第六章 王都の洗礼

王都エルシードは、蓮の想像を遥かに超えていた。


石畳の大通りを、馬車や人力車が行き交う。道の両側には、三階建て、四階建ての建物が隙間なく並び、一階は店舗、上階は住居になっているようだ。看板には「武器屋」「薬屋」「服飾店」「宿屋」といった文字が並ぶ。


人の数も、桁違いだ。村の全人口よりも多い人々が、この大通りだけで歩いている。商人、職人、兵士、貴族——様々な身分の人間が、それぞれの目的を持って動いている。


そして、何より驚いたのは、「魔法」の痕跡だった。


街灯には、火ではなく、魔法の光球が灯っている。噴水からは、自然の法則を無視した形で水が舞い上がっている。道を掃除する人々は、箒ではなく、風の魔法で塵を集めていた。


「すごい……」


蓮は、思わず声を漏らした。


「この世界の、これが普通なの」


セラフィーナが、微笑みながら言った。


「魔法は、生活のあらゆる場面で使われている。照明、暖房、運搬、治療——。魔法がなければ、この都市は成り立たないわ」


蓮は、改めて自分の立場を認識した。


魔力ゼロ。この世界の標準から見れば、蓮は「欠陥品」だ。生活の基盤となる魔法を、一切使えない。


しかし、だからこそ、蓮には「見えるもの」がある。


魔法に頼らない技術。科学的な原理に基づいた製法。前世で培った知識と経験。


それらは、この世界では「革命的」なのだ。


馬車は、王宮へ向かった。


王宮の正門を通過すると、広大な庭園が広がっていた。幾何学的に刈り込まれた植木、色とりどりの花壇、噴水と彫刻。全てが完璧に配置され、計算された美しさを演出している。


馬車は、王宮の脇にある小さな建物の前で止まった。


「ここが、あなたの仕事場になるわ」


セラフィーナが、建物を指さした。


一階建ての、しかし広々とした建物だ。煉瓦造りの外壁、大きな窓、煙突——。


「これは……厨房?」


「そう。元々は、王宮の第二厨房として使われていたの。でも、今は使われていないから、あなたに貸し出すことにした」


セラフィーナは、扉を開けて中に入った。蓮も続く。


中に入ると、蓮は息を呑んだ。


広い作業スペース。大きなオーブンが三台。業務用の冷蔵庫(魔法で冷却されている)。ステンレス製の作業台。そして、壁一面の棚には、様々な調理器具が整然と並んでいる。


「どう? 気に入った?」


セラフィーナが、期待の眼差しで尋ねた。


「……最高です」


蓮は、感動で声が震えた。


前世で働いていたパティスリーよりも、設備が充実している。これだけの環境があれば、何だって作れる。


「材料は、私が手配するわ。必要なものがあったら、何でも言って。予算は気にしなくていいから」


「……本当に、いいんですか?」


「当然よ。あなたの技術に投資する価値はある。私には、それが分かるから」


セラフィーナは、真剣な表情で言った。


蓮は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。必ず、期待に応えます」


しかし、現実は甘くなかった。


翌日から、蓮は王宮の厨房に配属された。正確には、「見習い」として。


セラフィーナが用意してくれた第二厨房は、あくまで「蓮専用の作業場」だった。しかし、いきなりそこで独立して働くことは許されなかった。まずは、王宮の正規の厨房で「修行」をする必要がある。


「お前が、王女殿下が連れてきた田舎者か」


厨房に入った瞬間、冷たい声が蓮を迎えた。


声の主は、五十代の男性だった。恰幅が良く、鋭い目つきをしている。白いコック服を纏い、胸には金色の徽章がついていた。


「王宮料理長のベルナールだ。お前が何者か知らんが、ここでは俺の指示に従え。王女殿下の後ろ盾があろうがなかろうが、関係ない。実力がなければ、すぐに追い出す」


蓮は、深く頭を下げた。


「レン・カルディアです。よろしくお願いします」


ベルナールは、蓮を睨みつけた。


「お前の持ち場は、皿洗い場だ。まずは、それから始めろ」


皿洗い。


蓮は、思わず苦笑しそうになった。


また、底辺からのスタートか。前世と同じだ。


しかし、蓮は驚かなかった。むしろ、予想通りだった。


この世界でも、前世でも、変わらない。下積みから始め、少しずつ認められていく。それが、職人の世界だ。


「分かりました」


蓮は、黙って皿洗い場へ向かった。


王宮の厨房は、村の台所とは比べ物にならないほど巨大だった。


数十人の料理人が、同時に調理を行っている。肉を焼く者、野菜を刻む者、ソースを仕込む者——。それぞれが自分の「持ち場(セクション)」を守り、黙々と作業を進めている。


そして、その全てを統括するのが、料理長ベルナールだ。


彼の指示は、軍隊のように厳格だった。「火を止めろ」「塩を足せ」「皿を出せ」——短い言葉が、矢のように飛び交う。従う者たちは、即座に反応し、行動する。


蓮は、厨房の端にある皿洗い場で、ひたすら皿を洗い続けた。


熱湯で洗い、すすぎ、乾燥させ、所定の位置に戻す。その繰り返し。単調な作業だが、蓮は手を抜かなかった。


皿の汚れを完璧に落とす。水滴を残さない。積み重ねるときは、静かに、丁寧に。


これが、「ミザンプラス(準備万端)」の基本だ。


食器が汚れていれば、料理の味も落ちる。食器が欠けていれば、盛り付けの美しさも損なわれる。皿洗いは、料理の「土台」を支える、地味だが重要な仕事だ。


「……ふん」


午後になって、ベルナールが皿洗い場を視察に来た。


蓮が洗った皿を一枚手に取り、光に透かして確認する。そして、指で表面を撫でた。


「……悪くない」


それだけ言って、ベルナールは去っていった。


蓮は、小さく息を吐いた。


「悪くない」。それは、前世の「及第点」と同じだ。最高の賛辞ではないが、最低でもない。


ここから、少しずつ登っていく。


蓮は、再び皿洗いに戻った。


一週間が経った。


蓮は、皿洗いから「野菜の下処理」へと昇格した。


玉ねぎの皮を剥き、ニンジンを刻み、ジャガイモを洗う。村でやっていたことと、大差ない。しかし、規模が違う。王宮の宴会では、数百人分の料理を同時に提供する。そのための下処理は、膨大な量になる。


蓮は、黙々と作業を続けた。


そして、周囲を観察した。


他の料理人たちが、どのように動いているか。どのような技術を使っているか。どのような連携を取っているか。


蓮の目は、全てを捉えていた。


「あの人、包丁の持ち方が独特だな」


「ソースを仕込むとき、あの順番で材料を加えるのか」


「肉を焼くとき、あの温度で何分——」


情報を集め、分析し、自分の知識と照合する。前世の製菓技術と、この世界の料理技術。共通点と相違点を見極め、活かせるものを吸収していく。


これが、蓮の「学び方」だった。


才能がない代わりに、観察力と分析力で補う。百回見て、百回考えて、一回で成功させる。


その日も、蓮は野菜を刻みながら、周囲の様子を観察していた。


すると、厨房の一角で、騒ぎが起きた。


「これは……どうすればいい?」


「分からん。見たことがない食材だ」


数人の料理人が、何かを囲んで困惑していた。


蓮は、そっと近づいて覗き込んだ。


テーブルの上には、茶色い塊が置かれていた。固形で、独特の光沢がある。


チョコレートだ。


蓮は、瞬時にそれを認識した。


「これは……南方の商人から仕入れた『カカオ』という食材らしい」


ベルナールが、渋い表情で説明した。


「王女殿下のご所望で、これを使った菓子を作れと言われたのだが……。誰も、扱い方を知らん」


料理人たちは、互いに顔を見合わせた。


蓮の心臓が、跳ねた。


チョコレート。前世で、何百回と扱った食材。テンパリング、ガナッシュ、ボンボンショコラ——。蓮の得意分野だ。


しかし、ここで出しゃばっていいのか。まだ見習いの身分だ。


蓮は、少し迷った。


その瞬間、ベルナールの視線が蓮を捉えた。


「お前。何か、知っているのか」


それは、問いかけではなく、確認だった。ベルナールは、蓮の表情の変化を見逃さなかったのだ。


蓮は、覚悟を決めた。


「……はい。扱い方を、知っています」


厨房中の視線が、蓮に集まった。


ベルナールは、無言で蓮を見つめた。そして、短く命じた。


「やってみろ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る