具現化魔法の使い手

@M-yama-1105

第1話

霧が濃い。湿った冷気が鎧の隙間から入り込み、汗と泥の匂いを皮膚の裏側にまで貼りつかせる。角笛が鳴り、太鼓が応える。その音の層の下に、兵の叫びと、金属の擦れる不快な響きが途切れなく続いていた。


 王国軍は押されていた。いや、「押されている」などという生易しい言葉ではない。右翼はすでに裂け、左翼も限界に近い。中央は踏みとどまっているが、踏みとどまっているだけで前に進めない。敵――帝国軍は包囲の輪を狭め、こちらの呼吸が尽きる瞬間を待っている。


 リオン・アルヴェインは丘の中腹、土嚢で囲った簡易の指揮所に立っていた。正面の霧の向こうに戦場は広がっているはずだが、目で見えるのは揺れる影と、時折走る魔法光だけだ。見えないからこそ、彼は見失わないようにしていた。地図の上に置いた石の位置、伝令が運んでくる断片的な報告、そして風が運ぶ音の方向――それらを重ね合わせ、戦場全体の形を頭の中で組み上げる。


 若い指揮官だ、と兵は言う。二十五歳で軍を動かすのは異例だ。だが、彼がここにいるのは偶然ではない。彼は「勝つ」より先に、「生き残らせる」ことを知っている。


「副官殿、左翼の状況はいかがでしょう」


 リオンは礼儀正しい声で問いかけた。忙しさに荒げたくなる場面でも、彼の口調は崩れない。それが部下の背筋を正す。

 ミレイユ・フォルクスが泥を払う暇もなく駆け寄り、息を整える前に報告した。


「左翼、第二槍兵隊が崩れかけています。敵の重歩兵が前に出てきました。あと一刻……いえ、半刻も持ちません」


「承知いたしました。第三弓兵隊を左翼へ。射撃の角度を低く、敵の足を止めてください。槍兵には『後退』ではなく『隊形を畳む』と伝えてください。恐慌を誘発いたします」


「はっ」

 命令は短く、具体的だった。リオンは地図上の石を動かし、兵站の線を指でなぞる。補給は途切れている。水と矢が足りない。疲労が限界を越えれば、剣は握れなくなる。人は英雄になれない。英雄になろうとした者から死ぬ――かつて師が言った言葉が、胸の奥で硬く鳴った。



 伝令が転げるようにして飛び込んでくる。

「指揮官殿! 中央、敵騎兵が――! 迂回してこちらの背へ回り込もうとしています!」


「どの位置でしょう」


「霧の向こう、谷沿いです! 黒い旗の――」


「黒い旗。承知いたしました」

 リオンは一瞬だけ目を閉じ、脳内で地形を立ち上げる。谷沿いの道は狭い。騎兵が通れば詰まる。詰まれば、押し返せる。


「中央の予備隊を谷へ。槍を横に、馬の脚を狙ってください。魔術師団は火球ではなく、煙幕を。視界を奪えば騎兵は自滅いたします」


 ミレイユが顔をしかめる。

「しかし、中央の予備を動かせば、正面が――」


「正面は持ちます。帝国軍は今、包囲を完成させることに集中しています。こちらが恐慌を起こさなければ、焦って突っ込んでは来ません」


 言い切った瞬間、遠くで地響きがした。帝国の太鼓が、もう一段速く鳴る。包囲の輪が縮む。敵は「終わらせに来た」。

 指揮所の周囲にいる兵が、無意識に槍の柄を握り直す。誰もが分かっている。ここで崩れれば終わりだ。撤退はできない。背後には街道があり、その先に村がある。逃げれば、帝国の刃が民へ届く。

 リオンは喉の乾きを感じながらも、声を落ち着かせた。


「皆様、恐れずに。命令を守ってください。生き残るために動きます」

 その敬語混じりの丁寧な言葉が、逆に戦場の異様さを浮かび上がらせる。若いのに、彼だけが冷静すぎる。


 霧が、ふっと揺れた。


 風向きが変わったわけではない。音が変わったのだ。帝国の太鼓のテンポが乱れた。角笛が不協和に重なる。敵の隊列が揺らいだ時にだけ生まれる、微細なざわめき。

 ミレイユが眉をひそめる。


「……帝国側が、何かに反応しています」


「何か?」


「分かりません。ただ、包囲が一瞬止まりました」

 その時、偵察兵が指揮所へ飛び込んできた。顔は青く、泥にまみれ、目だけが異様に見開かれている。


「指揮官殿! 左、左の外側に……部隊がいます!」


「王国の援軍ですか」


「違います! 旗が……旗がありません!」


「旗が、ない?」

 リオンは地図を見た。左の外側――そこは崖と湿地に挟まれた死角だ。軍勢が現れる余地はない。たとえ小隊でも、あの地形を抜けてくれば足跡が残る。偵察の網にもかかるはずだ。


「数は」


「分かりません。……多すぎます。霧の中に、列が……列が終わりません」

 偵察兵の声が震える。迷信深い兵なら「亡霊」と言い出しかねない。だがリオンは迷信で戦場を動かさない。


「落ち着いてください。位置を指で示してください」

 偵察兵が地図に泥のついた指を落とす。そこは、ありえない位置だった。

 遠く、霧の向こうで何かが動いた。最初は木々の影かと思った。次に、霧が揺れているだけだと自分に言い聞かせた。だが、影は増え、揺れは規則を帯びる。


 ――行軍の規則。


 足音が聞こえる。ばらばらではない。驚くほど揃っている。人間の足音は、疲労も体格も癖もあるから、必ず乱れる。なのに、その足音は、まるで一本の巨大な獣が歩いてくるように、均一だった。


 霧が一瞬、薄くなる。

 そこにいたのは、無数の兵影だった。

 旗がない。紋章もない。鎧は王国式にも帝国式にも見えない。色も、統一されていない。だが陣形だけが異様に整っていた。横一列の間隔、前後の距離、歩調の一致――まるで訓練の極致だ。


 しかも、声がない。雄叫びも、号令も、笑いも。聞こえるのは足音だけ。

 指揮所の兵たちが息を呑む。


「……味方、でしょうか」

 誰かが呟いたが、声は自信を持てない。

 ミレイユが小さく首を振る。


「王国軍の部隊なら、旗を掲げます。合図も出します。あれは……」


「ええ。違いますね」

 リオンは胸の奥が冷えるのを感じた。魔法の気配が、薄い。いや、薄いのではない。形が違う。彼が知る魔法の流れ方ではない。かつて師が教えてくれた「魔法回路」の理屈とも合わない。


 戦場にいてはならない存在。


だが、いる。

 そしてその存在は、帝国軍を動揺させている。帝国の包囲が止まり、正面の重歩兵が足を止めた。敵の指揮官が状況を掴めず、命令が遅れている。


 リオンは一歩前に出た。兵の視線が集まる。彼が取り乱せば、全軍が崩れる。


「皆さん、動かないでください。敵味方の判断は保留といたします」

 敬語の命令は、奇妙なほど静かに響いた。


「弓兵は矢をつがえ、しかし放たない。槍兵は隊形を維持。魔術師団は詠唱を止めず、ただし発動は私の号令まで待機。――分かりましたね」


「はっ!」

 霧の向こうの軍勢が、進路を揃える。

 先頭の兵が一歩踏み出し、次の列が同時に踏み出し、後ろの列も同じ歩幅で踏み出す。地面が震える。足音が揃いすぎていて、逆に不気味だ。


 王国軍も帝国軍も、ほんの一瞬、動きを止めた。戦場が、息を潜めるように静まる。刃と魔法の世界に、ありえない沈黙が落ちた。

 リオンは唾を飲み込み、霧の向こうを凝視した。


 先頭の影が、剣を抜く音すら立てずに距離を詰める。盾の縁が霧を切り、無言の列が同じ角度で傾く。その動きは『攻撃』というより、巨大な壁が滑ってくるようだった。

 味方なら合図を寄こすはずだ。敵なら叫びが上がるはずだ。どちらもない。――それなのに、戦場の空気だけが「ここから変わる」と告げている。


 旗なき軍勢が、戦場へ向けて――

 正体不明の軍勢が、一斉に進軍を開始した。

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