第七章 乳化という奇跡

蓮は、チョコレートの塊を手に取った。


表面は艶があり、硬い。触ると、体温でわずかに溶け始める。品質の良いクーベルチュールだ。


「まず、これを細かく刻みます」


蓮は、ナイフでチョコレートを刻み始めた。均一な大きさに、素早く、正確に。


刻んだチョコレートをボウルに入れ、湯煎にかける。


「温度が重要です。五十度を超えないように、ゆっくりと溶かします」


蓮は、温度計がないことに気づいた。しかし、問題ない。指先の感覚で、温度は分かる。


チョコレートが溶け始めた。艶のある液体が、ボウルの中で輝く。


「次に、テンパリングを行います」


蓮は、大理石の板を探した。厨房の隅に、石製の作業台があった。それを使う。


「チョコレートを一度冷やし、再び温めることで、結晶を安定させます。こうすることで、艶と食感が生まれます」


蓮は、溶けたチョコレートを大理石の上に流した。パレットナイフで広げ、集め、また広げる。


周囲の料理人たちは、息を呑んで見守っていた。


「……何をしているんだ?」


一人が、小声で尋ねた。


蓮は答えずに、作業を続けた。


チョコレートの温度が下がっていく。二十七度。蓮は、その瞬間を逃さなかった。


「ここです」


チョコレートをボウルに戻し、再び湯煎にかける。


「三十一度まで温めます」


蓮は、チョコレートを絶えずかき混ぜながら、温度を上げていった。


三十一度。蓮は、湯煎からボウルを外した。


「完成です」


チョコレートは、深い艶を放っていた。まるで、宝石のように。


蓮は、テスト用の紙にチョコレートを薄く塗り、冷やした。数分後、取り出して確認する。


美しい艶。指で触れると、すぐに溶け始める。「パキッ」という、軽やかな音。


完璧なテンパリングだ。


「……すごい」


誰かが、呟いた。


ベルナールが、前に出てきた。テスト用の紙を手に取り、光に透かして確認する。チョコレートの端を折り、音を聞く。そして、口に含んだ。


沈黙。


「……どうやって、この技術を身につけた」


ベルナールが、低い声で尋ねた。


蓮は、正直に答えた。


「田舎で、独学で学びました。材料の性質を観察し、温度と時間を記録し、何百回も試行錯誤を繰り返しました」


嘘ではない。前世で、それをやった。


ベルナールは、蓮をじっと見つめた。


「……これを使って、何を作れる」


「ガナッシュ、トリュフ、ボンボンショコラ、チョコレートケーキ——。いくつでも」


蓮は、淡々と答えた。


ベルナールは、しばらく黙っていた。そして、短く命じた。


「ガナッシュを作れ」


ガナッシュ。チョコレートと生クリームを合わせた、濃厚なクリームだ。


トリュフの中身にも、ケーキのコーティングにも使われる、チョコレート菓子の基本。


そして、その製法の核心が——「乳化」だ。


蓮は、生クリームを鍋に入れ、火にかけた。沸騰直前まで温める。


テンパリングしたチョコレートをボウルに入れ、そこに温めた生クリームを少しずつ注ぐ。


「ここが、最も重要なポイントです」


蓮は、ゆっくりと説明しながら、ゴムベラでクリームをかき混ぜた。


「チョコレートと生クリームは、本来混ざりにくい性質を持っています。油分と水分ですから。しかし、適切な温度と攪拌によって、両者を均一に結合させることができます」


蓮のゴムベラが、円を描く。ゆっくりと、しかし確実に。


「これを、『乳化』と呼びます」


乳化。


その言葉が、厨房に響いた。


蓮は、ボウルの中のクリームを見つめた。最初は分離していた油分と水分が、少しずつ一体化していく。色が変わる。艶が出る。質感が変わる。


「……乳化した」


蓮は、完成を宣言した。


ボウルの中には、滑らかなガナッシュが輝いていた。濃厚なチョコレートの香りが、厨房中に広がる。


ベルナールが、スプーンでガナッシュを掬い、口に含んだ。


彼の目が、わずかに見開かれた。


「……これは」


ベルナールは、言葉を失っていた。


蓮は、静かに待った。


やがて、ベルナールは蓮を見つめ、言った。


「神崎……いや、レン・カルディア。お前を、正式にパティシエとして採用する」


厨房中に、どよめきが広がった。


「明日から、お前は菓子部門の責任者だ。王女殿下の第二厨房を使い、好きなように菓子を作れ。必要なものがあれば、申請しろ。できる限り、手配する」


蓮は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


ベルナールは、複雑な表情で蓮を見ていた。そして、低い声で言った。


「『乳化』か……。聞いたことのない言葉だが、覚えておこう」


その夜、蓮は第二厨房で一人、作業台の前に立っていた。


窓の外には、王都の夜景が広がっている。魔法の街灯が、星のように輝いている。


蓮は、自分の手を見つめた。


この手で、ガナッシュを作った。「乳化」という技術で、チョコレートと生クリームを「繋いだ」。


乳化。


水と油。本来、混ざり合わないもの。しかし、技術と根気があれば、それを「繋ぐ」ことができる。


蓮は、ふと思った。


この世界にも、「混ざり合わないもの」がある。貴族と平民。魔法を持つ者と持たない者。豊かな者と貧しい者。


それらを「繋ぐ」ことはできないだろうか。


蓮の菓子は、人々を笑顔にする。貴族であれ、平民であれ、甘味を口にすれば、同じ喜びを感じる。


もしかしたら、菓子は——「乳化」の役割を果たせるのではないか。


分断された世界を、「繋ぐ」装置として。


蓮は、窓の外を見つめた。


まだ、遠い夢だ。しかし、その種は、確実に蓮の中で芽吹き始めていた。


「乳化か……」


蓮は、小さく呟いた。


その言葉は、やがてこの世界を変える鍵になる。しかし、今の蓮には、まだそれを知る由もなかった。


翌朝、蓮は第二厨房で本格的な仕事を開始した。


最初の課題は、「王女殿下の誕生パーティーに提供する菓子」だった。


セラフィーナの十六歳の誕生日。王宮で盛大な宴が開かれ、王族、貴族、各国の使節が招かれる。そこで提供される菓子を、蓮が担当することになった。


「何百人分も作るのか……」


蓮は、頭を抱えた。


村で数十個のシュークリームを作るのとは、訳が違う。規模が桁違いだ。


しかし、蓮は怯まなかった。


まず、メニューを決める。


「アントルメ」——大型の生菓子。これを、メインとして一台作る。


「プティフール」——一口サイズの小菓子。これを、数百個作る。


そして、「ボンボンショコラ」——チョコレート菓子。これも、数百個。


材料の発注、製造スケジュールの作成、品質管理——。全てを、蓮一人で行う。


いや、一人ではない。


「レン、手伝うわ」


セラフィーナが、第二厨房にやってきた。


「王女殿下? でも、料理なんて——」


「大丈夫よ。私、こう見えても、少しは料理ができるの」


セラフィーナは、エプロンを着けながら微笑んだ。


「それに、自分の誕生日の菓子でしょ? 自分も参加したいの」


蓮は、少し驚いたが、すぐに頷いた。


「分かりました。じゃあ、卵の分離をお願いできますか?」


「任せて!」


こうして、蓮とセラフィーナの共同作業が始まった。


王女と見習いパティシエ。身分も立場も全く違う二人が、同じ厨房で、同じ目標に向かって働く。


それは、小さな「乳化」の始まりだった。


水と油が、少しずつ、混ざり合い始めていた。


(第一部 完)

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