第5話「冷たい手」
梅雨が明けて、夏が本格的に来た。
あの雨の日から、私と秋穂の距離は少しだけ近くなった。
秋穂は私を『美春』と呼ぶようになり、私も『秋穂』と呼ぶようになった。
喫茶店で過ごす時間は、いつもより温かかった。
あの雨の日、秋穂は私を救ってくれた。
「……結城」
絶望で立ち尽くしていた私の背中に、その声が落ちた。
振り返ると、秋穂がいた。黒い傘を持って、まるでそれが当然みたいに。
「入ってく?」
その一言が、どれだけ救いだったか。
傘の下で肩が触れる距離。秋穂は自分の肩を濡らして、私を守ってくれた。
そして、初めて名前で呼んでくれた。
「……美春」
その声は、私の名前に特別な温度をくれた。
秋穂は強い。決断力がある。迷わない。
私が決められない時、秋穂はいつも正しい選択肢を差し出してくれる。
だから――
だから今、秋穂の笑顔が消えていることが、私には信じられなかった。
あんなに強かった秋穂が、どうして今、目の奥の光を失っているんだろう。
◇
夏休み前の空気は、春の名残をひきずりながら、もう完全に"暑さの予告状"を突きつけていた。
廊下の窓から入る風はぬるく、教室の隅の扇風機は回っているだけで熱気を撹拌している。シャツの襟元に汗が張りついて、私は椅子に座り直すたび、スカートの裾をそっと引っ張った。
それでも教室の温度は、基本的に明るい。
期末テストの愚痴。部活の大会の話。夏休みの予定の相談。
笑い声はシャボン玉みたいに、どこかで絶えず弾けている。
私はその輪の中で、ちゃんと笑えている。少なくとも表面は。
――うまく混ざれる。うまく頷ける。うまく、空気に馴染める。
なのに、耳の奥に引っかかって離れない音があった。
教室の賑やかさの裏で、ひとつだけ温度の違う静けさ。
周防秋穂の静けさだ。
◇
最初に気づいたのは、目だった。
遠くを見る時の焦点が、ほんの少しだけ外れる。光が、奥へ引っ込む。
笑う回数が減った――というより、笑う"届き方"が変わった。
最近の私は、秋穂の小さな表情に慣れてきている。
梅雨の日、傘の下で私の名前を呼んだときの、耳の赤さ。
喫茶店で紅茶を運ぶとき、湯気の向こうで目尻だけが柔らかくなる瞬間。
そういう"秋穂の音量"に、私の感覚がようやく合わせられるようになってきた。
だからこそ分かってしまう。
最近の秋穂は、柔らかくなる前に止まる。
口角が上がるはずのところで、引き戻すみたいに無表情に戻る。
目尻がほどけかけて、でもほどけない。
喫茶店でも無言の時間が増えた。
黄色い照明の下で、秋穂がカウンターの端を拭く。いつも通りの丁寧な動き。無駄がなく、静かで、綺麗。
なのに今日は、その綺麗さが、ガラスみたいに冷たく見える。
私は秋穂の手元を見た。
布巾を握る指先が、いつもより白い。
冷たいのかもしれない。夏の暑さの中で、冷たい。
――あれ?
秋穂はいつも、手が温かい人だった。
紅茶のカップを運ぶ時、私の手に触れる瞬間、その温度が伝わってくる。
でも今日は、その温度がない。
「……秋穂、手、冷たくない?」
私が聞くと、秋穂は自分の手を見た。
そして、小さく首を振る。
「……大丈夫」
大丈夫、という言葉が。
私が一番使う言葉が、秋穂の口から出た。
それが、胸に刺さった。
「……秋穂」
私が呼ぶと、秋穂は顔を上げた。
「なに」
短い。輪郭がはっきりしている。いつもの秋穂の言葉。
でも、その輪郭の内側が空洞みたいに感じる。
「今日、暑いね」
私が選んだのは、逃げ道のある話題だった。
「……そうだね」
秋穂も、逃げ道のある返事を返す。
安全な会話。
安全なのに、今日はそれが怖い。
安全の中にいると、大事な変化を見落とす気がした。
"聞けるのに聞かない"という選択が、あとで取り返しのつかない距離に変わる気がした。
カウンターの奥で、マスターが氷をグラスに落とした。
からん、と澄んだ音が鳴って、夏が近いことを思い出させる。
その瞬間、秋穂の肩が小さく跳ねた。
――え?
私は目を疑った。
秋穂は、いつも物音に動じない。
教室の騒がしさの中でも、図書室の静けさの中でも、動じない。
なのに今、氷の音だけで、肩が跳ねた。
「夏だねえ。秋穂ちゃん、今年の夏も忙しくなるね」
マスターが言う。
「……はい」
秋穂は返事をする。でも、その「はい」には、妙に重さがない。
私はコーヒーの苦味を舌の上で転がした。
今日は薄い。いつもより水っぽい。
――気のせいだよ、と言い訳するのは簡単なのに、気のせいにしたくなかった。
聞けばいいのに。
秋穂、最近どうしたの? 元気ない? 何かあった?
言葉は簡単だ。口に出すのが難しい。
踏み込んで、「関係ない」と言われたら。
踏み込んで、「美春には分からない」と言われたら。
踏み込んで、距離を取られたら。
私は、秋穂に嫌われたくない。
その気持ちが、喉に引っかかって言葉にならない。
帰り道、夕方の風は熱いのに、胸の奥は冷えていた。
私は歩きながら、自分の中の"陰り"を確かめる。
秋穂の陰りが、私の陰りになっている。
それが嬉しいのか、怖いのか――まだ、名前をつけられない。
◇
翌日。昼休み。
れいなが、箸を持ったまま私の顔をじっと見てきた。
「……ねえ、美春」
「なに?」
「最近さ、顔が"喫茶店"なんだけど」
私は危うく麦茶を吹きそうになった。
「なにそれ。顔が喫茶店って」
「教室にいるのに目が別の場所見てる。レースのカーテンとか思い出してそう」
「してないって」
「嘘」
れいなの即断はいつも潔い。
私は笑って誤魔化そうとして――途中で止めた。
誤魔化すのが、少し疲れてきた。
「……周防さんのこと、気になってんの?」
れいなが、唐突に核心を突いてくる。
周りのざわめきが、薄い膜の向こうへ遠のいた。
教室の騒がしさの中で、私の心臓の音だけがやけに大きい。
「……うん」
声が、思ったより小さかった。
「最近、元気ない気がする」
れいなは、ほらね、という顔をした。
「なんで聞かないの」
「……聞けない」
「なんで」
「嫌われたくない」
言ってしまって、頬が熱くなる。
れいなにこんなことを言うのは、たぶん初めてだ。
れいなは少しだけ目を細めて、私を覗き込む。
「嫌われないために何かするってさ、結局"嫌われるのが怖い"ってことじゃん」
「……うん」
「なら、聞けば?」
「それが怖い」
「怖いことって、だいたい大事だよ。逃げるほど大事になってく」
苦い。正しい。
その"正しさ"に、今の私は逃げられなかった。
「……踏み込んでもいいのかな」
私がぽつりと言うと、れいなは肩をすくめる。
「踏み込むっていうか、友だちなら普通に聞くやつ」
「友だち……」
「え、違うの?」
れいながニヤッとする。
「違うなら、なおさら。普通じゃないなら、なおさら話さないとすれ違う」
すれ違う。
秋穂と。
喉が乾く。
れいなが箸で私を指した。
「美春。勝手に心配して勝手に黙って距離できるの、周防さんに失礼。あの子、そういうの嫌いそう」
秋穂の顔が浮かぶ。無駄がなく、決めつけが嫌いで、曖昧を嫌う人。
私は息を吸って吐いた。
「……聞く」
「よろしい」
れいなは満足そうに弁当へ戻った。
まるで"はい、ここまで"と区切るみたいに。
私はその潔さに、少しだけ救われた。
――怖い。でも、逃げたくない。
私は自分の手のひらを見た。
――自分で決める。
まだ、怖い。
れいなみたいに潔く決められない。
秋穂みたいに迷わず進めない。
でも、今日は。
今日だけは、決める練習をする。
◇
放課後、喫茶店の扉のベルが鳴った。
カラン。
その音はいつもと同じなのに、今日は少し違って聞こえる。
覚悟の音。逃げないための音。
あの雨の日も、この音が鳴った。
私と秋穂が、初めて名前で呼び合うことを決めた日も。
カランと鳴るたび、何かが変わる。
二人の距離が、一段ずつ、近くなる。
今日も、きっと。
店内は、いつも通りの黄色い光。
木の床が軽く軋み、奥で食器が触れ合う小さな音がする。
雨の日ほど静かじゃない。でも、教室よりずっと世界の音量が低い。
マスターが新聞を畳みながら顔を上げた。
「いらっしゃい。おや、今日は顔が真面目だねえ」
「そんなことないです」
と返したつもりが、声が少し硬かった。
秋穂はエプロン姿で豆の袋を抱え、私に気づいて目を上げる。
「……いらっしゃい」
店員の声。
そのあとに続く「美春」が、いつもより遅れてついてくる。
「……美春」
「うん。来た」
私は席に座る前に、深呼吸をひとつ。
心臓が早い。手のひらが汗ばむ。
けれど今日は、引き返さない。
秋穂が水を置く。
私はメニューを開かずに言った。
「紅茶、お願いします」
「……いつもの?」
「うん。いつもの」
"いつもの"と言える場所。
その言葉が、私の背中を少し押した。
紅茶が来るまでの時間が妙に長い。
秋穂の動きを目で追ってしまう。
エプロンの結び目。手首の角度。視線の落とし方。
――いつもと同じなのに、いつもじゃない気がする。
カップが置かれて、スプーンが小さく鳴った。
秋穂は向かいに座る。座るというより、仕事の合間に腰を下ろす姿勢。
「……どうしたの」
秋穂が先に聞いた。
「いつもより静か」
私は笑いそうになって、飲み込む。
静いのは、秋穂の方だ。
「……秋穂、最近元気ない」
言えた。喉が震えたけれど、言えた。
秋穂の指先が、カップの取っ手に触れて止まる。
一瞬、目が揺れて――すぐに戻る。しまい込むみたいに。
「……そう?」
「うん。笑顔、減った」
「元から多くない」
秋穂はそう言って、笑おうとする。
でもその笑顔は、途中で折れる。作ろうとしているのが分かる。
胸が痛んだ。
「……何かあった?」
私は続けた。踏み込む。怖いのに踏み込む。
秋穂は視線を落として黙る。
店内の音が大きく聞こえる。
マスターがカップを洗う水音。湯気の小さな弾ける音。
沈黙が、秋穂の盾みたいに立つ。
私は一度、紅茶を飲んで甘さを確かめる。
甘いのに、今日は足りない。
――甘いだけじゃ、届かない。
「……話したくないなら――」
言いかけて止めた。
逃げ道を作る癖。
今日は、その癖に手を伸ばさせたくない。
「でも、私……秋穂に助けてもらったから」
声が少し震える。
「今度は私が、秋穂のことを聞きたい」
秋穂の肩が小さく動く。息を吸ったのだと思う。
吸って、吐けない息。
しばらくして、秋穂がぽつりと言った。
「……お母さん」
その一言で、空気が変わる。
「お母さんが、何か言った?」
私が聞くと、秋穂は小さく頷いた。
「バイト、やめろって」
言葉は短い。だけど重い。
「……また?」
「今回が……本気」
秋穂は目を伏せた。
「夏休み。夏期講習、申し込まれてた。塾」
「え……勝手に?」
「勝手に、じゃない。……『当然』って顔で」
当然。正しい。安定。進学。
秋穂が以前、淡々と口にしていた言葉が、一本の刃になって繋がる。
「私は……バイト、増やしたい」
秋穂の声が少し低くなる。
「夏休みは稼げる。店も忙しい。……なのに、塾」
言葉が詰まる。
私は「ひどい」と言いたい。でも、秋穂の母親の"正しさ"を否定するのも怖い。
秋穂は自分の中で整理するみたいに続けた。
「お母さんは正しいことを言ってる」
その声には、諦めの影がある。
「成績、進学、安定。……正しい」
「でも、秋穂の夢は?」
私が言うと、秋穂の指先が少し震えた。
「……夢なんて、贅沢なのかも」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
秋穂は、私にとって"強い人"だった。
決められる人。迷わない人。私を救ってくれる人。
でも――
違う。
秋穂も、迷ってる。
秋穂も、怖がってる。
秋穂も、誰かに助けてほしいと思ってる。
私と同じ、普通の女の子なんだ。
その気づきが、胸に落ちた。
温かいのに、痛い。嬉しいのに、苦しい。
――秋穂は、完璧じゃない。
それが、なぜだか嬉しかった。
完璧じゃないから、私が隣にいる意味がある。
完璧じゃないから、私も助けられる。
私はずっと、秋穂に頼ってばかりだった。
雨の日も、教室でも、喫茶店でも。
秋穂が差し出す選択肢に、ただ頷いてばかりだった。
でも今日は、違う。
今度は、私が秋穂の隣に立つ番だ。
私は息を止めた。
贅沢。罪。
秋穂の中で"好き"が、許されないものになっている。
「贅沢じゃない」
思わず口から出た。
「秋穂の夢は、秋穂のだよ」
秋穂は小さく笑う。苦い笑いじゃなく、痛みを誤魔化す笑い。
「綺麗事」
「綺麗事でも、必要だよ」
私は引かなかった。
「じゃないと、苦いだけになる」
秋穂は私を見た。
その目は、ガラス越しじゃない熱を持っていた。
「……美春には、分からない」
少しだけ鋭い声。刺さる。胸が痛い。
それでも私は、頷いて言った。
「分からない」
「でも、分からないから聞いてる」
「秋穂の"いつも"が、最近違う。……私、それが怖い」
怖い、と言ってしまった。
自分の本音を。
秋穂のまつ毛が、一度だけ瞬いた。
そして、ぽつりと続ける。
「……逃げたい」
その一言が、テーブルの上に落ちた。
小さすぎて、聞き間違えかと思った。
「え……」
「逃げたい」
秋穂は繰り返す。繰り返して、すぐに口を押さえた。
「……ごめん。変なこと言った」
変じゃない。
全然変じゃない。
私だって、いつも逃げたいと思ってる。
決められない時、頼まれた時、嫌われそうな時。
いつも逃げたい。
秋穂も、同じなんだ。
「……お母さんね」
「うん」
「怖がってるんだと思う」
「怖がってる?」
「私が、失敗するのを」
秋穂は言葉を探す。
「……お母さん、昔、家計きつい時期あったって言ってた。大学、奨学金で大変だったって」
その瞬間、母親の像が少しだけ立体になる。
正しさの刃だけじゃない、過去の痛み。
秋穂は続けた。
「私が小さい頃、熱出して入院したことがある。……お母さん、毎日来てた」
「……毎日」
「仕事終わってから。眠そうな顔で」
秋穂は視線を落とす。
「そのとき、お母さん、私の手……ずっと握ってた。離さなかった」
その描写が、胸に落ちた。
"正しさ"の裏にある、"守りたい"の形。
「だから」
秋穂の声が少し震える。
「お母さんの言うこと、分かる。正しい。……愛情だって分かる。分かるのに、苦しい」
私はカップを両手で包んだ。温かい。
秋穂の言葉は冷たいんじゃない。寒い。心の芯を冷やす寒さ。
「……やめろって言われた」
秋穂は繰り返す。
「この店も、行くなって。校則違反だって。危ないって」
「……うん」
「成績が落ちたら、終わりだって」
「……うん」
「だから今、全部が怖い。バイトも、勉強も、夢も」
「どれか取ったら、どれか失う」
私は、ゆっくり頷いた。
秋穂の"怖い"は、自己否定の癖と結びついている。
失敗したら、全部自分のせいになると思ってしまう癖。
「……お母さん、たぶん条件つける」
秋穂がぽつりと言った。
「条件?」
「夢を認める代わりに、成績を落とすな、とか」
「バイトを許す代わりに、進学校を諦めるな、とか」
秋穂は視線を落とす。
「約束は守るけど、自由にはさせない」
その言葉が、胸に落ちた。
条件。鎖。
愛情の名前をした、檻。
「……秋穂」
私は名前を呼ぶ。
「失いたくないのは、夢?」
「……全部」
小さな答え。
「でも、順番に言うなら……夢」
その言葉を言ったあと、秋穂は口を閉じた。
夢と言うこと自体が、許されないみたいに。
私はその"許されなさ"を、少しでもほどきたかった。
「……お母さんに、ちゃんと話してみたら?」
私が言うと、秋穂は首を振った。
「無理だよ」
「無理って決めたら、そこで終わっちゃう」
「変わらない」
「変わらないかもしれない。でも、話さないと絶対変わらない」
私の声が、自分でも驚くくらい強くなる。
私はいつも強く言わない。嫌われたくないから。
でも今は、嫌われる怖さより、すれ違っていく怖さの方が大きい。
秋穂は少し驚いた顔をして――ほんの少し、笑った。
苦い笑いじゃない。驚きの笑い。
「……美春、変」
「変でいい」
「変……でも」
秋穂は言葉を探して、ぽつりと落とす。
「……羨ましい」
羨ましい。
私が?
決められなくて、合わせてばかりの私が?
その矛盾に、胸が熱くなる。
私が持っていないと思っていた輪郭が、秋穂には見えているのかもしれない。
私は紅茶を一口飲んで、カップを置いた。
甘さが、今日は力をくれる気がした。
――秋穂は、あの雨の日、私を助けてくれた。
迷わず。当然みたいに。
だから今度は、私の番だ。
「……一緒に考えよう」
言った瞬間、自分の声の強さに驚いた。
いつもの私なら、「一緒に考えようか?」と疑問形にする。
逃げ道を作る。嫌われないように。
でも今日は、違う。
「秋穂、一人で抱えなくていい」
私は秋穂の目を見て、続けた。
「あの雨の日、秋穂が私を助けてくれた。今度は私が、秋穂の隣にいる」
秋穂の目が、少しだけ揺れた。
そして、ほんの少しだけ、涙の気配が滲んだ。
「……美春」
小さく呼ばれる。
あの雨の日と同じ、私の名前。
でも今日は、立場が違う。
今日は、私が秋穂を救う番だ。
「一緒に考えよう」
私は繰り返した。自分を奮い立たせるかのように。
今だけは、強く在りたかった。
「お母さんが怖がってるなら、怖がらなくていい材料を出せばいい」
「材料?」
「根拠。計画。条件。秋穂、論理得意でしょ。お母さんも、数字とか理由なら聞く人なんだよね?」
秋穂は小さく頷く。
「……たぶん」
私は続ける。
「プレゼンみたいにしよう」
「やりたいことの理由。専門学校の情報。卒業後の進路。学費。バイトの時間。成績を落とさない工夫」
「……そんなの、できる?」
「できる。秋穂なら」
私は一拍置いて、付け足す。
「……私もいる」
秋穂の目が揺れた。
そして、ゆっくり頷く。
「……美春が、一緒なら」
声が小さすぎて、聞き返しそうになる。
「少しだけ、やってみてもいい」
胸の奥が、甘く熱くなる。
嬉しい熱。
「うん。一緒にやる」
言い切った。逃げない。
そこへ、マスターがカウンター越しに割り込んでくる。
「お、プレゼンかい。いいねえ」
「聞いてたんですか」
秋穂が少しむっとする。
マスターは悪びれず笑った。
「そりゃ、店は静かだしね。耳は勝手に働くさ」
その笑い方が、いつもと少し違う。
見抜いている笑い。
二人の変化を、全部見抜いている笑い。
私は少しだけ恥ずかしくなって、カップに視線を落とした。
それから少しだけ真面目な顔になる。
「手伝えることがあるなら言いな。学校の資料はないけど、専門学校のパンフなら、知り合いの子が置いてったのがある」
マスターが棚を探り、古い封筒からパンフレットを何冊か出してくる。
紙の擦れる音。ページをめくる乾いた音。
秋穂の指先が、その紙に触れて止まる。触れた瞬間だけ、目の奥の光が戻る。
「……ありがとう」
秋穂が小さく言った。
それは店員の「ありがとうございます」と違う、ちゃんとした感情のありがとうだった。
私は机の上を整理しながら言った。
「じゃあ、明日から準備しよう」
「明日……放課後」
秋穂が復唱する。
「うん。明日。放課後」
約束が輪郭になる。
逃げ道を塞ぐ。怖いのに、嬉しい。
◇
それから数日、私たちは"準備"を始めた。
まず、現状整理。
秋穂の成績推移。苦手科目と得意科目。期末までの残り日数。
バイトのシフト表。夏休みに入れたい日数と、最低限の勉強時間。
喫茶店の繁忙予測――マスターが「夏はアイスが出る」と言いながら、ざっくり教えてくれた。
次に、情報収集。
専門学校のパンフレットを広げ、学費やカリキュラム、就職先の例をマーカーで引く。
"製菓衛生師"という単語に秋穂が反応して、ペン先が止まる。
私はその反応を見逃さないように、横でメモを取った。
秋穂のレシピノートの隣に、新しいノートが増える。
タイトルは、秋穂が少し迷ってから書いた。
『お母さんに話すこと』
その文字が、いつもより丸い。
私はそれが、少し嬉しかった。
秋穂の字はいつも、まっすぐで角が立っている。
でも今日は、丸い。
その丸さが、私の胸をほどく。
――秋穂も、柔らかくなってる。
この数日で、少しだけ。
それが私といる時間のせいなら、と思ってしまうのは。
欲張りすぎるだろうか。
そして最後に、言葉の練習。
"夢"を"現実"へ繋ぐ言い方。
"好き"を"続ける価値"に変換する言い方。
秋穂は最初、言葉が硬かった。けれど、何度か繰り返すうちに、少しずつ自分の声になる。
私は横で、ただ頷く。
時々、言い換えを提案する。
"反論されたらどうする?"と問いを投げる。
秋穂は考えて、答える。
そのプロセスが、まるで一緒に菓子を仕上げていくみたいだった。
材料を揃え、温度を測り、手順を整えて、失敗しないように。
――でも、お母さんは材料じゃない。
人だ。心がある。怖さがある。愛情がある。
そのことを忘れないように、私は自分にも言い聞かせた。
秋穂の母親は"敵"じゃない。
秋穂を守ろうとして、刃を研いでしまった人なのかもしれない。
ある日、秋穂がぽつりと言った。
「お母さん、私のために早起きしてお弁当作ってる」
「……毎日?」
「うん。文句言いながら」
秋穂は少しだけ笑う。
「でも、卵焼き、焦げない」
「それ、すごくない?」
「……お母さん、完璧主義だから」
完璧主義。正しさ。愛情。
その全部が混ざって、秋穂の家の空気を作っている。
私は紅茶の湯気越しに、秋穂の顔を見る。
この数日、秋穂の笑顔は少しだけ戻っていた。
たぶん、怖さが消えたわけじゃない。
でも、"一人じゃない"という実感が、陰りを薄くしている。
二人は、親へのプレゼンを準備し始めた。
正しさの刃に、正面から向き合うために。
秋穂の夢を、守るために。
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