第十六章 脱出

帝国の地下牢に投獄されてから、三日が経った。


蓮は、冷たい石の床に座り込み、時間の感覚を失いつつあった。食事は一日一回、硬いパンと水だけ。窓のない独房では、昼も夜も分からない。


しかし、蓮は諦めていなかった。


「考えろ……。何か、打開策があるはずだ」


蓮は、これまでの状況を整理した。


黒田はクーデターを起こし、皇帝を幽閉した。今や、帝国の実権は完全に黒田の手中にある。そして、黒田の目的は——蓮を潰すこと。王国を滅ぼすこと。


このまま放置されれば、蓮は処刑されるか、あるいは王国への人質として利用されるだろう。どちらにしても、状況は絶望的だ。


「でも、諦めない……」


蓮は、自分に言い聞かせた。


前世でも、何度も絶望しかけた。黒田のパワハラ、シェフの叱責、報われない努力。それでも、蓮は諦めなかった。菓子を作り続けた。夢を捨てなかった。


この世界でも、同じだ。諦めるわけにはいかない。


そのとき、独房の外で物音がした。


衛兵の足音ではない。もっと静かな、忍び寄るような音。


蓮は、息を潜めた。


「レン……」


囁き声が聞こえた。


「レン、聞こえる?」


その声は、蓮の知っている声だった。


「ミラ……?」


「しっ、静かに。今、鍵を開けるから」


金属が擦れる音がして、独房の扉がゆっくりと開いた。


暗闘の中から、二つの人影が現れた。


一人は、ミラだった。農家の娘だった幼馴染が、今は旅装束に身を包み、緊張した表情で蓮を見つめている。


そしてもう一人は——。


白い髭を蓄えた、老人だった。ローブを纏い、杖を持っている。見覚えのない顔だが、どこか威厳のある雰囲気を漂わせていた。


「レン、大丈夫?」


ミラが、蓮に駆け寄った。


「ミラ、なんでここに……」


「王都から追いかけてきたの。レンが捕まったって聞いて、じっとしていられなくて」


「追いかけてきた……? 一人で?」


「いいえ。この方が、一緒に来てくださったの」


ミラは、老人の方を振り返った。


老人は、蓮に向かって軽く頭を下げた。


「初めまして、レン・カルディア殿。わしは、グラン。かつて王国の宮廷魔術師を務めていた者じゃ」


「宮廷魔術師……」


蓮は、その名に聞き覚えがあった。王国最高の魔術師。しかし、数十年前に隠居し、今は消息不明だと聞いていた。


「なぜ、あなたが……」


「説明は後じゃ。今は、ここから逃げるのが先決。敵の目が届かぬうちに、動くぞ」


グランは、杖を振った。


すると、蓮の身体を縛っていた枷が、音もなく外れた。


「魔法で、枷を……」


「このくらいは造作もない。さあ、立てるか」


蓮は、ふらつきながらも立ち上がった。三日間ろくに食べていないせいで、身体に力が入らない。


「セラフィーナ様は? 護衛の騎士たちは?」


「王女殿下たちは、別の独房に監禁されておる。わしの弟子たちが、今、救出に向かっておる。我々は、先に外へ出るぞ」


グランに導かれ、蓮とミラは地下牢の通路を進んだ。


不思議なことに、衛兵の姿がない。


「衛兵は、どうしたんですか」


「眠らせた。目を覚ますまで、あと半刻(約一時間)ほどの猶予がある」


グランの魔法は、凄まじかった。音もなく衛兵を無力化し、扉を開け、罠を解除していく。


「すごい……。これが、宮廷魔術師の力……」


「かつての力じゃ。今は、歳をとって衰えた。それでも、この程度のことはできる」


一行は、地下牢を抜け、宮殿の地下通路に出た。


「このまま外へ出れば、追手に見つかる。別の道を行くぞ」


グランは、通路の壁に手を当てた。


すると、壁の一部が消え、隠し通路が現れた。


「この通路は、古代の遺跡に繋がっておる。帝国の連中も、存在を知らぬ」


「古代の遺跡……」


「太古の昔、この大陸には高度な文明が存在した。その遺跡が、各地に残っておる。この通路も、その一つじゃ」


一行は、隠し通路に入った。


通路は、薄暗く、じめじめとしていた。壁には、見たことのない文字や図形が刻まれている。


「この文字は……」


「古代語じゃ。わしでも、一部しか読めぬ」


蓮は、壁の図形を見つめた。


何かの絵が描かれている。光と闇、火と水、様々な相反する要素が、渦を巻いて一つに融合していく様子。


「これは……」


蓮の脳裏に、「乳化」という言葉が浮かんだ。


水と油を混ぜ合わせる技術。相反するものを、一つに繋ぐ技術。


この壁画が描いているのは、まさにそれではないか。


「グランさん。この絵は、何を意味しているんですか」


「ふむ。それは、後で詳しく説明しよう。今は、先を急ぐぞ」


一行は、通路を進み続けた。


やがて、通路は広い空間に出た。


「ここは……」


蓮は、息を呑んだ。


巨大な地下空間だった。天井は遥か高くにあり、壁には無数の壁画が描かれている。中央には、石造りの祭壇のようなものがあった。


「古代の神殿じゃ。この場所は、かつて『創造の間』と呼ばれておった」


グランは、杖を掲げた。杖の先端が光り、空間全体を照らし出す。


壁画が、鮮明に見えるようになった。


蓮は、その壁画を見て、言葉を失った。


「これは……」


壁画には、世界の創造が描かれていた。


最初は、混沌。何もない闇。


そして、光が生まれる。しかし、光と闇は反発し合い、混ざり合わない。


そこに、一人の存在が現れる。手に何かを持っている。ボウルのような器と、棒のような道具。


その存在は、光と闘をボウルに入れ、棒でかき混ぜ始めた。


「まるで……菓子を作っているみたいだ」


蓮は、呆然と呟いた。


壁画の存在は、光と闇を混ぜ合わせている。相反する二つの力を、一つに融合させている。


そして——。


二つの力が融合した瞬間、世界が生まれた。大地、海、空、生命。全てが、その「融合」から生まれていった。


壁画の下には、古代文字で何かが刻まれていた。


「グランさん、この文字は読めますか」


グランは、壁画の前に立ち、文字を読み始めた。


「『太初、光と闇は交わらず、世界は虚無なりき。しかし、創造神は二つの力を器に入れ、ニュウカの術を施せり。かくして、相反するものは一つとなり、世界は生まれたり』」


ニュウカ。


その言葉が、蓮の心に突き刺さった。


「ニュウカ……。それって、乳化のことですか」


「乳化? それは、何じゃ」


蓮は、説明した。製菓における「乳化」の技術。水と油という、本来混ざり合わないものを、温度と攪拌によって均一に結合させる方法。


グランは、蓮の説明を聞きながら、目を見開いた。


「なんと……。お主の技術は、創造神の術と同じものだったのか……」


「同じ……?」


「この世界の魔法は、『ニュウカ』と呼ばれる原理に基づいておる。相反する属性の魔力を融合させることで、魔法は発動する。火と水、光と闇、生と死——。それらを『ニュウカ』させることで、新しい力が生まれる」


蓮は、その言葉を噛み締めた。


この世界の魔法原理と、製菓の「乳化」技術。それが、同じものだった。


「しかし、魔法を使うには魔力が必要じゃ。魔力を持たぬ者には、『ニュウカ』は使えぬ——そう思われておった」


「でも、俺は魔力がゼロなのに……」


「そうじゃ。お主は、魔力なしで『ニュウカ』を実現しておる。物質レベルで、相反するものを融合させておる。それは、創造神と同じ力じゃ」


蓮は、自分の手を見つめた。


この手で、何度も「乳化」を行ってきた。チョコレートと生クリーム、バターと卵——。それらを、一つに繋いできた。


それが、創造神と同じ力だったのか。


「レン・カルディア殿」


グランは、真剣な表情で蓮を見つめた。


「お主には、この世界を変える力がある。相反するものを繋ぐ力が。それは、剣や魔法では決してできぬことじゃ」


「俺に……そんな力が……」


「あるのじゃ。お主は、すでにそれを証明しておる。甘味という概念で、貴族と平民を繋いだ。王国中に、笑顔を広げた。それこそが、『ニュウカ』の本質じゃ」


蓮は、グランの言葉を胸に刻んだ。


自分の技術が、世界を変える力を持っている。それを、今、実感した。


「レン」


ミラが、蓮の手を握った。


「難しいことは、私にはよく分からない。でも、レンが作る菓子は、本当に人を幸せにする。それだけは、分かるの」


「ミラ……」


「だから、諦めないで。レンなら、きっとできる。この世界を、変えられる」


ミラの言葉が、蓮の心に温かく染み込んだ。


そうだ。諦めない。


俺には、「乳化」という武器がある。それで、この世界を繋ぐ。


蓮は、決意を新たにした。


その後、一行は遺跡を抜け、帝国の郊外に出た。


セラフィーナと護衛の騎士たちも、無事に脱出できたらしい。グランの弟子たちが、彼らを安全な場所に匿っている。


「これから、どうするのですか」


蓮は、グランに尋ねた。


「まずは、王国に戻る。そして、陛下に状況を報告せねばならぬ。帝国の宰相がクーデターを起こし、皇帝を幽閉した。戦争は、もはや避けられぬかもしれぬ」


「戦争……」


蓮は、拳を握りしめた。


「俺は、戦争を止めたい。何としても、止めたい」


「どうやって?」


「分かりません。でも、方法があるはずだ。『ニュウカ』の力を使えば、きっと——」


グランは、蓮を見つめた。


「お主には、その資格がある。しかし、道は険しい。黒田という男は、お主を憎んでおる。彼を説得するのは、容易ではあるまい」


「分かっています。でも、やってみる。俺しかできないことがあるなら、やるしかない」


蓮は、北の空を見上げた。


帝国の方角。黒田がいる場所。


「待ってろ、黒田。俺は、必ず戻る。そして、お前と決着をつける」


蓮の目には、強い決意が宿っていた。

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