第4話「ちいさな別世界」
六月の空は、朝からずっと迷っている顔をしていた。晴れたいのか、泣きたいのか、どっちつかずの灰色。
教室の窓ガラスに、まだ降っていない雨の匂いだけが先に貼りついている。
私はその匂いを嗅いだ瞬間、嫌な予感がした。
――傘、持ってきたっけ。
思い返すと、今朝は最悪だった。
目覚ましを止めた記憶はあるのに、次に気づいた時にはもう制服の袖を通していて、靴下を片方だけ履いたまま玄関に飛び出していた。髪を結ぶゴムも、昨日の机の上に置きっぱなし。指で適当にまとめて、鏡も見ずに家を出た。
「美春、前髪……」
一限前、れいなが指で私の額をちょいちょいと示した。
鏡を見ると、前髪が微妙に割れている。まるで私の"今日"がすでに乱れていることを告げるみたいに。
「やだ、寝ぐせ?」
「寝ぐせっていうか……人生の乱れ」
「ひどい!」
笑いが起きる。私はそこに混ざって笑う。笑いながら、胸の内側でこっそり確認する。
――傘、ない。たぶん、ない。
昼過ぎ、窓の外が急に暗くなった。
遠くで雷が鳴るほどではないけれど、空気の膜が一枚厚くなる。雨の前の静けさ。黒板のチョークの粉っぽい匂いと、湿気が混じる。
ぽつ。
ぽつ、ぽつ。
最初の雨粒は、まるで確かめるみたいに窓を叩く。
すぐにリズムが増えて、音が揃って、線になって――雨は迷うのをやめた。
教室のざわめきが「雨だね」に変わる。
誰かが「梅雨じゃん」と言い、誰かが「最悪」と言って笑う。
私はその会話に、うまく相槌を混ぜながら、心の中でだけ固まっていた。
――傘、忘れた。
言えばいいのに。誰かに「傘貸して」と言えばいいのに。
でも、喉の奥がつっかえる。相談をするのは、頼るのは、まだ練習中のこと。私はつい、いつもの手順に戻ってしまう。
"平気なふり"をする。
"自分でなんとかする"を選ぶ。
そのくせ、選ぶのが怖いから、最後まで決めない。
放課後になるにつれ、雨脚は強くなった。
帰りのホームルームが終わる頃には、窓の外は斜めの線で埋まっている。廊下の向こうの景色が滲んで、世界が水彩画みたいになっていた。
「ねえ、だれか相合い傘しよー」
「やだ、濡れたくなーい」
「コンビニ寄りたいから傘貸して!」
笑いながら傘を広げる音が、教室のあちこちで鳴る。布がぱっと花開く音。金属の骨が伸びる音。
その中に、私だけが傘の音を持っていない。
ふと、前の席にれいなの背中が見えた。
鞄を整理していて、傘を手に持っている。ピンク色の持ち手。
声をかければいい。「ねえ、傘……」って。
喉が開きかける。
でも、次の瞬間、喉の奥で何かが引っかかった。
――お願いするのは、"負担"になる。
――私が困らせる側になる。
――れいなは断らない。だから、余計に悪い。
その思考が、言葉を飲み込んだ。
私は視線をそらして、鞄を持ち上げた。
――走ればいいか。
心の中で、自分に言い訳する。
――ちょっと濡れるだけだし。大丈夫。
でも、その"大丈夫"は、いつもの"大丈夫"だ。
平気なふりをして、一人で抱えて、後で息が詰まる"大丈夫"。
"旧い自分の手"が、また伸びかけている。
私はそれに気づいて、胸が苦しくなった。
――変わりたいって、思ったのに。
でも、変わるのは怖い。
今までのやり方を手放すのは、もっと怖い。
私は鞄を持ち上げて立ち上がり、なるべく自然な顔で教室を出た。
――下駄箱まで行って、様子を見る。
運よく雨が弱まっていたら、走れる。そうじゃなくても……なんとかする。
なんとかする、って、何を?
自分に問いかけると、答えは曖昧なまま、心臓だけが早くなる。
廊下は湿った匂いがした。
窓の隙間から、雨の音が直接入ってくる。校庭の砂が叩かれる、細かな音。屋根のトタンが鳴る、鈍い音。
足音が反響して、やけに広く感じる。
下駄箱の前は、いつもより賑やかだった。
傘立ての周りに人が集まって、靴を履き替えて、外へ流れていく。扉が開くたび、雨の匂いと冷たい風が入り込む。
私は下駄箱の自分の段を開けて、念のため傘を探した。
――やっぱり、ない。
鞄の横ポケットも、教科書の隙間も、全部探して、最後に自分の愚かさだけが残った。
"相談できない"のは、別に誇れる性格じゃないのに。
それでも私は、誰にも声をかけられないまま、下駄箱の前に立ち尽くしてしまう。
外へ出る扉を見た。
雨は本気だ。走ったら、きっと制服は濡れる。髪も、鞄も。
帰ってから母に「濡れたの?」と聞かれて、「うん、傘忘れた」と言って、「気をつけなさい」と言われて終わる。それだけの未来が見えるのに、胸がぎゅっとなる。
私は、何が嫌なんだろう。
濡れるのが嫌なんじゃない。
"自分で決められない自分"が、また露呈するのが嫌なんだ。
喉の奥が、じわりと熱くなる。
目の前の扉が、少しだけ滲んだ。
――また、これだ。
また、私は何も決められないまま、立ち尽くしている。
誰かに頼ることもできない。
自分で決めることもできない。
ただ、雨を眺めて、固まっている。
胸が苦しい。
息を吸おうとすると、涙が落ちそうになる。
私は慌てて目を閉じた。
瞬きを何度かして、視界の滲みを押し戻す。
――泣いちゃダメだ。
そう自分に言い聞かせる。でも、声が震える。
そうやって立ち尽くしていた時、背中の方から、静かな声がした。
「……結城」
呼ばれて振り返ると、そこに秋穂がいた。
黒い傘を一本だけ持っている。持ち手を指で軽く握って、まるでそれが当たり前みたいに、私の前に立っている。
制服の上にカーディガンを羽織っているからか、雨の匂いの中でも秋穂はどこか乾いた輪郭を保って見えた。
でも、目は私の顔をちゃんと見ていた。
「傘、ないの」
問いじゃなく確認みたいな口調。
私の視線が傘に落ちたのを、見逃さなかった。
私は反射で笑おうとして、途中で止めた。
ここでごまかしたら、たぶんまた同じになる。
「……忘れた」
小さく言うと、秋穂は一瞬だけ眉を寄せた。
怒っているわけじゃない。計算している顔だ。
「走るつもりだった?」
「……一応」
「濡れる」
「うん」
「風邪ひく」
「……うん」
秋穂は短く息を吐いて、傘を少し持ち上げた。
「……ここから喫茶店までなら」
一拍。
「入ってく?」
"傘、ないなら入っていく?"よりずっと、秋穂らしい言い方だった。
余計な飾りがない。助けるというより、当然の選択肢として差し出す言葉。
胸が、こつんと鳴った。
私はすぐに「いいよ」と言いそうになって、また止めた。
"自分で決める"練習。
今日は、その練習をしたい。
私は秋穂の目を見て、頷いた。
「……うん。お願い、してもいい?」
「うん」
秋穂は傘を開いた。
ぱん、と布が空気をはじく音。雨粒が弾け、骨が伸びる。
その音の後、世界の雨音が少しだけ遠くなる。傘の内側は、ちいさな別世界だった。
秋穂が傘を私の方に寄せる。
私が傘の下に入ると、距離が一気に縮まった。
肩と肩が、ほんの少し触れる。
制服の布越しに、熱が伝わる。
その熱が、びっくりするくらい"生きている"感じがした。
でも、それだけじゃない。
秋穂の腕が、私の腕のすぐ横にある。歩くたびに、ほんの数センチの空気が揺れる。その揺れが、肌に触れる寸前で止まる。触れないのに、触れているみたいに感じる。
心臓が、一拍飛ぶ。
秋穂の呼吸の音が、傘を叩く細い連打の下に隠れて聞こえる。規則正しい、落ち着いた呼吸。
私の呼吸は、それに比べて浅くて早い。
バレたら恥ずかしい。
でも、隠せない。
秋穂の髪が、風で少しだけ揺れて、シャンプーの香りが鼻をかすめる。石鹸みたいな、清潔な匂い。
私はその匂いに、一瞬だけ意識が飛びそうになった。
外に一歩出ると、雨の匂いが強くなる。
アスファルトが濡れ、土が湿り、葉っぱが洗われる匂い。
傘に当たる雨音が、細かな指で叩かれるみたいに連続して響く。
秋穂は傘を更に私側へ傾けた。
私は気づいて、横目で秋穂の肩を見た。
秋穂の右肩が、じわりと濡れている。カーディガンの色が少し濃い。
私の方はほとんど濡れていない。
「周防さん、肩……濡れてる」
「いい」
「よくないよ。半分こしよ」
「……結城が濡れる」
「私も濡れていい」
「よくない」
言い切る声が、水のカーテンの音に負けない硬さを持っていた。
秋穂は、こういうところがある。自分のことを後回しにして、相手のことを優先して、それを当然みたいにする。
その優先が"優しさ"なのか、"癖"なのか、私はまだ分からない。
歩くたびに水たまりが跳ねる。靴底が水を踏む音。
傘の下で、私たちの足音だけが近い。
不意に、秋穂が足を止めて、傘を持つ手を少し持ち替えた。
私の方へ、さらに寄せる。
「……美春」
小さく呼ばれて、私は息を止めた。
名前。私の名前。
秋穂の声で。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
心臓が跳ねる。喉が詰まる。
視線をそらしたいのに、そらせない。秋穂の横顔が、雨の灰色の中ではっきりしすぎている。
唇が少しだけ開いて、吐息が漏れそうになる。
私は慌てて口を閉じた。
「……え」
声が、かすれた。
自分の声じゃないみたいに、小さくて、頼りない。
「段差、ある」
そう言って秋穂は視線で足元を示す。
私は段差を跨いで歩きながら、頭の中でその一音を反芻してしまう。
美春。
私の名前。
今までずっと「結城」だったのに。
間違えたのかもしれない。
つい、出ただけなのかもしれない。
でも、秋穂の声で私の名前が呼ばれたことが、胸の奥で甘く膨らむ。
「……今、名前」
私が言うと、秋穂は視線を前に固定したまま、ほんの少しだけ耳が赤くなった。
「……呼びやすいから」
「苗字の方が呼びやすいでしょ」
「……結城って、教室でいっぱい飛ぶ」
「飛ぶ?」
「呼ばれてる。色んな人に」
雨の中で、その言葉は変に刺さった。
私は、色んな人に呼ばれて、色んなお願いを引き受けて、色んな顔をして――どれが自分なのか、時々分からなくなる。
秋穂は続けた。
「……美春は、ここだと静か」
「……静か、かな」
「うん。だから……分かりやすい」
分かりやすい。
その言葉が嬉しいのか、怖いのか、すぐには決められなかった。
でも、胸は確かに、温かい。
雨の日の温かさじゃない。
もっと、内側の温度が上がる感じ。
喫茶店までの道は、いつもより短かった。
雨で景色がぼやけて、町が輪郭を失って、私たちだけがはっきりしている。
傘の下は、二人だけの細い通路だった。
扉の前に立つと、鈴の音が外の雨音と混ざっているのが分かった。
秋穂が傘をたたむと、雨の音が突然大きくなり、世界が戻ってくる。
私たちは同時に扉を開けた。
◇
カラン。
その音は、今日も変わらず、胸の奥をほどいた。
扉を閉めると、世界が切り替わる。
窓の向こうの白いざわめきが、一気に遠くなる。ガラス越しに聞こえるだけの、優しい音になる。
店内の空気は、少しだけ温かくて、湿気を含んでいない。乾いた木の匂いと、焼き菓子の甘い香りが混ざって、肺の奥まで染みる。
私は大きく息を吸った。
ここは、急がなくていい場所。
誰にも「お願い」されない場所。
秋穂と、二人だけの場所。
肩の力が、ふっと抜ける。
喫茶店の中は、外の雨が嘘みたいに温かかった。
木の床が少しだけ軋む。甘い焼き菓子の匂いと、コーヒーの深い香り。
雨の日は匂いが濃くなる。空気が湿って、香りを抱え込むからだ。
カウンターの奥から、マスターが顔を上げた。
「おや。今日はセットで来たねえ」
にやり、と笑う目が、すぐに私たちの濡れ具合を見抜く。
「相合い傘かい?」
「……違います」
秋穂が即答して、私は「違わないよ」と言いそうになって飲み込んだ。
マスターは笑って、タオルを二枚置いた。
「ほら、拭いときな」
「ありがとうございます」
タオルはふかふかで、少しだけ洗剤の匂いがした。
私は髪の水気を取って、制服の袖を拭く。秋穂は黙って肩を拭いた。
濡れているのはやっぱり秋穂の方が多い。
「秋穂ちゃん、そっち、濡れたままだと冷えるよ」
マスターが言うと、秋穂は短く頷いた。
「……はい」
その返事の"はい"が、少し柔らかい。
私はその柔らかさに、最近慣れてきている自分に気づいた。
出会った頃の秋穂は、言葉の端がいつも硬かった。今は、時々そこに、温度が混じる。
客はほとんどいない。
雨の日の午後は、町そのものが家に引きこもる。
テーブル席には誰も座っていなくて、カウンターの端に新聞が一部置かれているだけ。
「今日は静かだね」
私が言うと、マスターは「雨だもんな」と笑った。
「紅茶にする?」
秋穂が聞く。
私は頷いた。
「いつもの、で」
「……甘いやつ」
「うん。今日、そういう気分」
秋穂がほんの少しだけ口角を上げる。
声に出さない笑い。
でも私は、もうその笑いを見逃さない。
秋穂が湯を沸かし始める。
カウンター越しに、秋穂の手元が見える。ポットを持つ指。茶葉を計るスプーン。
その一つひとつが、妙に目に焼きつく。
その動きは丁寧で、手首の角度まで迷いがない。
蓋が軽く鳴り、湯が注がれる音がする。雨音とは違う、あたたかい音。
私は自分の視線が秋穂を追いすぎていることに気づいて、慌ててカップに目を落とす。
でも、また視線が戻ってしまう。
秋穂の首筋に、髪の毛が一本だけかかっている。
その一本を、指で払ってあげたい衝動が湧く。
――え、何、今の。
自分の考えに驚いて、私は紅茶を一口飲んだ。
熱い。舌が少し痛い。
でも、その痛みで、頭が少しだけ冷える。
湯気が立ち上って、眼鏡のない秋穂の視界を一瞬だけ曇らせる。
秋穂はそれを嫌がるでもなく、湯気の向こうで私をちらっと見た。
「……傘、忘れるタイプ?」
「基本は忘れないんだけど……今日は、寝坊して」
「結城……じゃなくて」
秋穂が一瞬言い直しかけて、咳払いみたいに息を吐く。
その仕草が、妙に可愛く見えてしまって、私は目を逸らした。
「……美春、朝弱い」
言い切った後、秋穂は自分の言葉が断定形すぎたと思ったのか、付け足す。
「……気がする」
「弱い……気がする、じゃなくて弱い」
私が素直に認めると、秋穂が小さく笑った。
今度は、ほんの少しだけ声が漏れる。
その笑い声が、雨音の中で浮く。
私は胸の奥がくすぐったくなる。
紅茶が運ばれてきた。
砂糖の香り。ミルクの白さ。カップの温かさが指先に伝わる。
私が一口飲むと、甘さが舌に広がって、体の芯がふっと緩む。
雨の日の甘さは、いつもより深く感じる。
「……美春」
秋穂がまた名前を呼んだ。
私はそれだけで、背筋が小さく伸びる。
「今日、学校どうだった」
「えっと……普通」
「普通じゃない顔してた」
「……普通じゃない顔って何」
秋穂は少しだけ考える顔をして、言葉を選ぶ。
「……頑張ってる顔」
「それは褒めてる?」
「……褒めてる」
「じゃあ、受け取る」
私は笑って言った。
秋穂は「……うん」と短く答えて、また口角を少し上げた。
私はその口角の動きに、最近気づけるようになった。
最初は分からなかった。
秋穂の"嬉しい"や"安心"は、音量が小さすぎて、教室のざわめきに消えてしまうみたいだった。
でも今は、雨の日の静けさがある。
その静けさの中で、秋穂の小さな感情が、ちゃんと見える。
――見えるようになったのは、秋穂が変わったから?
それとも、私が慣れてきたから?
答えは、まだ出せない。
けれど、どちらでもいい。
見えることが、嬉しい。
私はカップを両手で包んだ。
「そういえば、周防さん、最近何作ってるの?」
秋穂の目が少しだけ強くなる。好きな話題に触れた時の光。
「……マドレーヌ」
「え、好き」
「好きなのは、レモンのやつ」
「レモン?」
「皮を削る。香りが残る」
秋穂は言いながら、自分の指先を見た。
そこにレモンの皮の黄色が残っているみたいに。
「あと、バターは溶かしすぎない」
「え、そうなの?」
「焦げる手前で止める。ナッツっぽい匂いが出る。でも焦げると台無し」
「職人みたい」
「……職人になりたいから」
さらっと言う。
でも、そのさらっとが、私の胸に小さく落ちた。
秋穂はカウンターの下から、薄いノートを取り出した。
表紙が少しよれていて、角が丸い。使い込まれた痕。
「これ」
「レシピノート?」
「うん。気づいたこと、書いてる」
ページを開くと、細い字がぎっしり。
"焼成温度 170→165 試す"
"レモンピールは最後に混ぜる"
"膨らみが弱い→卵温度"
その横に、貼られた小さな付箋が何枚も並んでいる。
「すご……。全部自分で?」
「本見て、試して、直して。……繰り返す」
言い方が、当たり前みたいで。
私はその"当たり前"が眩しい。
「好きなパティシエとか、いるの?」
「……いる」
秋穂は一瞬だけ迷って、でも言った。
「有名な人じゃないけど。専門学校の先生が、好きだったって言ってた人」
「へえ」
「その人の店、レシピを公開してる。全部じゃないけど」
「公開してるの珍しいね」
「……だから、ちゃんと作れる人がすごいんだと思う」
「ちゃんと作れる人」
「材料が同じでも、同じ味にならない」
秋穂の声が少しだけ熱を帯びる。
私はその熱に、胸が温かくなるのを感じた。
"夢"が言葉になって出てくる時の秋穂は、別人みたいに生き生きしている。
その表情を、私は覚えたい。
後で、ちゃんと違いに気づけるように。
「美春は?」
秋穂が不意に聞いた。
「好きなもの」
「好きなもの?」
「うん。……何か」
私は言葉に詰まった。
好きなもの。
それを聞かれるのが、少し怖い。私はいつも、相手に合わせて「好き」を変えてしまうから。
でも、ここは喫茶店だ。
急がなくても許される場所。
秋穂が"嫌わない"と言ってくれた場所。
私は、少しだけ勇気を出した。
「……甘いものは、好き」
「知ってる」
即答されて、私は笑ってしまう。
「あと……」
私は考える。
本当に、自分の中にあるものを探す。
「雨の日の匂い、好きかも」
言った後、自分で驚いた。そんなこと、普段は言わない。
秋穂が目を瞬かせる。
「……変」
「変って言った?」
「……悪い意味じゃない」
「最近、周防さん、"変"好きだよね」
「……好きじゃない」
「でも、言う」
「……言いやすい」
言ってから秋穂は少しだけ口を押さえる。
自分の言葉が、思ったより素直だったことに気づいたみたいに。
私はその仕草に、また胸がくすぐったくなる。
マスターが向こうで、わざとらしく咳払いをした。
「いやあ、雨の日はいいねえ」
「何がですか」
秋穂が無表情で返すと、マスターは笑った。
「匂いが濃い。会話も濃い」
「濃くない」
「濃いよ。ほら、秋穂ちゃん、よく喋ってる」
秋穂の耳がまた赤くなる。
その赤さが、雨の日の灯りの下だと余計に分かりやすい。
外で、雨が強くなる。
窓ガラスを叩く音が、少しだけ大きくなった。
でも、店の中はそれをすべて遮断している。
雨音が、まるで子守唄みたいに遠くで鳴っている。
私は窓の方をちらっと見た。
ガラスに雨粒が線を作って、外の景色を滲ませている。
傘を持っていない人が、走って通り過ぎるのが見えた。
――外は、まだ雨。
でも、ここは違う。
私は秋穂の方を見た。
秋穂はカップを持ったまま、窓の外を見ていた。
私と同じことを考えているのかもしれない。
その横顔を見ていると、胸が温かくなる。
外の冷たさと、内側の温かさが、はっきり分かれる。
私は紅茶を飲みながら、思う。
秋穂は、私の前だと少しだけ柔らかくなる。
それが、嬉しい。
嬉しいのに、その嬉しさの名前がまだ分からない。
憧れ?
安心?
それとも――もっと別の、甘くて危うい何か?
私はその答えを急がないことにした。
急がない。喫茶店の速度を、少しだけ真似する。
雨音が、窓の外で一定のリズムを刻んでいる。
傘の下の世界の続きを、ここで温め直すみたいに。
「……ねえ、周防さん」
私が言うと、秋穂は「なに」と目を上げる。
「今日、名前で呼んだ」
私が言うと、秋穂は一瞬固まった。
そして、視線をそらし、カップの縁を指でなぞる。
「……さっきのは、段差」
「段差のせいで名前が出るの?」
「……出る」
「へえ」
私は意地悪く笑ってしまう。
秋穂は少し困った顔をして、でも、逃げずに言った。
「……美春の方が、呼びやすい」
「そう?」
「うん」
"呼びやすい"だけ。
それだけのはずなのに、胸が甘い。
私は頷いて、言った。
「じゃあ、私も……秋穂って呼んでいい?」
秋穂の目が少し揺れた。
一拍置いて、小さく頷く。
「……好きにしたら」
その言い方が、許可みたいで、私はまた笑ってしまう。
「じゃあ、秋穂」
呼んでみる。
音にすると、思ったより柔らかい。
秋穂の名前は、秋の穂みたいに、静かに揺れる。
秋穂は「……うん」と返事をして、ほんの少しだけ笑った。
目尻が柔らかくなる笑い。
私はその笑いを、胸にメモする。
――これが、秋穂の"いつもの"笑い。
この"いつもの"を知っていれば。
もし、いつかそれが消えた時、私はきっと気づける。
気づいて、踏み込める。
逃げずに。
雨の日の喫茶店は、世界の音量を落としてくれる。
その分、相手の小さな音が聞こえる。
カップを置く音。
スプーンがカップに触れる音。
秋穂が息を吐く音。
そして、時々こぼれる、小さな笑い。
私はその全部が、愛おしいと思った。
まだ恋だと名づけるには早い。
でも、胸の奥に芽生えたものは、たぶん、放っておいても育ってしまう。
「……ずっと雨だといいのに」
ぽつりと言うと、秋穂が私を見た。
「洗濯できない」
「現実的」
「現実は必要」
「でも」
私は言葉を探して、正直に言った。
「……こういう時間、好き」
秋穂の目が少しだけ大きくなる。
それから、視線をそらして、短く言った。
「……私も」
たったそれだけ。
でも、胸が熱い。
紅茶の温かさじゃ足りないくらい、内側が熱い。
外では雨が降り続いている。
世界はまだ濡れて、まだ灰色だ。
でも、喫茶店の中だけは、黄色い灯りで満ちている。
私はその灯りが、ずっと続けばいいと思った。
続けばいいのに、と願うのは、いつも怖い。
願ったものは、失った時に痛いから。
それでも、今日は少しだけ願ってしまう。
傘の下の距離が、喫茶店の静けさが、秋穂の小さな笑いが――このまま続けばいい。
秋穂がふっとカップを持ち上げ、湯気の向こうで私を見た。
「……美春、帰りも」
「うん」
「入ってく?」
「うん。入る」
雨はまだ、やみそうにない。
でも私は、もう困らない。
傘の下で呼ばれた名前の温度を、胸に入れて、私は待つ。
次の季節が来る前に、秋穂の"いつも"を、もっと知っておきたい。
そして――
その"いつも"に陰りが差した時、私はきっと、気づけるようになっていたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます