第3話「救済と依存」

 その週、私は喫茶店に三回通った。


 理由を探せばいくらでも見つかるけれど、本当の理由は一つだった。

 秋穂に会いたかった。


 でも、"会いたい"と言葉にするのは恥ずかしくて、私はいつも「決める練習」とか「コーヒーが飲みたくて」とか、そういう別の名前を付けてしまう。


 秋穂は、私が来ると必ず少しだけ驚いた顔をする。

 それから、小さく頷いて、注文を取りに来る。


「……今日は?」

「紅茶と、シフォンケーキ」


 私は前より少しだけ早く決められるようになった。

 決める回数が増えたから。秋穂の顔を見る回数が増えたから。


 秋穂が「……了解」と言って厨房へ消える背中を、私はいつも目で追ってしまう。

 白いシャツ、エプロンの紐、首筋にまとめられた髪。

 あの背中が、少しずつ私の中で「安心」という名前に変わっていく。


 学校では、秋穂は相変わらず誰とも話さない。

 教室の後ろの席で、本を読むか、ノートに何かを書き留めている。

 私が視線を向けても、気づかないふりをされる。


 でも、たまに――廊下ですれ違う時、秋穂の目が一瞬だけ私を捉える。

 その一瞬が、妙に温かい。


 秘密を共有しているからだ。

「喫茶店」という、二人だけの場所があるから。


 でも、その秘密は――私を少しずつ、変えていく。


     ◇


 ゴールデンウィーク明けの教室は、休みの余韻を机の角にこすりつけたまま、何事もなかったふりをしていた。窓から差す光だけが少し強くて、制服の袖口に春より早い汗を滲ませる。


「美春、連休どこ行ったのー?」


 振られた問いに、私は反射で口角を上げた。


「うーん、ちょっとね。出かけたりは」


 嘘じゃない。あの喫茶店に行った。地図をたよりに細い道を曲がって、鈴の音を鳴らして、タルトを食べた。

 ――けれど、"周防秋穂と会った"は、なぜか喉の奥に引っかかったまま言葉にならない。


「どこどこ?」

「近く、かな」


 曖昧に笑って、話題が次の子へ渡るのを待つ。

 空気が丸く保たれている限り、私はその中心でほどほどに息ができる。そういうやり方を、私はいつのまにか覚えていた。


 その日から、私の「ほどほど」が増える。いや、増えるというより――積み上がる。


「結城、委員会の配布物、まとめお願いできる?」

「うん、任せて」


「購買当番、代わってくれない? 今日どうしても」

「いいよ。大丈夫」


「文化祭の係、まだ埋まってなくてさ。結城、入ってくれる?」

「うん、やる」


「クラス委員、あと一人足りないんだよね」

「……うん、いける」


 返事は軽いのに、胸の奥に小さな重りが落ちていく感覚だけが残った。

 役に立つと、居場所ができる。だから私はそれを断ち切れない。


 昼休み、れいなが私の机の上を見て箸を止めた。プリントが山になっていて、角が揃っていない。


「……美春、それ、どういう状態?」

「配るのと、回収のと、委員会のと……運動会のやつも」

「いや、分類の話じゃなくて。量の話」

「平気、だよ」


 れいなは私の顔をじっと見た。言葉じゃなくて、目の下の影とか、瞬きの回数とか、そういう"隠しきれないところ"を数えるみたいに。


「美春さ、やりすぎじゃない?」

「みんな忙しそうだったし」

「忙しいのは美春もだよ」

「慣れてるから」


 "慣れてる"は、便利な蓋だ。これを置けば、誰もそれ以上踏み込まない。

 れいなは納得していない顔をしたけれど、結局、話はそこで止まった。


 秋穂は、ノートに視線を落としたまま、相変わらず静かだった。

 でも、時々、視線の端で気配がする。こちらを見ないふりをしながら、何かを測っているみたいな気配。


 それが妙に落ち着かないのに、なぜか――少しだけ、心細さが薄くなる。


     ◇


 最初に崩れたのは、睡眠だった。


 ベッドに入っても、頭の中で紙の枚数が増殖する。締め切り、シフト、提出、集計。誰かの「お願い」が、寝返りを打つたびに浮かび上がる。

 目を閉じたのに、脳だけが起きたまま。気づけば、朝。


 鏡の中の私は、笑えば隠せそうな影を目の下に作っていた。

 笑えば、今日も何とかなる。そう思って、笑う。


 けれど、体は正直だった。


 廊下でプリントを落とした。紙がふわっと舞って床に散らばる音が、やけに大きい。拾い集める指先がもつれて、紙が指に貼りつく。


「大丈夫?」

「うん、ありがと。ごめんね」


 謝りながら笑う。いつもの手順。

 でも、笑顔の裏側で、息が浅い。


 提出物を忘れた。先生に名を呼ばれて、胸がきゅっと縮む。


「結城、今日までだったよな」

「……すみません、明日持ってきます」


 教室のざわめきが一瞬だけ薄くなる。視線が刺さる気がして、私はまた笑ってしまう。

 謝るより、笑った方が早い。輪郭を作らない方が、壊れないと思っているから。


 午後、運動会のアンケート用紙を束ねながら、指先が震えていることに気づいた。

 角が揃わない。線がずれる。何度やり直しても、紙の山だけが増えていく。


 ふと前を見ると、秋穂の背中がある。まっすぐで、揺れない。

 揺れない背中は、私のぐらつきをくっきり映す鏡みたいだ。


 秋穂がほんの少しだけ顔を横に向ける。視線が私の方へ来て、すぐ逸れる。

 ――見られた。

 その事実が、恥ずかしいのに、なぜか嬉しい。


 放課後、教室に一人残ってプリントを整理していると、夕方の光が黒板の端で折れた。

 消しゴムの粉っぽい匂い。遠くの部活の掛け声。窓の隙間から入る風の音。


 そこに、自分の呼吸だけが混ざる。浅く、速い。


 胸が苦しい。

 文字が滲む。


 ――私、何やってるんだろう。


 言葉にした瞬間、底が抜けた。


     ◇


 喫茶店の扉の鈴が鳴った。


 カラン。


 その音だけで、肩の力が少し落ちる。

 あの黄色い光。コーヒーと焼き菓子の匂い。木の椅子のきしみ。

 ここは、急がなくても許される場所だ。


「いらっしゃい。……あれ、今日は顔が硬いねえ」


 マスターが、カウンターの奥から目を細める。

 私は「ちょっとだけ」と言おうとして、うまく声が出ない。


「秋穂ちゃん、今、裏だよ」

 マスターは軽い調子で言った。けれど、その目は軽くない。全部お見通しみたいな目。


「……呼ばなくていいです」

 そう言ったのに、私の声は震えていた。


 厨房の方から足音がして、秋穂が出てきた。エプロン姿。手首にうっすら粉。髪はまとめられていて、いつもより少しだけ大人びて見える。


 私の顔を見た瞬間、秋穂の眉がわずかに動いた。

 "気づいた"という合図。


「……結城」

「……うん」


 それだけで、喉の奥が熱くなった。

 私は水を飲もうとして、コップを持つ手が小刻みに揺れる。水面が波打つ。


「大丈夫?」

 秋穂の声が、学校より低い。近い。


 私はいつもの言葉を取り出そうとした。

「大丈夫」

 その一語で、全部を丸めてしまえばいい。


 でも、その丸め方が、今日は口の中で崩れた。


「……私……」


 声が出た途端、涙が落ちた。

 ぽた、とテーブルに落ちる音が、静かな店内でやけに目立つ。


「ごめ……っ」


 拭こうとするほど涙が増える。恥ずかしい。みっともない。

 けれど止まらない。止め方が分からない。


「私、何やってるんだろう……」


 やっと出てきた本音は、情けないくらい素直だった。


 秋穂は慌てて励ましたりしなかった。

 黙って向かいに座り、椅子が小さくきしむ音だけが返事になる。


 紙ナプキンが、そっと差し出される。

 私は受け取って顔を押さえた。紙のざらつきが、現実の感触として沁みる。


 カウンターの方で、ティーポットの蓋が触れ合う音がした。

 湯を注ぐ音。紅茶の香りがふわっと広がる。


「今日は紅茶にしとこう。砂糖、少し入れとくね」


 マスターがそう言ってカップを置き、すっと席を外す。

 "見ないでいてくれる"優しさが、また涙を呼ぶ。


 秋穂は短く言った。


「……何があったの」


 私は紅茶を一口飲んだ。甘い。

 その甘さが喉を通ると、溜めていたものが少しだけ動き出す。


「いっぱい引き受けちゃって……」

「何を」

「委員会とか、当番とか、運動会とか……断れなくて」


 秋穂は少しだけ眉を寄せた。怒っているわけじゃない。計算している顔。


「……断っていい」

「できないよ」

「できる」

「断ったら、嫌われる」


 言い切ると、自分の幼さが痛い。

 秋穂の目が一瞬だけ揺れた。


「……嫌われる理由がない」

「あるよ。私、何もできないし……だから、せめて」


 言葉が途切れて、喉が詰まる。

 役に立てないと、ここにいられない気がする。空っぽに戻るのが怖い。


 秋穂は私のプリントの束をちらっと見て、静かに言った。


「……整理しよう」


 秋穂は一枚ずつ紙を取り上げ、順番を作っていく。

 締め切り、優先度、必要な人、必要な枚数。

 まるで式を解くみたいに、混線した糸を一本ずつほどいていく。


「クラス委員の提出は今日じゃない。明後日」

「え……」

「掲示板、写真ある? れいなが撮ってそう」

「……あると思う」

「なら確認できる」

「購買当番は、代わりを探す。『体調が悪い』でいい」

「嘘になる」

「嘘じゃない。顔色が悪い」


 淡々と言われて、私は反論ができない。

 秋穂の言葉は、冷たいんじゃなくて、曖昧さを削っていく刃だった。


「運動会の集計は三人でやれば一時間。結城が全部やる意味がない」

「でも……」

「でも、じゃない」


 そこで秋穂は少しだけ黙り、紅茶のカップを見た。湯気が弱くなっている。

 それから、視線を戻して言った。


「……私は、嫌わない」


 私は息を止めた。


「結城が断っても、手を抜いても、失敗しても。私は、嫌わない」


 その一文が、胸の奥にまっすぐ落ちる。

 "居場所は努力で作るもの"と信じていた私の、土台の一部がぐらりと揺れた。


 泣くのを堪えるみたいに下を向くと、秋穂がペンを私に差し出した。


「……今日やること、決める」

「……私が?」

「うん。結城が」


 伴走、という言葉が頭をよぎった。

 助けるでも救うでもない。隣で同じ速度に合わせてくれるだけ。

 それが、今の私には一番軽くて、一番強い。


 私はペンを握った。

 紙の上に、小さく丸をつける。今日やること。明日やること。誰に頼るか。


 丸をつけるたび、胸の渇きが少しだけ引いていく。

 "自分で決める"練習が、ほんの少しだけ形になる。


 ただ、その形は――秋穂が隣にいてくれることで、やっと保てている。


 頼ることを覚えるのは、温かい。

 同時に、その温かさに慣れすぎると、自分の足で立つのが怖くなるのかもしれない。


 帰り際、秋穂が小さく言った。


「……明日、れいなに頼める?」

 私は一瞬だけ迷って、でも頷いた。


「……頼む。言う」

「できる?」

「……周防さんが、隣で見ててくれるなら」


 口にしてから、胸が熱くなる。

 恋心じゃない。まだそれは、名前が違う。

 私が秋穂に向けているのは、眩しさへの憧れで、筋の通った言葉への尊敬で、"決められる人"への羨望だ。


 秋穂は少しだけ目を見開いて、視線を逸らした。耳が、ほんのり赤い。


「……見てないわけじゃない」

 ぶっきらぼうな返事なのに、どこか優しい。


 私は小さく笑った。ごまかしの笑いじゃない。

 でも、甘えが混じった笑いだ。


 喫茶店を出ると、夕方の風が頬に当たった。

 私は自分の足で歩いているはずなのに、胸の中では秋穂の歩幅に合わせようとしている。


 秋穂が隣を走ってくれた。伴走してくれた。

 それで、私は前に進めた。


 ――けれどそのまま私は、少しずつ「決める」を秋穂の輪郭に預けはじめている。


 それが、やさしい始まりであるほど。

 たぶん、少しだけ危うい。


 翌日、私はれいなに頼み事を断った。

 秋穂が、教室の後ろから見ていてくれたから。


「ごめん、今日はちょっと無理」

 れいなは驚いた顔をして、でもすぐに笑った。

「美春が断るの、珍しい。でも、いいよ。無理しないで」


 その言葉が、胸に沁みる。

 断っても、嫌われなかった。

 秋穂の言った通りだった。


 教室の後ろから、秋穂の視線を感じる。

 振り向くと、秋穂が小さく頷いた。


 その頷きが、嬉しくて。

 でも、その嬉しさに依存している自分も、少しだけ怖かった。


 秋穂がいれば、大丈夫。

 秋穂が見ていてくれれば、頑張れる。


 その安心が、もう手放せない。


 ――これは、救済なのか、依存なのか。

 私はまだ、その答えを知らない。


 ただ、秋穂の存在が、私の中で日に日に大きくなっていくことだけは、確かだった。


     ◇


 その翌週、私はまた喫茶店にいた。


 鞄から英語の教科書を取り出す。

 明日の授業の予習。単語テストの範囲。

 本当は昨日のうちにやるべきだったのに、委員会の仕事に追われて手を付けられなかった。


 テーブルの上に広げた教科書のページが、白く光る。

 単語の羅列。意味の欄は空欄ばかり。


 ――やばい。


 焦るほど頭に入らない。

 "incorporate"、"enhance"、"facilitate"……

 どれも見覚えはあるのに、意味が出てこない。


 紅茶を一口飲んで、ページをめくる。

 また空欄。焦りだけが増える。


「……結城」


 顔を上げると、秋穂がエプロン姿で立っていた。

 手にトレイを持って、でも私のテーブルに置くものはもう何もない。


「……英語?」

 秋穂が教科書を覗き込む。


 私は反射的に隠そうとして、でも手が遅れた。

 空欄だらけのノートが、秋穂の視界に入ってしまう。


「……予習、間に合ってない」

 秋穂がぽつりと言う。質問じゃない。事実の確認。


「……うん」


 認めると、急に情けなくなる。

 秋穂は成績優秀だ。教室で、先生が秋穂の名前を呼ぶ時、いつも「模範解答」みたいな扱いをする。

 そんな秋穂に、空欄だらけのノートを見られるのは、恥ずかしい。


「……時間ある?」

 秋穂が聞く。


「え?」

「……教える」


 一瞬、意味が分からなかった。

 教える。秋穂が、私に。


「……いいの?」

「うん」


 秋穂は短く答えて、カウンターに向かってマスターに何か言った。

 マスターが笑って頷く。


 秋穂が戻ってきて、私の向かいに座った。

 エプロンを外して、シャツの袖を少しまくる。

 その仕草が、妙に真剣で、私は背筋が伸びる。


「……どこから?」

「この単語……"incorporate"」


 秋穂は教科書を手元に引き寄せて、ペンを取り出した。

 ノートに、きれいな字で単語を書く。


「incorporate。組み込む、統合する」


 私は頷く。意味は分かった。でも――


「覚えられない……意味は分かるんだけど、すぐ忘れる」


 秋穂は少しだけ考えて、それから言った。


「……お菓子に例える?」

「え?」

「私、英単語を覚える時、お菓子作りに結びつける」


 私は目を丸くした。

 秋穂が、ノートにさらさらと書き足す。


「incorporate。生地にバターを"組み込む"。混ぜ合わせて、一体にする」


 その説明の瞬間、単語の意味がぱっと立体になった。


「……!」

「バターと小麦粉は別々だけど、incorporateすると生地になる。組み込む、って、そういうこと」


 秋穂の目が、少しだけ輝いている。

 お菓子の話をする時、秋穂は少しだけ饒舌になる。


「次。"enhance"」

 秋穂がページをめくる。


「enhance。高める、強化する」

 私が言うと、秋穂は頷いた。


「……レモンの香り、引き立てる時みたい」

「え?」

「タルトにレモンの皮を少し削って入れる。そうすると、全体の風味がenhanceされる。高まる」


 またしても、映像が浮かぶ。

 レモンの黄色い皮。削る音。香りが広がる瞬間。


「enhanceは、"もともとあるものを引き立てる"。ゼロから作るんじゃなくて、良さを高める」


 秋穂の説明は、教科書にはない温度がある。

 抽象的な言葉が、匂いと色と音を持つ。


「……分かりやすい」


 私が息を漏らすと、秋穂の口角が少しだけ上がった。


「……次」

「"facilitate"」


 秋穂は少し考えて、ペン先を唇に当てた。

 考える時の癖。図書室で見たのと同じ仕草。


「facilitate。促進する、容易にする」


 秋穂がノートに書く。


「……生地を寝かせる」

「え?」

「クッキーの生地、作った後に冷蔵庫で寝かせる。そうすると、バターが固まって、成形しやすくなる」


 秋穂の指が、ノートの上で小さく動く。

 まるで生地を触っているみたいな動き。


「寝かせることで、次の工程がfacilitateされる。楽になる。促進される」


 私は頷きながら、ノートに書き写す。

 facilitate = 生地を寝かせる = 次を楽にする。


 その瞬間、単語が記憶に引っかかる。

 秋穂の言葉と一緒に、イメージと一緒に。


「……すごい。覚えられる」


 私が言うと、秋穂は少しだけ照れたように視線を逸らした。


「……みんなこういうふうに覚えるわけじゃない」

「でも、私には合ってる」


 秋穂の目が、また私を見る。

 今度は逸らさない。


「……結城は、言葉だけだと覚えられない」

「……うん」

「イメージがあると、定着する」


 その分析が、妙に正確で、私は少しだけ驚く。

 秋穂は、私のことをちゃんと見ていた。


「他にも、ある?」


 私は教科書のページをめくる。

 空欄だらけだったページが、少しずつ埋まっていく。


 秋穂の言葉で。

 秋穂の例えで。

 秋穂のお菓子の世界で。


「"blend"」

「混ぜ合わせる。生クリームと砂糖をblendする」


「"whisk"」

「泡立てる。卵白をwhiskすると、メレンゲになる」


「"fold"」

「折り込む。メレンゲを生地にfoldする時、切るように混ぜる。潰さないように」


 秋穂の説明は、どれも具体的で、温度がある。

 私はそのたびに、お菓子の匂いを思い出す。

 喫茶店の甘い空気。秋穂が作ったタルトの味。


 気づけば、30分が過ぎていた。

 ノートは、秋穂の文字と私の文字で埋まっている。


「……これで、明日のテスト、大丈夫」


 秋穂がそう言って、ペンを置く。


「ありがとう……すごく分かりやすかった」


 私が言うと、秋穂は小さく首を傾げた。


「……結城、頭いいのに」

「そんなことない」

「いい。ただ、時間がないだけ」


 その言葉が、胸に沁みる。

 "頭が悪い"んじゃなくて、"時間がない"。

 秋穂の言葉は、いつも私を否定しない。


「……周防さん」

「うん」

「また、教えてくれる?」


 聞いた瞬間、自分でも驚いた。

 "また"を前提にしている。

 秋穂の時間を、当たり前みたいに期待している。


 秋穂は一瞬だけ目を見開いて、それから頷いた。


「……いいよ」


 その返事が、嬉しくて、でも――少しだけ怖い。


 頼ることが、クセになっていく。

 秋穂がいれば大丈夫、という安心が、依存に変わっていく。

 その境界線が、もう曖昧になり始めている。


 秋穂が席を立つ時、エプロンをまた付けた。

 白い粉が、また少しだけ胸元に残っている。


 私はその粉を見て、図書室の秋穂を思い出す。

 遠くから見ていた秋穂。

 今は、こんなに近い。


 近すぎて、もう離れられない気がする。


     ◇


 その後、私は何かあるたびに秋穂に聞くようになった。


 数学の問題が分からない時。

「……周防さん、この因数分解、どうやるの?」


 委員会の仕事の優先順位が分からない時。

「……どっちを先にやればいい?」


 昼ごはんのメニューを決められない時。

「……周防さんなら、どっち選ぶ?」


 秋穂はいつも、少しだけ考えて、答えをくれる。

 その答えは、いつも正確で、無駄がない。

 私が迷っている間に、秋穂はもう道を見つけている。


 だから、頼ってしまう。

 秋穂に聞けば、間違えない。

 秋穂に委ねれば、楽になる。


 教室で、私が秋穂の席に近づく回数が増えた。

 休み時間、秋穂はいつも本を読んでいるけれど、私が声をかけると顔を上げる。


「……周防さん」

「……なに」


 短いやり取り。

 でも、それが私の支えになっている。


 れいなが、ある日ぽつりと言った。


「美春、最近、周防さんとよく話すよね」

「……え? そう?」

「うん。前は、誰とも話してなかったのに」


 れいなの目が、少しだけ探るように私を見る。


「周防さんと、仲良くなったの?」

「……うーん、どうだろ」


 私は曖昧に笑う。

 "仲良い"とは違う気がする。

 秋穂は、私の友達じゃない。

 もっと――依存先に近い。


 でも、それを言葉にするのは怖い。

 自分の甘えを認めることになるから。


「なんか、美春が周防さんに助けてもらってるみたいに見える」


 れいなの言葉が、胸に刺さる。


「……そんなことない」

「ないの?」

「……分かんない」


 私は視線を逸らした。

 分からない。

 助けてもらっているのか、依存しているのか。

 その境界線が、もう見えない。


 秋穂の存在が、私の中で大きくなりすぎている。

 秋穂がいないと、決められない。

 秋穂がいないと、前に進めない。


 それは、救済なのか。

 それとも、依存なのか。


 私はまだ、答えを出せないでいた。

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