」

 言いながら、自分でも驚く。

 紙に書いてあったはずの言葉が、今は自分の言葉になっている。


 言いながら、自分でも驚く。

 私はいつも、責任が怖くて逃げてきたのに。

 今は逃げたくない。


 香織さんは、私と秋穂を交互に見た。

 "二人"を評価している目。


「……秋穂」

 香織さんが言う。

「あなたは、それをやり切れるの?」

 秋穂の喉が動く。

 怖い、という言葉が出そうな顔。

 でも秋穂は、目を逸らさずに言った。


「やり切る」

 声が震えている。

 震えているのに、逃げない声。


 香織さんは、そこで初めて息を吐いた。

 長く、深く。

 それは怒りの溜息じゃない。

 "覚悟を測る"ために止めていた呼吸を、ようやく解いたみたいな吐息だった。


 香織さんが言う。

「夏休みは遊ぶものよ。息抜きも必要」

 そこに、ほんの少しだけ母親の温度が混じる。

 "壊れてほしくない"という温度。


 秋穂が小さく言った。

「息抜き、する。……でも、逃げない」


 香織さんは、しばらく沈黙した。

 ペンを置き、指先でメモ帳の端を揃える。

 整える動作。

 その整え方に、感情が隠れている気がした。


 やがて香織さんは、決裁するみたいに言う。


「分かった」

 一瞬、私の胸が浮く。

 でも、香織さんは続けた。


「"条件付き許可"じゃない。"猶予"よ」

 言葉が鋭い。

 簡単には折れない、という宣言。


「夏休みの間、あなたが提示した通り、成果報告をすること」

 香織さんは具体的に条件を積む。


 秋穂の肩が強張る。

 でも、それが"本気で向き合う"ということだ。


「報告が曖昧だったら、その時点で中止」

「……うん」

 秋穂が頷く。


「そして夏休みの終わりに、もう一度話し合う」

 香織さんの視線が秋穂に刺さる。

「その時に、私が納得できる"結果"が出ていなければ、バイトも専門学校も、すべて白紙」

 言い切って、香織さんは少しだけ声を落とした。


「あなたが傷つくのが嫌なの」

 それは、正しさの刃じゃなくて、母の言葉だった。


 秋穂が目を見開く。

 その目に、一瞬だけ涙が浮かぶ。

 でも秋穂は泣かずに言った。


「……分かってる」

「分かってるなら、証明しなさい」

 香織さんは厳しいまま、でもどこか震えている。


 私はその震えを見て、香織さんがただ"敵"ではないことを改めて理解する。

 怖い人だ。厳しい人だ。

 でも、秋穂を守ろうとしている。

 守り方が硬いだけで。


 香織さんは立ち上がった。

 会議終了の動作。


 でも、扉へ向かう前に、香織さんは秋穂を見た。

 秋穂の肩が強張っている。

 疲れが、目の下にうっすら浮かんでいる。


「……今日はもう十分」

 香織さんが言った。

 声が、ほんの少しだけ落ちる。

「夕飯までには帰ってきなさい。続きは、夏休みの終わりに」


 秋穂が目を見開く。

 その目に、涙が浮かぶ。

「逃げ道」をもらえたみたいに。


 でも香織さんは、すぐに付け加える。

「条件は、変わらない」

 視線が鋭くなる。

「成績の報告は続く。曖昧だったら、中止」

 厳しい。

 でも、守るための厳しさ。


 私は、香織さんが単なる"敵"ではないことを、改めて理解する。


 秋穂に向けて言い、ドアの方へ向かう。

 去り際、香織さんは私を振り返った。


「結城さん」

「はい」


「……あなたは、責任が取れるの?」

 その問いは鋭い。

 私の弱いところを正確に刺す。


 でも、香織さんの声が――ほんの一瞬だけ落ちた。

 視線も、揺れた。

 試しているのか、確かめているのか。

 それとも、"娘を託していいか"を迷っているのか。


 私は一瞬だけ喉が乾く。

 でも、今日は"曖昧に笑う"を選ばない。


「取ります」

 言い切った。

「逃げません」


 香織さんの目が、さらに揺れた。

 でも今度は、驚きの揺れ。

 評価の揺れじゃない。

 "この子、本気だ"という揺れ。


「……そう」

 香織さんは短く言って、視線を逸らした。

 逸らすことで、自分の感情を隠すみたいに。


 残されたリビングの空気は、まだ固い。

 でも、さっきより少しだけ温度がある。

 私と秋穂の呼吸が、同じリズムで戻ってくる。


 秋穂が、ようやく息を吐いた。


「……終わった」

「終わってない」

 私は即答した。

「夏休みが、本番」


 秋穂が、苦い顔で笑う。

「……うん。本番」

 その笑顔は、逃げの笑いじゃない。

 覚悟の笑いだ。


「美春」

 秋穂が私の名前を呼ぶ。

 静かに、でもはっきり。


「さっきの……提案」

「うん」

「……なんで出たの」

 秋穂の目が、まっすぐ私に向く。


 私は胸の奥を探して、言葉を選ぶ。

 恋じゃない。

 まだ"恋心"と呼ぶには早い。

 でも、確かに"選びたいもの"がある。


「言わない方が、怖かったから」

 私は言った。

「秋穂が、また『贅沢』って言っちゃうのが怖かった」

「……」

「それに、私も練習したかった」

「練習?」

「自分で決める練習」

 私は笑って、でも逃げずに言う。

「秋穂のためでもあるけど、私のためでもある」


 秋穂は一瞬だけ目を逸らして、耳が少し赤くなる。

 それが可愛くて、私は見なかったふりをした。


「……ありがとう」

 秋穂が言う。

「一人だったら、途中で声が出なくなってた」


「私も」

 私は言った。

「一人だったら、黙って帰ってた。……でも、今日は黙りたくなかった」


 秋穂が小さく頷いた。

 その頷きが、私の胸の奥に残る。

 薄味じゃない。ちゃんとした味。


     ◇


 喫茶店のベルが鳴る。

 カラン。


 その音が、今日は少し違って聞こえた。

 "猶予をもらった音"。

 "条件の鎖が増えた音"。


 マスターがカウンターの奥から顔を上げる。

「おかえり。……お、顔が硬い。うまくいったのに硬いってことは、条件が重いな?」

「……重い」

 秋穂が小さく言う。

「夏休み、成果報告」

「ほう」

 マスターが眉を上げる。

「香織さん、簡単に折れなかったか」

「折れてない。猶予」

 私が言うと、マスターはふっと笑った。


「いいね」

「いいんですか」

「いいさ。夢を許すのに、相手が"覚悟"を求めるのは自然だ」

 マスターは二人分の紅茶を淹れながら言う。

「成果報告ってことはさ、夏に"結果"が必要なんだろ?」


 秋穂が頷く。

「……必要」

 声が少し固い。


 私はその固さを、握りしめるみたいに言葉にする。


「夏休み、ちゃんとやる」

「……うん」

 秋穂が私を見る。

「やる。やり切る」


 その瞬間、私は自分の中で何かが切り替わったのを感じた。

 文化祭の成功――それも大事。

 でも、今の目的はもう少し違う場所にある。


 秋穂の夢を、猶予で終わらせない。

 "白紙"に戻させない。


 それは、私が"決めて"いいことだと思った。

 誰かに合わせて選ぶんじゃなくて、自分の意思で選ぶことだと思った。


 マスターが紅茶を置く。

 湯気が立ち上る。

 その匂いが、いつもより少しだけ甘く感じるのは、たぶん――夏が近いからだ。


 秋穂がカップを両手で包み、ぽつりと言った。


「……美春、夏休み」

「うん」

「店、手伝って。……本気で」

「もちろん」

 私は即答した。

「本気でやる」


 私は、スマホを取り出した。

 画面に、新しいメモを開く。

 タイトルは「夏休み・成果報告」。


「記録、作ろう」

 私が言うと、秋穂が顔を上げる。

「香織さん、"記録して見せなさい"って言ってた。だから、続けられる形にする」


「……チェック表?」

「うん。週に一回、確認する。二人で」


 秋穂が、小さく笑った。

 震えてるのに、折れない笑い。


「……美春、本当に変わったね」

「変わった?」

「うん。前は、決めるの怖がってた」


 私は、少し照れて、でも逃げずに言う。


「今も怖い。でも――秋穂のためなら、怖がってる場合じゃない」


 秋穂の耳が、少し赤くなる。

 それが可愛くて、私は見なかったふりをした。


 マスターが、カウンターの奥から声を出す。


「責任ってのはな、"確認"だぞ」

 冗談めかした声なのに、重い。

「分かったつもり、やったつもり――そういうのが、いちばん危ない」


 秋穂が小さく頷く。

 私も頷く。


 秋穂が小さく笑った。

 震えてるのに、折れない笑い。


 マスターが、ふと思い出したように言う。


「そういえば、夏祭り出店の申し込み、しといたぞ」

「夏祭り?」

 秋穂が顔を上げる。

「ああ、町内会の。今年は店の名前出そうと思ってさ。申し込み締め切りギリギリだったけど、滑り込んだ」


 秋穂の目が、ほんの少し明るくなる。

「……限定、作りたい」

「いいねえ」

 マスターが笑う。

「詳細はチラシが来てからだけど、七月の最終週らしい」


「……間に合う?」

 秋穂が少し不安そうに聞く。

「間に合うさ。材料は早めに予約しとけば大丈夫」


 マスターの「予約しとけば」が、誰に向けた言葉なのか。

 私は一瞬、聞きそうになって――でも聞けなかった。

 マスターが全部やってくれる、と思ってしまった。


 秋穂も、小さく頷いただけだった。

 自分でやるつもりだったのか、マスターに任せたのか。

 そこを、確認しなかった。


 その小さな"聞けなさ"が、後で何を生むかを、私たちはまだ知らない。


 夏休みが来る。

 そして私たちは、"成果"を出さなきゃいけない夏になる。

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