第7話「足りないもの」
夏休みの午後、喫茶店の扉を開けるのが、最近の日課になった。
カラン、とベルが鳴る。
外はすでに蒸し暑いのに、店内の空気はひんやりしていて、コーヒーの匂いと、木の床の冷たさが残っている。私はその温度差に肩の力が抜ける。
「お邪魔します」
奥からマスターの声が返る。
「おう、美春ちゃん。今日も来たか」
「夏祭りの準備、手伝いに」
「助かるよ。秋穂ちゃん、奥にいる」
私は、エプロンを借りてホールへ向かう。
バイトじゃない。あくまで夏祭り出店の準備を手伝う、という名目。
でも、秋穂と一緒にこの場所で動けることが、嬉しかった。
厨房の奥では、秋穂が働いている。
オーブンの予熱を確かめるボタンの小さな電子音。計量器のピッという音。ボウルに当たる泡立て器の軽い金属音。
髪をきっちり結び、エプロンの紐を短く結んで、袖をまくっている。
朝から店で働いている秋穂は、私が来る頃にはもう焼き菓子を何皿も作り終えている。
「秋穂、来たよ」
「……うん」
返事は短い。でも、短い中に"待ってた"感じがある。
教室の秋穂の声とは違う。喫茶店の秋穂の声は、少しだけ柔らかい。
窓の外では蝉が喧しく鳴いている。遠くで工事の音。近所の犬の吠え声。全部が混ざって、夏がくっきり輪郭を持つ。
店内には、焼き菓子の匂いが漂っている。バターと砂糖と、ほんの少しの焦げ目の匂い。
「これ、試作?」
私が厨房を覗くと、秋穂が小さく頷く。
「……夏祭り用。レモンのタルトカップ」
小さな容器に入れられた試作品が並んでいる。
爽やかな酸味が、夏の匂いと混ざる。
「味見していい?」
「……どうぞ」
スプーンで一口。
甘さの奥に、レモンの酸味がしっかり残る。
歩きながら食べても、香りが続く。
「……おいしい」
私が言うと、秋穂の口角がほんの少し上がる。
最近、その"ほんの少し"が増えた。
昼過ぎ、常連のおばあさんがカウンターでにこにこしながら言った。
「美春ちゃんも、すっかり店の一員ねぇ」
私は照れて笑う。
「いえ、まだ手伝いです」
秋穂は一瞬だけ目を逸らす。
「……でも、助かってる」
「そうそう。いい"手つき"だ」
マスターがポットを置きながら笑う。
いい手つき。
その言葉が、なぜか嬉しくて、私はカップを丁寧に置いた。秋穂も、口角がほんの少し上がる。最近、その"ほんの少し"が増えた。
ただ、増えたのは笑顔だけじゃない。
喫茶店の閉店後、机の上には数字と予定が増えた。
成績の記録、夏期講習の出欠、模試の予定、バイトのシフト。香織さんに提出する"成果報告"のための資料。秋穂が作る表の横に、私が書いたメモが増える。
「来週、報告だよね」
私が言うと、秋穂はペン先を止めた。
「……うん。週一」
「きついね」
「きつい。だから、崩せない」
崩せない。
秋穂がそう言う時、声が少し硬くなる。夢を守るための硬さ。
私はその硬さに、ついていきたいと思った。怖いけど、逃げたくないと思った。
"合わせる"だけじゃ、たぶんもう間に合わない。
◇
夏祭りの詳細が決まったのは、ある夕方だった。
マスターが新聞の代わりにチラシを持ってきた。町内会の夏祭り。提灯の絵。盆踊り。屋台の配置図。紙面から、炭火と砂糖の匂いがする気がする。
「チラシ、来たぞ」
マスターがテーブルに置く。
秋穂が手を拭いて、カウンターから顔を出す。
「……日程」
「七月の最終週。土曜の夕方から。言ってた通りだろ」
マスターが指でチラシを叩く。
「場所は町内会広場。屋台は十五店舗。うちは端っこだけど、日陰になる」
秋穂の目が、少しだけ光る。
「……端っこの方が、落ち着く」
「だろ? 混雑しすぎないし、常連さんも見つけやすい」
私はチラシを覗き込む。
屋台の名前が並んでいる。焼きそば、たこ焼き、かき氷――そしていちばん下に、「喫茶店 夏限定スイーツ」。
「……もう、載ってる」
私が言うと、マスターが笑う。
「そりゃそうだ。申し込んだのは先週だからな」
秋穂が小さく息を吸う。
「……本当に、やるんだ」
「怖気づいたか?」
「怖気づいてない」
秋穂が即答する。
「……限定」
秋穂の目が少しだけ明るくなる。
「冷たいの。持ち歩けるの」
「いいじゃないか」
マスターが頷く。
「美春ちゃんは?」
「……やります」
私は一拍だけ置いてから言った。即答もできた。でも、今日は"反射"じゃなくて"選ぶ"をやりたかった。
秋穂が私を見る。
その視線が、ふっと温度を持つ。
「決まりだな。」
マスターが言い、チラシをたたんだ。
「で、準備だけど」
マスターがカウンターに戻りながら言う。
「材料の発注と、試作と、備品の手配。三つに分けて進める」
秋穂が頷く。
「材料は……」
「秋穂ちゃんが得意だろ? レシピと数量を計算して、業者に連絡」
「……うん」
「美春ちゃんは備品担当。容器、袋、スプーン、保冷ボックス。あと、当日の動線も考えといて」
「分かりました」
マスターが腕を組む。
「俺は全体の調整と、町内会とのやりとり。困ったら相談しに来い」
そう言って、マスターは少しだけ視線を落とす。
「……ただし、今回は"自分たちで"やってもらう」
「え?」
私が聞き返すと、マスターが笑う。
「俺が全部決めたら、お前らの練習にならないだろ? 香織さんに報告する"成果"にもならない」
秋穂の肩が、少しだけ強張る。
マスターは続ける。
「分からないことは聞け。でも、"決める"のはお前ら。確認も、お前ら。失敗も――お前らだ」
その言葉は優しいのに、重い。
「……分かった」
秋穂が小さく頷く。
マスターが、ぽん、とカウンターを叩く。
「よし。じゃあ明日から本格始動だ」
◇
準備は忙しかった。
でも「忙しい」の中身は、雑にひとことで括れるようなものじゃなかった。
秋穂の手元で増えていくのは、作業じゃなくて"手順"だった。順番を間違えたら、味も形も、いとも簡単に裏切るやつ。
「……冷やしプリン、やる」
秋穂が言って、ボウルを二つ並べる。片方に卵。もう片方に砂糖。計量器がピッ、ピッと短く鳴り、厨房に小さな合図が散らばった。
卵を割る音は、乾いていて、静かだった。
殻の縁が器に触れるカツンという響き。黄身が落ちるときの、ぬるい粘り。
秋穂は迷わず白身の膜を拾い、泡立て器は"混ぜる"というより"ほどく"みたいに動く。
泡を立てない。空気を入れない。喉に引っかからないプリンにするための、最初の約束。
「美春、牛乳……鍋。弱火で、湯気が立つ手前」
「うん」
私は鍋に牛乳を注いで、火をつけた。ガスの音が、ふっと低く鳴る。
牛乳の表面がゆっくり揺れて、甘い匂いが立ち上がる――と思った瞬間、秋穂が横から覗き込む。
「……沸かさない。沸くと、卵が負ける」
「卵、負けるんだ」
「……負ける」
言い方が真面目すぎて、少し笑いそうになる。でも、その真面目さが"味"を作るのも知っている。
私は火をひとつ落とし、鍋肌に指先を近づけて、温度を"聞く"。
熱すぎない。ぬるすぎない。湯気が立つ寸前の、ぎりぎりの線。
秋穂は砂糖を卵に落としながら、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。
「……砂糖、溶け残るとざらつく」
「じゃあ、ちゃんと溶かす」
「……うん。ここ、丁寧に」
丁寧に――その言葉が、秋穂の指の動きにくっついている。混ぜる手は速いのに、強くはない。
泡立て器がボウルの底を撫でる音が、さら、さら、と続く。どこにも引っかからない音。
牛乳が温まったところで、秋穂がボウルを少しだけ私の方に傾ける。
「……ここから、分ける」
「分ける?」
「卵に一気に入れると、固まる。――だから、少しずつ」
私は鍋からお玉で牛乳をすくい、細く細く垂らした。卵液の表面に落ちた瞬間、ふわっと甘い湯気が立つ。
秋穂が泡立て器を止めず、液体を受け止めていく。
熱と冷たさが混ざっていくのが、目で見えてしまう。
全部を合わせたあと、秋穂は一度だけ深呼吸してから、こし器を出した。
「……ここで、滑らかにする」
「こすの、気持ちいいよね」
「……気持ちいい」
秋穂が小さく頷いて、でもすぐ真顔に戻る。
「気持ちよくても、焦らない」
こし器の上で、淡い黄色がゆっくり落ちていく。膜や小さな固まりが残り、下に溜まっていく液は、光を含んだみたいに透ける。
私はそれを見て、なんだか"心の角"まで取れていくみたいだ、と思ってしまう。
次はカラメルだった。鍋に砂糖と水。火にかけると、最初は透明で、だんだん色が深くなる。
秋穂の視線は鍋から一ミリも逸れない。
「……香りが立ったら、止める。焦げは苦いだけ」
「苦いのは、秋穂の得意分野じゃない?」
「……得意じゃない」
色が琥珀に変わる瞬間、秋穂が火を止めた。お湯を少しだけ足して、じゅっと音がして、甘い香りにほろ苦さが混じる。
私は思わず息を吸う。喉の奥が、勝手に"おいしく"なる。
小さな容器にカラメルを落とし、上からプリン液を注ぐ。液面は揺れて、すぐに落ち着く。
秋穂は容器を指で軽く叩いて、気泡を追い出した。
「……気泡、嫌い」
「見た目の問題?」
「食感の問題」
蒸し器の湯気が、白い雲みたいに上がった。容器を並べ、蓋をして、火加減を調整する。
秋穂はタイマーを押して、腕を組んだ。
「……ここは、待つ」
「待つのも、仕事なんだ」
「……待てないと、崩れる」
待っている間、私たちは次の容器やスプーン、保冷剤の数を確認した。
秋穂は時々、蒸し器の蓋をほんの少しだけ開けて覗く。
湯気の向こうで、プリンの表面がゆるく震えているのが見えた。
「……揺れが、小さい。いい」
「揺れで分かるの?」
「……分かる」
火を止め、粗熱を取って、冷蔵庫へ。容器を並べるとき、秋穂の手が一瞬だけ優しくなった。まるで、壊れやすい生き物を寝かせるみたいに。
しばらくして、一本だけ試食用に取り出す。
スプーンを入れたとき、抵抗はほとんどなくて、でも沈みすぎない。すくい上げた断面が、つるんとしている。
「……どう?」
秋穂が聞く。声は淡々としてるのに、目だけが真剣だ。
私は口に入れた。最初に冷たさ。次に卵の丸い甘さ。最後にカラメルの香りが、ゆっくり戻ってくる。口の中に残るのは、重さじゃなくて、落ち着きだった。
「おいしい。夏なのに、ちゃんと"店"の味がする」
私が言うと、秋穂の口角が、ほんの少しだけ上がった。
レモンのタルトカップも、並べてみると見た目が可愛い。黄色が、夏祭りの提灯の赤に映える気がした。小さな容器に入れて、歩きながら食べられる。
爽やかな酸味。夏らしい軽さ。秋穂らしい丁寧さが詰まっている。
「これ、絶対売れる」
私が言うと、秋穂は珍しく胸を張った。
「……売れる。計算上」
「計算上でも、売れるは売れる」
「……うるさい」
口ではそう言いながら、少しだけ嬉しそうだった。
問題は、そこからだ。
私が担当したのは、屋台の備品と動線。テーブルの高さ、保冷ボックス、容器、スプーン、紙ナプキン、値札、釣り銭の準備。
秋穂は材料と仕込みの段取り。卵、牛乳、生クリーム、レモン、砂糖、粉。
マスターは全体の調整と、町内会とのやりとり。
三人それぞれが動いているのに、どこか連絡が薄い。忙しさが、会話を削る。
"言わなくても分かるだろう"が少しずつ増えていく。
マスターは、その様子を見ていた。
カウンターの奥から、新聞を読むふりをしながら。
時々、二人のやりとりに目を向ける。
「……材料、そろそろ発注しないと」
秋穂がぽつりと言う。
私は、てっきりマスターが全部まとめてやってくれると思っていた。
「私は容器の数、確認しとくね」
「……うん」
その「うん」だけで終わる会話。
誰が何をどこまでやるのか。
曖昧なまま、時間だけが過ぎる。
マスターは、何も言わなかった。
言いたそうな顔を、一瞬だけした。
でも、言わなかった。
――あえて。
◇
祭りの三日前の午後、マスターの電話の声が、店の空気を変えた。
「……え? 卵が……?」
受話器の向こうの声は聞こえないのに、嫌な予感だけが膨らむ。
「牛乳も? 生クリームも? ……分かった。ありがとう」
マスターが電話を切ったあと、しばらく無言になった。
暑さで膨らんだ空気が、急にしぼむ感じ。
「……材料、足りないって」
マスターが言う。
声が、いつもより低い。
秋穂が厨房から飛び出してくる。
「え? でも、発注したはず――」
「したの?」
マスターが聞き返す。
秋穂の顔が、さっと青くなる。
「……した、と思ってた」
「誰が?」
「私が……いや、マスターが全部まとめて……」
マスターが、ゆっくり首を振る。
「俺は"自分たちで"って言ったぞ。材料の発注は秋穂ちゃん担当」
秋穂の指が、エプロンの端を強く握る。
私も、頭が真っ白になる。
「でも、市場全体が品薄らしい」
マスターが続ける。
「猛暑で物流が乱れてる。スーパーも品薄だって」
マスターは、私たちを見る。
責める目じゃない。
"どうする?"と問いかける目。
「……俺が代わりに発注してもいい」
マスターがゆっくり言う。
「でも――それじゃ、お前らの"成果"にならない」
秋穂が、唇を噛む。
私は、喉の奥が乾く。
「自分たちで、解決策を出してみろ」
マスターが言う。
「失敗から立て直すのも、仕事のうちだ」
秋穂が厨房へ向かって冷蔵庫を開ける。卵。牛乳。生クリーム。
並んでいるのに、足りないのが目で分かる。足りない、という事実は目で見ると重い。
「……嘘」
秋穂の声が震える。
「嘘じゃない」
マスターが眉を寄せる。
秋穂はカウンターに手をつき、息を吸った。
吸ったのに、吐けないみたいな顔。
「でも……予約、入ってる」
「予約?」
私が思わず聞くと、秋穂がこちらを見る。
そこに、初めて"え?"の色が浮かんだ。
「……入ってるよ。常連さんと、町内会の人。『夏祭りで出すなら買う』って言われて……」
「それ、どれくらい?」
「……三十。いや、四十」
秋穂が唇を噛む。
「追加で……」
私は頭が真っ白になりかけて、でも自分の担当を思い出す。容器の発注数。ナプキンの数。スプーンの数。
「……私、容器五十頼んだ」
私が言うと、マスターが目を丸くした。
「五十? そんなに?」
「え、だって……」
私は言葉に詰まる。
「秋穂がそれくらい作ると思って……」
秋穂も、同じように固まっていた。
作る"と思って"。
頼んだ"つもりで"。
マスターが、ゆっくり息を吐く。
「……おいおい」
笑えない冗談みたいな声だった。
「材料は半分。容器は五十。予約は四十。――噛み合ってねぇじゃないか」
秋穂の顔から血の気が引く。
目が大きくなる。呼吸が浅くなる。
「……私、足りるように発注したと思ってた」
「……私も、マスターが全部まとめてくれたと思ってた」
私の声も小さくなる。自分のせいだと分かる。分かるけど、どこをどう直せばいいか分からない。
秋穂が、思わず声を荒げた。
「美春には分からない……! 卵と牛乳がないと、タルトもプリンも――」
言いかけて、秋穂はすぐに口を閉じた。
自分で自分を殴るみたいに。自己否定の癖が顔を出す。
「……ごめん。私……」
「謝らなくていい」
私は、すぐに言った。
ここで"空気を丸くする笑い"を出したら、終わる気がした。
「今は――状況を整理しよう」
私が言うと、秋穂がこちらを見る。
驚きが混ざった目。
「整理、って」
「何が足りないか。どれくらい足りないか。何が代替できるか」
私は指を折って言う。
「秋穂、得意でしょ。こういうの」
秋穂は一瞬、唇を噛んだあと、小さく頷いた。
その頷きが、折れそうな枝を支えるみたいに頼りなく、でも確かだった。
マスターがカウンターを叩く。コツ、と乾いた音。
「よし。まずは数だ。泣いても材料は増えない」
「……泣いてない」
秋穂がかすれた声で返す。
「泣く前だろ」
マスターが言って、視線を私に向けた。
「美春ちゃん、容器と備品の一覧、出せるか」
「出せます」
私はスマホのメモを開く。指が少し震える。でも、ここで震えて止まったら、また"誰かに委ねる"に戻る。
「秋穂は材料と仕込み量の再計算。今ある卵と牛乳で、どれだけ作れるか」
「……分かった」
秋穂が言って、紙とペンを引き寄せる。ペン先が紙を擦る音が、妙に大きい。
計算の途中で、秋穂が小さく呟いた。
「……足りない」
その三文字が、店内の温度をさらに下げた。
「どれくらい?」
マスターが聞く。
「……タルトカップ、二十が限界。プリンも……二十いかない」
秋穂が唇を噛む。
「予約、四十。屋台で売る分も……」
私は喉の奥が乾く。
夏祭りは"成果報告"の材料になる。
香織さんに、秋穂が"やり切れる"と示すための夏。
そこで躓いたら――猶予が終わる。
まるで、頭の上に見えないタイマーがぶら下がっているみたいだった。
「……どうする」
マスターが言う。
「予約、断る?」
「……無理」
秋穂が即答した。
即答するくらい、怖いんだ。信用を落とすのが。夢が遠のくのが。
私は、口を開きかけて、言葉が喉に引っかかった。
"代替メニューを作ろう"と言えばいい。
分かっている。分かっているのに、今はまだ、考えが追いつかない。
秋穂も同じだった。
いつもなら即座に解を作る彼女が、目の前で止まっている。
その瞬間、私たちはやっと気づく。
外的要因だけじゃない。
このピンチには、私たちの"連携不足"が混ざっている。
「……確認、しとけばよかった」
私が小さく言うと、秋穂が一瞬だけ目を閉じた。
「……私も」
秋穂の声は、責めるより先に、悔しさで震えている。
マスターが、ふっと笑った。笑いではなく、吐息に近い。
「いい機会だよ」
「……なにが」
秋穂がかすれた声で問う。
「仕事ってのはな、味だけじゃ回らない。連携がないと、味まで壊れる」
マスターは二人を見た。
「今ここで崩れたら、祭りだけじゃない。店も、お前らも、信用も、全部だ」
秋穂の指が、紙の端を強く握る。
私は、スマホの画面を握りしめる。
汗で手が滑るのに、離したくない。
材料は足りない。
予約はある。
私たちは、連携をミスった。
――ここから、どう舵を切る?
店内に、しんとした静けさが落ちた。
外の蝉の声だけが、やけに元気に響いている。
秋穂が、小さく息を吸う。
そして、私を見る。
「……美春」
名前を呼ぶ声が、いつもより頼りない。
私は、逃げたくなる気持ちを踏みつけて、頷いた。
「うん。考えよう」
言葉は震えなかった。
震えないように、両足に力を入れた。
「今度は、ちゃんと"二人で"」
夏祭りまで、あと三日。
ピンチは、ようやく本当の形を現した。
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