第4話「ちいさな別世界」

 六月の空は、朝からずっと迷っている顔をしていた。晴れたいのか、泣きたいのか、どっちつかずの灰色。

 教室の窓ガラスに、まだ降っていない雨の匂いだけが先に貼りついている。


 私はその匂いを嗅いだ瞬間、嫌な予感がした。

 ――傘、持ってきたっけ。


 思い返すと、今朝は最悪だった。

 目覚ましを止めた記憶はあるのに、次に気づいた時にはもう制服の袖を通していて、靴下を片方だけ履いたまま玄関に飛び出していた。髪を結ぶゴムも、昨日の机の上に置きっぱなし。指で適当にまとめて、鏡も見ずに家を出た。


「美春、前髪……」


 一限前、れいなが指で私の額をちょいちょいと示した。

 鏡を見ると、前髪が微妙に割れている。まるで私の"今日"がすでに乱れていることを告げるみたいに。


「やだ、寝ぐせ?」

「寝ぐせっていうか……人生の乱れ」

「ひどい!」


 笑いが起きる。私はそこに混ざって笑う。笑いながら、胸の内側でこっそり確認する。

 ――傘、ない。たぶん、ない。


 昼過ぎ、窓の外が急に暗くなった。

 遠くで雷が鳴るほどではないけれど、空気の膜が一枚厚くなる。雨の前の静けさ。黒板のチョークの粉っぽい匂いと、湿気が混じる。


 ぽつ。

 ぽつ、ぽつ。


 最初の雨粒は、まるで確かめるみたいに窓を叩く。

 すぐにリズムが増えて、音が揃って、線になって――雨は迷うのをやめた。


 教室のざわめきが「雨だね」に変わる。

 誰かが「梅雨じゃん」と言い、誰かが「最悪」と言って笑う。


 私はその会話に、うまく相槌を混ぜながら、心の中でだけ固まっていた。


 ――傘、忘れた。


 言えばいいのに。誰かに「傘貸して」と言えばいいのに。

 でも、喉の奥がつっかえる。相談をするのは、頼るのは、まだ練習中のこと。私はつい、いつもの手順に戻ってしまう。


 "平気なふり"をする。

 "自分でなんとかする"を選ぶ。

 そのくせ、選ぶのが怖いから、最後まで決めない。


 放課後になるにつれ、雨脚は強くなった。

 帰りのホームルームが終わる頃には、窓の外は斜めの線で埋まっている。廊下の向こうの景色が滲んで、世界が水彩画みたいになっていた。


「ねえ、だれか相合い傘しよー」

「やだ、濡れたくなーい」

「コンビニ寄りたいから傘貸して!」


 笑いながら傘を広げる音が、教室のあちこちで鳴る。布がぱっと花開く音。金属の骨が伸びる音。

 その中に、私だけが傘の音を持っていない。


 ふと、前の席にれいなの背中が見えた。

 鞄を整理していて、傘を手に持っている。ピンク色の持ち手。

 声をかければいい。「ねえ、傘……」って。


 喉が開きかける。

 でも、次の瞬間、喉の奥で何かが引っかかった。


 ――お願いするのは、"負担"になる。

 ――私が困らせる側になる。

 ――れいなは断らない。だから、余計に悪い。


 その思考が、言葉を飲み込んだ。


 私は視線をそらして、鞄を持ち上げた。

 ――走ればいいか。

 心の中で、自分に言い訳する。

 ――ちょっと濡れるだけだし。大丈夫。


 でも、その"大丈夫"は、いつもの"大丈夫"だ。

 平気なふりをして、一人で抱えて、後で息が詰まる"大丈夫"。


 "旧い自分の手"が、また伸びかけている。


 私はそれに気づいて、胸が苦しくなった。

 ――変わりたいって、思ったのに。


 でも、変わるのは怖い。

 今までのやり方を手放すのは、もっと怖い。


 私は鞄を持ち上げて立ち上がり、なるべく自然な顔で教室を出た。

 ――下駄箱まで行って、様子を見る。

 運よく雨が弱まっていたら、走れる。そうじゃなくても……なんとかする。


 なんとかする、って、何を?

 自分に問いかけると、答えは曖昧なまま、心臓だけが早くなる。


 廊下は湿った匂いがした。

 窓の隙間から、雨の音が直接入ってくる。校庭の砂が叩かれる、細かな音。屋根のトタンが鳴る、鈍い音。

 足音が反響して、やけに広く感じる。


 下駄箱の前は、いつもより賑やかだった。

 傘立ての周りに人が集まって、靴を履き替えて、外へ流れていく。扉が開くたび、雨の匂いと冷たい風が入り込む。


 私は下駄箱の自分の段を開けて、念のため傘を探した。

 ――やっぱり、ない。


 鞄の横ポケットも、教科書の隙間も、全部探して、最後に自分の愚かさだけが残った。


 "相談できない"のは、別に誇れる性格じゃないのに。

 それでも私は、誰にも声をかけられないまま、下駄箱の前に立ち尽くしてしまう。


 外へ出る扉を見た。

 雨は本気だ。走ったら、きっと制服は濡れる。髪も、鞄も。

 帰ってから母に「濡れたの?」と聞かれて、「うん、傘忘れた」と言って、「気をつけなさい」と言われて終わる。それだけの未来が見えるのに、胸がぎゅっとなる。


 私は、何が嫌なんだろう。

 濡れるのが嫌なんじゃない。

 "自分で決められない自分"が、また露呈するのが嫌なんだ。


 喉の奥が、じわりと熱くなる。

 目の前の扉が、少しだけ滲んだ。


 ――また、これだ。

 また、私は何も決められないまま、立ち尽くしている。


 誰かに頼ることもできない。

 自分で決めることもできない。

 ただ、雨を眺めて、固まっている。


 胸が苦しい。

 息を吸おうとすると、涙が落ちそうになる。


 私は慌てて目を閉じた。

 瞬きを何度かして、視界の滲みを押し戻す。

 ――泣いちゃダメだ。

 そう自分に言い聞かせる。でも、声が震える。


 そうやって立ち尽くしていた時、背中の方から、静かな声がした。


「……結城」


 呼ばれて振り返ると、そこに秋穂がいた。

 黒い傘を一本だけ持っている。持ち手を指で軽く握って、まるでそれが当たり前みたいに、私の前に立っている。


 制服の上にカーディガンを羽織っているからか、雨の匂いの中でも秋穂はどこか乾いた輪郭を保って見えた。

 でも、目は私の顔をちゃんと見ていた。


「傘、ないの」

 問いじゃなく確認みたいな口調。

 私の視線が傘に落ちたのを、見逃さなかった。


 私は反射で笑おうとして、途中で止めた。

 ここでごまかしたら、たぶんまた同じになる。


「……忘れた」

 小さく言うと、秋穂は一瞬だけ眉を寄せた。

 怒っているわけじゃない。計算している顔だ。


「走るつもりだった?」

「……一応」

「濡れる」

「うん」

「風邪ひく」

「……うん」


 秋穂は短く息を吐いて、傘を少し持ち上げた。


「……ここから喫茶店までなら」

 一拍。

「入ってく?」


 "傘、ないなら入っていく?"よりずっと、秋穂らしい言い方だった。

 余計な飾りがない。助けるというより、当然の選択肢として差し出す言葉。


 胸が、こつんと鳴った。

 私はすぐに「いいよ」と言いそうになって、また止めた。


 "自分で決める"練習。

 今日は、その練習をしたい。


 私は秋穂の目を見て、頷いた。


「……うん。お願い、してもいい?」

「うん」


 秋穂は傘を開いた。

 ぱん、と布が空気をはじく音。雨粒が弾け、骨が伸びる。

 その音の後、世界の雨音が少しだけ遠くなる。傘の内側は、ちいさな別世界だった。


 秋穂が傘を私の方に寄せる。

 私が傘の下に入ると、距離が一気に縮まった。


 肩と肩が、ほんの少し触れる。

 制服の布越しに、熱が伝わる。

 その熱が、びっくりするくらい"生きている"感じがした。


 でも、それだけじゃない。

 秋穂の腕が、私の腕のすぐ横にある。歩くたびに、ほんの数センチの空気が揺れる。その揺れが、肌に触れる寸前で止まる。触れないのに、触れているみたいに感じる。


 心臓が、一拍飛ぶ。

 秋穂の呼吸の音が、傘を叩く細い連打の下に隠れて聞こえる。規則正しい、落ち着いた呼吸。

 私の呼吸は、それに比べて浅くて早い。


 バレたら恥ずかしい。

 でも、隠せない。


 秋穂の髪が、風で少しだけ揺れて、シャンプーの香りが鼻をかすめる。石鹸みたいな、清潔な匂い。

 私はその匂いに、一瞬だけ意識が飛びそうになった。


 外に一歩出ると、雨の匂いが強くなる。

 アスファルトが濡れ、土が湿り、葉っぱが洗われる匂い。

 傘に当たる雨音が、細かな指で叩かれるみたいに連続して響く。


 秋穂は傘を更に私側へ傾けた。

 私は気づいて、横目で秋穂の肩を見た。


 秋穂の右肩が、じわりと濡れている。カーディガンの色が少し濃い。

 私の方はほとんど濡れていない。


「周防さん、肩……濡れてる」

「いい」

「よくないよ。半分こしよ」

「……結城が濡れる」

「私も濡れていい」

「よくない」


 言い切る声が、水のカーテンの音に負けない硬さを持っていた。

 秋穂は、こういうところがある。自分のことを後回しにして、相手のことを優先して、それを当然みたいにする。

 その優先が"優しさ"なのか、"癖"なのか、私はまだ分からない。


 歩くたびに水たまりが跳ねる。靴底が水を踏む音。

 傘の下で、私たちの足音だけが近い。


 不意に、秋穂が足を止めて、傘を持つ手を少し持ち替えた。

 私の方へ、さらに寄せる。


「……美春」

 小さく呼ばれて、私は息を止めた。


 名前。私の名前。

 秋穂の声で。


 胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 心臓が跳ねる。喉が詰まる。

 視線をそらしたいのに、そらせない。秋穂の横顔が、雨の灰色の中ではっきりしすぎている。


 唇が少しだけ開いて、吐息が漏れそうになる。

 私は慌てて口を閉じた。


「……え」


 声が、かすれた。

 自分の声じゃないみたいに、小さくて、頼りない。


「段差、ある」


 そう言って秋穂は視線で足元を示す。

 私は段差を跨いで歩きながら、頭の中でその一音を反芻してしまう。


 美春。

 私の名前。

 今までずっと「結城」だったのに。


 間違えたのかもしれない。

 つい、出ただけなのかもしれない。

 でも、秋穂の声で私の名前が呼ばれたことが、胸の奥で甘く膨らむ。


「……今、名前」

 私が言うと、秋穂は視線を前に固定したまま、ほんの少しだけ耳が赤くなった。


「……呼びやすいから」

「苗字の方が呼びやすいでしょ」

「……結城って、教室でいっぱい飛ぶ」

「飛ぶ?」

「呼ばれてる。色んな人に」


 雨の中で、その言葉は変に刺さった。

 私は、色んな人に呼ばれて、色んなお願いを引き受けて、色んな顔をして――どれが自分なのか、時々分からなくなる。


 秋穂は続けた。


「……美春は、ここだと静か」

「……静か、かな」

「うん。だから……分かりやすい」


 分かりやすい。

 その言葉が嬉しいのか、怖いのか、すぐには決められなかった。


 でも、胸は確かに、温かい。

 雨の日の温かさじゃない。

 もっと、内側の温度が上がる感じ。


 喫茶店までの道は、いつもより短かった。

 雨で景色がぼやけて、町が輪郭を失って、私たちだけがはっきりしている。

 傘の下は、二人だけの細い通路だった。


 扉の前に立つと、鈴の音が外の雨音と混ざっているのが分かった。

 秋穂が傘をたたむと、雨の音が突然大きくなり、世界が戻ってくる。


 私たちは同時に扉を開けた。


     ◇


 カラン。


 その音は、今日も変わらず、胸の奥をほどいた。


 扉を閉めると、世界が切り替わる。


 窓の向こうの白いざわめきが、一気に遠くなる。ガラス越しに聞こえるだけの、優しい音になる。

 店内の空気は、少しだけ温かくて、湿気を含んでいない。乾いた木の匂いと、焼き菓子の甘い香りが混ざって、肺の奥まで染みる。


 私は大きく息を吸った。

 ここは、急がなくていい場所。

 誰にも「お願い」されない場所。

 秋穂と、二人だけの場所。


 肩の力が、ふっと抜ける。


 喫茶店の中は、外の雨が嘘みたいに温かかった。

 木の床が少しだけ軋む。甘い焼き菓子の匂いと、コーヒーの深い香り。

 雨の日は匂いが濃くなる。空気が湿って、香りを抱え込むからだ。


 カウンターの奥から、マスターが顔を上げた。


「おや。今日はセットで来たねえ」

 にやり、と笑う目が、すぐに私たちの濡れ具合を見抜く。


「相合い傘かい?」

「……違います」

 秋穂が即答して、私は「違わないよ」と言いそうになって飲み込んだ。


 マスターは笑って、タオルを二枚置いた。


「ほら、拭いときな」

「ありがとうございます」


 タオルはふかふかで、少しだけ洗剤の匂いがした。

 私は髪の水気を取って、制服の袖を拭く。秋穂は黙って肩を拭いた。

 濡れているのはやっぱり秋穂の方が多い。


「秋穂ちゃん、そっち、濡れたままだと冷えるよ」

 マスターが言うと、秋穂は短く頷いた。


「……はい」


 その返事の"はい"が、少し柔らかい。

 私はその柔らかさに、最近慣れてきている自分に気づいた。

 出会った頃の秋穂は、言葉の端がいつも硬かった。今は、時々そこに、温度が混じる。


 客はほとんどいない。

 雨の日の午後は、町そのものが家に引きこもる。

 テーブル席には誰も座っていなくて、カウンターの端に新聞が一部置かれているだけ。


「今日は静かだね」

 私が言うと、マスターは「雨だもんな」と笑った。


「紅茶にする?」

 秋穂が聞く。

 私は頷いた。


「いつもの、で」

「……甘いやつ」

「うん。今日、そういう気分」


 秋穂がほんの少しだけ口角を上げる。

 声に出さない笑い。

 でも私は、もうその笑いを見逃さない。


 秋穂が湯を沸かし始める。

 カウンター越しに、秋穂の手元が見える。ポットを持つ指。茶葉を計るスプーン。

 その一つひとつが、妙に目に焼きつく。


 その動きは丁寧で、手首の角度まで迷いがない。

 蓋が軽く鳴り、湯が注がれる音がする。雨音とは違う、あたたかい音。


 私は自分の視線が秋穂を追いすぎていることに気づいて、慌ててカップに目を落とす。

 でも、また視線が戻ってしまう。


 秋穂の首筋に、髪の毛が一本だけかかっている。

 その一本を、指で払ってあげたい衝動が湧く。


 ――え、何、今の。


 自分の考えに驚いて、私は紅茶を一口飲んだ。

 熱い。舌が少し痛い。

 でも、その痛みで、頭が少しだけ冷える。


 湯気が立ち上って、眼鏡のない秋穂の視界を一瞬だけ曇らせる。

 秋穂はそれを嫌がるでもなく、湯気の向こうで私をちらっと見た。


「……傘、忘れるタイプ?」

「基本は忘れないんだけど……今日は、寝坊して」

「結城……じゃなくて」

 秋穂が一瞬言い直しかけて、咳払いみたいに息を吐く。

 その仕草が、妙に可愛く見えてしまって、私は目を逸らした。


「……美春、朝弱い」

 言い切った後、秋穂は自分の言葉が断定形すぎたと思ったのか、付け足す。


「……気がする」

「弱い……気がする、じゃなくて弱い」

 私が素直に認めると、秋穂が小さく笑った。

 今度は、ほんの少しだけ声が漏れる。


 その笑い声が、雨音の中で浮く。

 私は胸の奥がくすぐったくなる。


 紅茶が運ばれてきた。

 砂糖の香り。ミルクの白さ。カップの温かさが指先に伝わる。


 私が一口飲むと、甘さが舌に広がって、体の芯がふっと緩む。

 雨の日の甘さは、いつもより深く感じる。


「……美春」

 秋穂がまた名前を呼んだ。

 私はそれだけで、背筋が小さく伸びる。


「今日、学校どうだった」

「えっと……普通」

「普通じゃない顔してた」

「……普通じゃない顔って何」


 秋穂は少しだけ考える顔をして、言葉を選ぶ。


「……頑張ってる顔」

「それは褒めてる?」

「……褒めてる」

「じゃあ、受け取る」


 私は笑って言った。

 秋穂は「……うん」と短く答えて、また口角を少し上げた。


 私はその口角の動きに、最近気づけるようになった。

 最初は分からなかった。

 秋穂の"嬉しい"や"安心"は、音量が小さすぎて、教室のざわめきに消えてしまうみたいだった。


 でも今は、雨の日の静けさがある。

 その静けさの中で、秋穂の小さな感情が、ちゃんと見える。


 ――見えるようになったのは、秋穂が変わったから?

 それとも、私が慣れてきたから?


 答えは、まだ出せない。

 けれど、どちらでもいい。

 見えることが、嬉しい。


 私はカップを両手で包んだ。


「そういえば、周防さん、最近何作ってるの?」

 秋穂の目が少しだけ強くなる。好きな話題に触れた時の光。


「……マドレーヌ」

「え、好き」

「好きなのは、レモンのやつ」

「レモン?」

「皮を削る。香りが残る」

 秋穂は言いながら、自分の指先を見た。

 そこにレモンの皮の黄色が残っているみたいに。


「あと、バターは溶かしすぎない」

「え、そうなの?」

「焦げる手前で止める。ナッツっぽい匂いが出る。でも焦げると台無し」

「職人みたい」

「……職人になりたいから」


 さらっと言う。

 でも、そのさらっとが、私の胸に小さく落ちた。


 秋穂はカウンターの下から、薄いノートを取り出した。

 表紙が少しよれていて、角が丸い。使い込まれた痕。


「これ」

「レシピノート?」

「うん。気づいたこと、書いてる」

 ページを開くと、細い字がぎっしり。

 "焼成温度 170→165 試す"

 "レモンピールは最後に混ぜる"

 "膨らみが弱い→卵温度"

 その横に、貼られた小さな付箋が何枚も並んでいる。


「すご……。全部自分で?」

「本見て、試して、直して。……繰り返す」

 言い方が、当たり前みたいで。

 私はその"当たり前"が眩しい。


「好きなパティシエとか、いるの?」

「……いる」

 秋穂は一瞬だけ迷って、でも言った。


「有名な人じゃないけど。専門学校の先生が、好きだったって言ってた人」

「へえ」

「その人の店、レシピを公開してる。全部じゃないけど」

「公開してるの珍しいね」

「……だから、ちゃんと作れる人がすごいんだと思う」

「ちゃんと作れる人」

「材料が同じでも、同じ味にならない」


 秋穂の声が少しだけ熱を帯びる。

 私はその熱に、胸が温かくなるのを感じた。

 "夢"が言葉になって出てくる時の秋穂は、別人みたいに生き生きしている。


 その表情を、私は覚えたい。

 後で、ちゃんと違いに気づけるように。


「美春は?」

 秋穂が不意に聞いた。

「好きなもの」


「好きなもの?」

「うん。……何か」


 私は言葉に詰まった。

 好きなもの。

 それを聞かれるのが、少し怖い。私はいつも、相手に合わせて「好き」を変えてしまうから。


 でも、ここは喫茶店だ。

 急がなくても許される場所。

 秋穂が"嫌わない"と言ってくれた場所。


 私は、少しだけ勇気を出した。


「……甘いものは、好き」

「知ってる」

 即答されて、私は笑ってしまう。


「あと……」

 私は考える。

 本当に、自分の中にあるものを探す。


「雨の日の匂い、好きかも」

 言った後、自分で驚いた。そんなこと、普段は言わない。


 秋穂が目を瞬かせる。


「……変」

「変って言った?」

「……悪い意味じゃない」

「最近、周防さん、"変"好きだよね」

「……好きじゃない」

「でも、言う」

「……言いやすい」


 言ってから秋穂は少しだけ口を押さえる。

 自分の言葉が、思ったより素直だったことに気づいたみたいに。

 私はその仕草に、また胸がくすぐったくなる。


 マスターが向こうで、わざとらしく咳払いをした。


「いやあ、雨の日はいいねえ」

「何がですか」

 秋穂が無表情で返すと、マスターは笑った。


「匂いが濃い。会話も濃い」

「濃くない」

「濃いよ。ほら、秋穂ちゃん、よく喋ってる」


 秋穂の耳がまた赤くなる。

 その赤さが、雨の日の灯りの下だと余計に分かりやすい。


 外で、雨が強くなる。

 窓ガラスを叩く音が、少しだけ大きくなった。


 でも、店の中はそれをすべて遮断している。

 雨音が、まるで子守唄みたいに遠くで鳴っている。


 私は窓の方をちらっと見た。

 ガラスに雨粒が線を作って、外の景色を滲ませている。

 傘を持っていない人が、走って通り過ぎるのが見えた。


 ――外は、まだ雨。

 でも、ここは違う。


 私は秋穂の方を見た。

 秋穂はカップを持ったまま、窓の外を見ていた。

 私と同じことを考えているのかもしれない。


 その横顔を見ていると、胸が温かくなる。

 外の冷たさと、内側の温かさが、はっきり分かれる。


 私は紅茶を飲みながら、思う。

 秋穂は、私の前だと少しだけ柔らかくなる。

 それが、嬉しい。

 嬉しいのに、その嬉しさの名前がまだ分からない。


 憧れ?

 安心?

 それとも――もっと別の、甘くて危うい何か?


 私はその答えを急がないことにした。

 急がない。喫茶店の速度を、少しだけ真似する。


 雨音が、窓の外で一定のリズムを刻んでいる。

 傘の下の世界の続きを、ここで温め直すみたいに。


「……ねえ、周防さん」

 私が言うと、秋穂は「なに」と目を上げる。


「今日、名前で呼んだ」

 私が言うと、秋穂は一瞬固まった。

 そして、視線をそらし、カップの縁を指でなぞる。


「……さっきのは、段差」

「段差のせいで名前が出るの?」

「……出る」

「へえ」

 私は意地悪く笑ってしまう。


 秋穂は少し困った顔をして、でも、逃げずに言った。


「……美春の方が、呼びやすい」

「そう?」

「うん」


 "呼びやすい"だけ。

 それだけのはずなのに、胸が甘い。


 私は頷いて、言った。


「じゃあ、私も……秋穂って呼んでいい?」

 秋穂の目が少し揺れた。

 一拍置いて、小さく頷く。


「……好きにしたら」

 その言い方が、許可みたいで、私はまた笑ってしまう。


「じゃあ、秋穂」

 呼んでみる。

 音にすると、思ったより柔らかい。

 秋穂の名前は、秋の穂みたいに、静かに揺れる。


 秋穂は「……うん」と返事をして、ほんの少しだけ笑った。

 目尻が柔らかくなる笑い。

 私はその笑いを、胸にメモする。


 ――これが、秋穂の"いつもの"笑い。


 この"いつもの"を知っていれば。

 もし、いつかそれが消えた時、私はきっと気づける。

 気づいて、踏み込める。

 逃げずに。


 雨の日の喫茶店は、世界の音量を落としてくれる。

 その分、相手の小さな音が聞こえる。


 カップを置く音。

 スプーンがカップに触れる音。

 秋穂が息を吐く音。

 そして、時々こぼれる、小さな笑い。


 私はその全部が、愛おしいと思った。

 まだ恋だと名づけるには早い。

 でも、胸の奥に芽生えたものは、たぶん、放っておいても育ってしまう。


「……ずっと雨だといいのに」

 ぽつりと言うと、秋穂が私を見た。


「洗濯できない」

「現実的」

「現実は必要」

「でも」

 私は言葉を探して、正直に言った。


「……こういう時間、好き」


 秋穂の目が少しだけ大きくなる。

 それから、視線をそらして、短く言った。


「……私も」


 たったそれだけ。

 でも、胸が熱い。

 紅茶の温かさじゃ足りないくらい、内側が熱い。


 外では雨が降り続いている。

 世界はまだ濡れて、まだ灰色だ。

 でも、喫茶店の中だけは、黄色い灯りで満ちている。


 私はその灯りが、ずっと続けばいいと思った。

 続けばいいのに、と願うのは、いつも怖い。

 願ったものは、失った時に痛いから。


 それでも、今日は少しだけ願ってしまう。

 傘の下の距離が、喫茶店の静けさが、秋穂の小さな笑いが――このまま続けばいい。


 秋穂がふっとカップを持ち上げ、湯気の向こうで私を見た。


「……美春、帰りも」

「うん」

「入ってく?」

「うん。入る」


 雨はまだ、やみそうにない。

 でも私は、もう困らない。


 傘の下で呼ばれた名前の温度を、胸に入れて、私は待つ。

 次の季節が来る前に、秋穂の"いつも"を、もっと知っておきたい。


 そして――

 その"いつも"に陰りが差した時、私はきっと、気づけるようになっていたい。

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