第八章 最初の傑作

セラフィーナの十六歳の誕生パーティーまで、残り三日。


蓮は第二厨房に籠り、ほとんど眠ることなく作業を続けていた。


メインとなる「アントルメ」——大型の生菓子——の設計図は、すでに頭の中で完成していた。しかし、それを実現するためには、想像を絶する量の準備が必要だった。


スポンジ生地を焼く。ムースを仕込む。グラサージュ(艶出しのコーティング)を作る。飾り用のチョコレート細工を一つずつ手作業で成形する。


全ての工程を、蓮一人でこなさなければならない。


「レン、少しは休んだら?」


セラフィーナが、心配そうな顔で厨房に入ってきた。


蓮は手を止めずに答えた。


「大丈夫です。あと少しで、ムースの仕込みが終わりますから」


「でも、もう三日もまともに寝てないでしょう? 顔色が悪いわ」


「……慣れてます。前世でも、クリスマス前は徹夜が続きましたから」


蓮は苦笑した。


前世のパティスリーで過ごしたクリスマスシーズン。あの地獄に比べれば、今の状況はまだマシだった。少なくとも、黒田の嘲笑を聞かなくて済む。


「前世って……。レン、時々そういう不思議なことを言うわね」


セラフィーナは首を傾げたが、深くは追求しなかった。彼女は蓮の「秘密」について、何かを察しているようだった。しかし、それを問い詰めることはしない。蓮が話したくなったときに、話せばいい——そういう姿勢だった。


「私にも、何か手伝えることはない?」


「じゃあ、このイチゴのヘタを取ってもらえますか? 飾り用なので、形を崩さないように」


「任せて!」


セラフィーナは、嬉々として作業を始めた。


王女が、厨房で野菜の下処理をする。普通なら考えられない光景だ。しかし、セラフィーナはそういうことを気にしない。むしろ、「普通じゃないこと」を楽しんでいるようだった。


二人は、黙々と作業を続けた。


窓の外では、夕日が沈んでいく。オレンジ色の光が厨房に差し込み、作業台の上のボウルや器具を照らす。


「レン」


セラフィーナが、ふと呟いた。


「何ですか?」


「このお菓子、本当に世界を変えられると思う?」


蓮は、手を止めた。


セラフィーナの表情は、真剣だった。


「……分かりません」


蓮は、正直に答えた。


「俺にできるのは、美味しい菓子を作ることだけです。それで世界が変わるかどうかは、俺には分からない。でも——」


蓮は、ボウルの中のムースを見つめた。


「でも、菓子を食べた人が笑顔になる。それだけは、確かです。その笑顔が、少しでも広がれば……。何かが変わるかもしれない、とは思います」


セラフィーナは、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと微笑んだ。


「うん。私も、そう思う」


彼女は、イチゴを一つ手に取り、蓮に差し出した。


「これ、形が良いでしょ? 一番上に飾って」


蓮は、そのイチゴを受け取った。


確かに、完璧な形をしていた。真っ赤で、艶があり、ヘタの切り口も美しい。


「……ありがとうございます」


蓮は、小さく微笑んだ。


誕生パーティー当日。


王宮の大広間は、華やかに飾り付けられていた。


天井からは無数のシャンデリアが吊り下げられ、魔法の光球が柔らかな輝きを放っている。壁には金糸で刺繍されたタペストリーが掛けられ、床には真紅の絨毯が敷き詰められている。


招待客は、三百人以上。王族、貴族、各国の使節、そして一部の富裕な商人たち。彼らは煌びやかなドレスや礼服に身を包み、互いに挨拶を交わしながら、宴の開始を待っていた。


蓮は、厨房の裏口から大広間を覗いた。


「すごい人数だ……」


胃が痛くなりそうだった。


前世でも、大きなパーティーの菓子を担当したことはある。しかし、せいぜい五十人程度の規模だった。三百人など、経験したことがない。


しかも、今回は「プティフール」と「ボンボンショコラ」を、合わせて千個以上用意している。そして、メインの「アントルメ」は——。


「レン、準備はできた?」


セラフィーナが、ドレス姿で厨房にやってきた。


純白のドレスに、銀色の髪飾り。彼女は、まるで妖精のように美しかった。


「……はい。できました」


蓮は、大きな銀の盆を指さした。


その上には、蓮が三日三晩かけて作り上げた「アントルメ」が鎮座していた。


直径四十センチの円形。三層のスポンジの間には、木苺のムースとチョコレートのガナッシュが重ねられている。表面は、鏡のように滑らかなグラサージュで覆われ、深い紅色に輝いている。


そして、ケーキの頂上には、チョコレートで作った精巧な「王冠」と「花」の細工が飾られていた。


「……きれい」


セラフィーナは、息を呑んだ。


「これが、お菓子なの……? まるで、宝石みたい」


「気に入っていただけましたか?」


「気に入ったなんてものじゃないわ。こんなの、見たことない」


セラフィーナの目には、涙が滲んでいた。


「ありがとう、レン。本当に……ありがとう」


蓮は、少し照れくさそうに頭を掻いた。


「いえ、まだ味を見てもらってませんから。見た目だけで判断するのは——」


「味も、きっと素晴らしいに決まってるわ」


セラフィーナは、確信を込めて言った。


「だって、あなたが作ったんだもの」


宴が始まった。


最初に提供されたのは、「プティフール」——一口サイズの小菓子だ。


色とりどりのマカロン、タルトレット、フィナンシェ、マドレーヌ。それらが美しく盛り付けられた皿が、給仕たちの手で次々と運ばれていく。


招待客たちは、最初は戸惑いの表情を見せた。


「これは……何だ?」


「食べ物なのか?」


「見たこともない代物だが……」


しかし、一人の貴婦人が勇気を出して、マカロンを口に運んだ瞬間——。


「……っ!」


彼女は、大きく目を見開いた。そして、震える声で言った。


「なんて……なんて美味しいの……!」


その一言が、堰を切ったように広がった。


「私も食べてみよう」


「これは……信じられない」


「甘い……甘いぞ! こんな味は初めてだ!」


大広間のあちこちで、歓声が上がり始めた。


貴族たちが、争うようにプティフールに手を伸ばす。普段は優雅に振る舞う彼らが、まるで子どものように夢中で菓子を頬張っている。


蓮は、厨房の裏口からその様子を見ていた。


「……良かった」


胸の奥で、温かいものが広がるのを感じた。


これだ。この瞬間が、蓮が生きる理由だ。


自分の作った菓子で、人々が笑顔になる。その光景を見るために、蓮は三年間の下積みに耐えてきた。そして、異世界に転生してからも、必死に努力を重ねてきた。


全ては、この瞬間のためだった。


「レン」


背後から声をかけられ、振り返ると、料理長のベルナールが立っていた。


「客の反応は上々だ。次は、メインのアントルメを出す。準備はいいか?」


「はい。いつでも」


ベルナールは、蓮をじっと見つめた。


「……正直に言う。お前のことを、最初は侮っていた。田舎から来た、魔力もない子どもが、何ができると思っていた」


蓮は、黙って聞いていた。


「しかし、今日、お前の実力を認めざるを得ない。あの菓子は……俺の四十年のキャリアでも、見たことがない。お前には、才能がある」


才能。


その言葉が、蓮の胸に突き刺さった。


才能がある。


前世では、一度も言われたことのない言葉だ。「才能がない」「役立たず」——そう言われ続けてきた。


しかし、この世界では違う。


蓮の技術が、正当に評価されている。


「……ありがとうございます」


蓮は、深く頭を下げた。


ベルナールは、短く頷いた。


「さあ、行け。お前の舞台だ」


大広間の中央に、巨大な台車が運ばれてきた。


その上には、蓮のアントルメが載っている。


招待客たちは、一斉にその方向を振り返った。


「あれは……何だ?」


「見たこともない……」


「宝石のように輝いている……」


ざわめきが広がる中、セラフィーナが台車の横に立った。


「皆様、本日の主役であるこのケーキは、新進気鋭の菓子職人・レン・カルディアが、私のために特別に作ってくれたものです」


セラフィーナは、蓮に手招きした。


蓮は、厨房から出て、大広間の中央へ歩いていった。


三百人の視線が、自分に集中している。貴族たち、使節たち、そして——。


玉座に座る国王と王妃の姿が見えた。


国王は、五十代半ばの威厳ある男性だ。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、鋭い目つきで蓮を見つめている。


「お前が、このケーキを作った職人か」


国王の声が、大広間に響いた。


蓮は、片膝をついて礼をした。


「はい、陛下。レン・カルディアと申します」


「ふむ。若いな。いくつだ?」


「十二歳です」


「十二歳……」


国王は、驚いたように眉を上げた。


「その年で、これほどの技術を持っているとは。どこで学んだ?」


「独学です、陛下。材料の性質を観察し、何度も試行錯誤を繰り返しました」


嘘ではない。前世での学びを、この世界で再現しただけだ。


国王は、しばらく蓮を見つめていた。そして、短く命じた。


「切り分けろ。味を見よう」


蓮は立ち上がり、ナイフを手に取った。


アントルメに、刃を入れる。


滑らかな切り口から、三層の断面が現れた。深紅のムース、濃厚なチョコレート、ふわふわのスポンジ。それぞれの層が、完璧なバランスで重なり合っている。


蓮は、一切れを皿に盛り、国王の前に差し出した。


「どうぞ」


国王は、フォークでケーキを一口すくい、口に運んだ。


大広間が、静まり返った。


全員が、国王の反応を見守っている。


国王は、ゆっくりと咀嚼した。そして——。


その目が、大きく見開かれた。


「……これは」


国王の声が、震えていた。


「これは……何という……」


彼は、二口目を口に運んだ。三口目。四口目。


気づけば、一切れを全て平らげていた。


「……もう一切れ」


国王は、かすれた声で言った。


「もう一切れ、欲しい」


大広間に、どよめきが広がった。


国王が、菓子をおかわりする。そんなことは、前代未聞だった。


蓮は、もう一切れを国王に差し出した。


国王は、それもあっという間に平らげた。そして、蓮をまっすぐに見つめた。


「レン・カルディア」


「はい、陛下」


「この技術は、どこの国にも存在しないものだ。お前は、この王国の宝だ」


国王は立ち上がり、大広間の全員に向かって宣言した。


「本日より、レン・カルディアに『甘味師』の称号を与える。彼は、この国で唯一の『甘味』を作り出す職人である。今後、彼の技術は王国の財産として保護される」


大広間が、拍手で包まれた。


蓮は、呆然と立ち尽くしていた。


甘味師。


そんな称号が、自分に与えられるなんて。


前世では、見習いのまま死んだ。フエ(泡立て器)を握る資格すら、与えられなかった。


しかし、この世界では——。


蓮は、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます、陛下。この恩に報いるため、全力を尽くします」


宴が終わった後、蓮は第二厨房で後片付けをしていた。


疲労が、全身にのしかかっている。三日間の徹夜と、宴の緊張。全てが終わった今、その反動が一気に押し寄せてきた。


しかし、蓮の心は満たされていた。


成功した。自分の菓子が、認められた。


「お疲れ様、レン」


セラフィーナが、着替えを済ませて厨房にやってきた。


「今日は、本当にありがとう。最高の誕生日だったわ」


「いえ、俺の方こそ……。こんな機会を与えてくださって、ありがとうございました」


セラフィーナは、微笑みながら蓮の隣に座った。


「ねえ、レン」


「何ですか?」


「これから、どうするの?」


蓮は、少し考えてから答えた。


「……もっと多くの人に、菓子を届けたいです。王宮の貴族だけじゃなく、街の人々にも。庶民にも。この世界の全員に、甘味の喜びを知ってほしい」


セラフィーナは、嬉しそうに頷いた。


「それ、いいわね。私も手伝う」


「え?」


「だって、私も同じことを考えてたの。貴族だけが美味しいものを食べる世界は、おかしいわ。全ての人が、幸せを感じられる世界にしたい。そのために、あなたの力が必要なの」


蓮は、セラフィーナの真剣な眼差しを受け止めた。


「……分かりました。一緒に、頑張りましょう」


二人は、固く握手を交わした。


窓の外では、夜空に星が輝いていた。


蓮の新しい挑戦が、始まろうとしていた。


しかし、蓮は知らなかった。


この成功を、快く思わない者たちがいることを。


彼らが、すでに蓮の失脚を画策していることを。

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