第2話
霧を裂くように、名もなき軍勢が進み出た。
戦場の喧噪が、ひと呼吸だけ止まる。角笛の音が途中で掠れ、太鼓の連打が一拍遅れた。帝国軍の最前列が、何かを見誤った獣のように足を止める。王国軍の兵も同じだ。敵でも味方でもない影が、等間隔の列を保ったまま、音もなく迫ってくる。
リオンは指揮所の縁に立ち、霧の向こうを凝視した。感情が先に動けば、軍が崩れる。彼は喉の渇きを飲み込み、声を落ち着かせる。
「皆さん、動かないでください。弓兵は矢をつがえてください。ただし、放たないでください」
命令が伝令を介して走り、弓が一斉に引かれる。張り詰めた弦の音が、戦場の空気をさらに硬くした。
「槍兵は隊形を維持してください。前へ出ないでください。魔術師団は詠唱を継続してください。発動は私の号令まで待機です」
副官ミレイユが、低い声で言った。
「指揮官殿……あれは味方ではありません」
「ええ。ですが、今は敵とも断定できません」
リオンは地図から目を離さず、霧の中の足音に耳を澄ませた。歩調が揃いすぎている。人の列ではあり得ない。だが、列は確かに地面を踏みしめ、草を倒し、泥を跳ねさせて進んでいる。現実だ。
帝国軍の方から、怒鳴り声が上がった。指揮官の号令だろう。次いで、包囲を完成させようとしていた重歩兵が向きを変え、名もなき軍勢へ槍を突き出した。
衝突は、音より先に形で起きた。
名もなき兵たちは、槍を受け止めるのではなく、盾の面で受け流し、滑るように横へずれる。隊列が乱れない。槍先が空を切るたび、帝国兵の足が一瞬止まり、その隙間に別の影が入っていく。
そして――倒れたのは、帝国兵だった。
だが、血が飛ばない。喉を裂く斬撃でもなければ、胸を貫く突きでもない。名もなき兵の剣は、肩口や腕を打ち、膝を払う。槍は胴体を避け、足元を薙ぐ。盾は押し、叩き、転ばせる。倒れた帝国兵は呻き、混乱し、立ち上がろうとするが、次の影が足首を踏み、動きを封じる。
王国軍の兵が、信じられないという顔で呟いた。
「……殺していない」
その言葉が、戦場に小さな穴を開けた。殺し合いの場で、殺さない戦いなど存在しないはずだ。だが目の前で起きている。
帝国軍は混乱した。死なないのに倒される。傷は浅いのに戦列が崩れる。恐怖よりも苛立ちが先に立ち、苛立ちは判断を鈍らせる。
包囲の輪が、ほんのわずか歪んだ。
「今です」
リオンは即座に声を出した。
「右翼は後退を止めてください。中央は谷への圧力を強めます。左翼は隊形を畳み、間合いを保ったまま後退です。追いません。追わせません」
伝令が飛び、命令が走る。兵たちは「勝てるかもしれない」という希望に酔いかけるが、リオンの言葉がそれを抑える。勝ちに行けば死ぬ。生き残るために動く。
名もなき軍勢は、戦場の「形」だけを変えていった。帝国軍の連携線――伝令が走る通路、旗が見える位置、補給が通る細道――それらを寸断するように、列を差し込む。誰かを狙うのではない。隊列そのものを押し流す。
帝国軍の旗が、霧の向こうで傾いた。旗が傾くと、兵は迷う。迷うと、包囲は穴を作る。穴ができれば、王国軍は息をする。
リオンは地図の石を動かし、穴の位置を確定する。
「第三騎兵隊は突撃ではなく、示威で結構です。敵の注意を引き、こちらの中央から目を逸らしてください。槍兵はその背を守ります」
「騎兵に示威ですか」
ミレイユが聞く。
「はい。突撃は不要です。敵が退くべきだと感じれば十分です」
「承知しました」
帝国軍の将が、ついに決断したのが見て取れた。撤退の角笛が鳴り、太鼓が後退の拍に変わる。包囲を完成させるはずだった輪が、逆に広がっていく。押し込まれていた王国軍の前線が、ようやく呼吸を取り戻した。
ここで追えば、勝てるかもしれない。兵たちの目に、その欲が灯る。
リオンは即座に釘を刺した。
「追撃は禁止です。隊を崩さないでください。負傷者の回収を優先してください」
敬語の命令は冷たいのではない。兵を生かすための温度だ。
その時、名もなき軍勢の動きが変わった。
攻め込む速度が緩み、列が同じ角度で旋回する。撤退していく帝国軍を追うでもなく、王国軍に合図を送るでもなく、まるで舞台の幕が下りるように、霧の奥へ向かって整然と後退し始めた。
リオンは思わず叫びそうになり、唇を噛んだ。合図もなければ、名乗りもない。こちらから声をかけても、返事がある保証はない。むしろ近づけば危険かもしれない。
「……近づかないでください」
彼は自分にも言い聞かせるように、周囲の兵へ告げた。
「距離を保ちます」
名もなき兵たちは、霧に溶けていった。
走らない。乱れない。最後まで無言だ。
先頭の影が消え、次の列が消え、後ろの列も消える。まるで霧の向こうに別の世界が口を開け、そこへ吸い込まれていくようだった。
残ったのは、踏み固められた泥と、転がる帝国兵の呻きだけである。
戦闘が終わると、別の戦いが始まる。戦果の整理だ。
王国軍の将校たちが集められ、報告が上がる。誰が何人倒したか、どこを押し返したか、どの部隊が損耗したか。いつもなら数字が並ぶ。
しかしその日の報告は、奇妙に歯切れが悪かった。
「第三勢力の戦果は?」と上層部が問う。
誰も答えない。誰も数えられない。倒された帝国兵は確かにいた。だが、それは王国軍が止めを刺した者か、潰走で倒れた者か、混乱で味方同士が踏み潰した者か。名もなき軍勢に「殺された」死体は、誰も見ていない。
戦場の現実は確かに動いたのに、記録の上では存在が薄い。
ミレイユが小声で言った。
「指揮官殿、上層部が不機嫌です。説明を求めています」
「説明……ですか」
リオンは机の上の報告書を見下ろした。自分の部隊の損耗は明確だ。帝国軍の死者も推定できる。だが名もなき軍勢は、数字にならない。
「事実のみ申し上げます。推測は控えます」
「それがよろしいかと」
夜、野営地に冷たい風が吹き込んだ。焚き火の火が揺れ、兵たちの顔が陰と光の間を行き来する。勝ったはずの軍なのに、誰も歓声を上げない。勝利の実感がないのだ。勝利の理由が、霧の中に消えてしまったから。
リオンは火のそばに立ち、湯を口に含んだ。温かいはずの湯が、喉を通るとすぐ冷える気がした。
そこへ、伝令が一通の文書を抱えてやって来た。
「指揮官殿、帝国側より停戦に関する使者が来ております。文面には……正体不明の軍勢による威圧行為について、抗議の言葉がございます」
「抗議……」
リオンは文面を受け取り、短く息を吐いた。帝国軍が恐怖したのは確かだ。だが恐怖の正体が分からないままでは、次の戦いは防げない。
「停戦は受け入れます。ただし、戦場確認を明朝行います。調査班を編成してください」
「はい」
「私も同行いたします」
ミレイユが目を見開いた。
「指揮官殿ご自身が、ですか」
「ええ。昨日の勝利は、誰のものでもありません。だからこそ、確かめる必要がございます」
霧の中で見た無言の列が、脳裏に焼きついて離れない。殺さずに戦場を変え、名も残さずに消えた軍勢。
それが何者であれ、王国の未来に関わる。
リオンは焚き火の火を見つめたまま、静かに言った。
「確かにいたはずの軍勢が、何を残したのかを確かめなければなりません」
具現化魔法の使い手 @M-yama-1105
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