第7話:マクジ

 ザドーはマクジの背のそばに座り、肩に触れて、ささやくように優しく名前を呼んだ。


「マクジ」


「うん」


 返事をした。生きている。仰向けにすると、左瞼は岩を貼り付けたように赤紫色に腫れている。胸のあたりで組んでいた手からは、爪が剥がされていた。ザドーのこめかみが、かっと熱くなった。


「誰にやられた?」


「女房は何もしておりません。シミ抜きで稼いだ金です」


 きつく尖った声に反応するように、マクジがか細く神経質に繰り返す。体を走る戦慄が喉を絞って、何も返してやることができない。彼のうわごとは、飛び出た喉ぼとけが上下するたびにカサカサに切れた唇のあいだから漏れ続ける。


「ごめんね」


 この汚れた手で、触れていい人間じゃない。病気になって、これだけ弱っている上に拷問を受けても、上澄みみたいな薄い意識で女房をかばおうとする。あまりに綺麗だ。井戸のあたりで洗濯していた女たちなんかよりもずっと、まぶしくて手が届かない。


 物を盗んで、嘘を山ほどついて、自分が好きになったからといってマクジを騙して、一緒に暮らし続けた。こんな女のことなんか、さっさと戒民局に突きだしてしまえば良かったんだよ。


「ごめんね。マクジ、ごめんね」


 突っ伏して、額を板敷きにぶつけた。擦ると痛い。冷たい。だからなんだっていうんだ。痛い思いをしたところで、自分が綺麗になれるわけでもないのに。


「ザドー、ごめんな」


 不意に頭を撫でられ、はっと顔を上げる。ゴツゴツしたやすりみたいな手が、ザドーの目元を拭おうとして躊躇する。ひび割れた指は迷うように頬の表面に触れて、水分をもらい受けようとする。


「こんなこと、しなくっていい」


 そう言いながらも、手を払いのけることができない。マクジはうつろな目でザドーを捉え、不自然に揺れようとする眼球を制しながら、何か意味の分からない言葉を喋っている。端々に、「ザドー」と名前が挟まる。こちらに呼びかけている。何かを伝えようとしている。


「何?」


 思わず、マクジの手を握った。聞いたことのない音は、祈りの文句のようにも聞こえる。この人は、生きようとしている。これは逃走の作戦を考えているんじゃないだろうか。そうだ、ここから逃げ出して、どこかに隠れよう。そう思い至ったとき、はっきりした声でマクジが言った。


「ザドー、もう行く」


「うん、ねえ、立てる?」


 涙を拭いた。しっかりしなくちゃいけない。外を目指して、マクジを運ぶ方法があるはずだ。壁も床も壊せるのだから、目くらましには事欠かない。泥棒だと知れたら、今までの生活は全部が嘘でできていたと分かったら、この人は自分を捨てるだろう。それでもいい。


「そうじゃない」


 マクジが、ザドーの手をしっかりと振り払った。長い睫毛の目を見開いて、真剣な気迫をまとった声は、命令じみた怒りを帯びていた。


「行く。あれは……ちょっとの洗濯物が、呼んでいるわけ」


 ああ、配達の話か。この人は、幻覚を見ている。こんなときでさえ、勤めを果たそうとしている。真面目で、どこまでも一途な人だ。


 そのまま長い息を吐き、胸が動かなくなったマクジを見つめる。酷い臭いの大部屋に、むしろ一枚もない床敷きは相変わらず固い。殴られた左目の、べったりと鮮やかな赤に染まったマクジの白目が、ザドーに終わりを告げていた。


 あれから何十年もの時間の中で、ザドーは盗みをやめなかった。大陸を点々としては、自分の手に重く巻き付く記憶を振り払うように、銀や硬貨を貧民街にばらまいた。


 そして集まる人の群れの中に、気付けばマクジに似た長い睫毛を探した。妻が泥棒だと知ったら、彼はどうしていたか、何と言ったかを、関係のない人々の影にでも聞いてみたくてたまらなかった。


 怒られるに決まってる。突き放されて当然だ。でもそれは、ほかならぬマクジの手で、終わらせてほしかった。いつか一緒に行こうと約束したロジャ島行きの船に乗るのがこんなに遅れたのは、彼の故郷の土を踏むのが憚られたからだ。


 でも、老いた体が朽ちるなら、そこがいい。ずっと義賊の真似事をしたのだから、死に場所を選ぶくらいのことは許してほしい。



『ちょっとの洗濯物が、呼んでいるわけ』



 ザドーは空っぽの缶詰を片付けもせずに、閉め切った東屋じみた家の雨戸を開けて、壁に寄りかかった。虫の声は、いっそう騒がしく聞こえる。月明かりが射し込んで、庭一面に敷き詰めたサンゴのカケラがぼうっと浮き上がっている。


 マクジが拾って、洗ってくれた白い布も、全てを透かして見るような白だった。ザドーは瞼を閉じた。眺めていたいが、それは鮮烈で甘く、痛い記憶を呼び起こす。それは触れられそうなほど近く感じられるのに、何も変えることができない。涼しい夜風が、優しく髪を撫でる。まるであの人みたいだ。


「せんせぇ」


 目を開けると、配達人が軒先に立っていた。あたりはもうすっかり明るくなっている。


「あっ、良かった。死んでるかと思ったよぉ」


 自分がいつ寝たのか、記憶がない。座っていたはずなのに、いつの間にか横になっていた。白いサンゴを踏む音だって、耳に入ってこなかった。ナナビの一言に掻き乱され、疲れていたにしても、こんなに深く寝たのはいつぶりだろうか。


「やっぱり雨戸は開けた方がいいよ、ね? 涼しくてよく寝れるからさ……」


 人懐っこそうな日焼け顔に向かって、ザドーは切り出した。


「『ちょっとの洗い物が呼んでいるわけ』って、どういう意味だ?」


「えっ、誰に言われたの? なんで?」


「誰でもいいだろ? どういう意味なんだ?」


 配達人は悩むように唸りながら木箱を抱え、開いた雨戸から荷物を押し込んだ。


「いいよ、気にしないで。放っておいたらいい。あんまり良い言葉じゃないし」


「お前、親切なのが売りなんじゃなかったのか? いくら欲しい? 言えったら」


「いくらって言えばさ! 勝手口のところにバナナの葉っぱに包みが置いてあったよ。心配になって開けたら、きんきらきんの紐が出てきてさ……」


 急に元気になって膝を打ち、配達人が駆けていった。足音は家を回り込み、勝手口の方へ向かっていく。ザドーは裸足で土間に降り、扉を開けた。


「逃げるな。意味を言え」


 ちょこんと置かれたバナナの葉の包みを指差すと、配達人はザドーの肩に手を置いて目を細め、うんうんと頷いた。


「気にしちゃダメだよ、先生。言われたことは、忘れなさい。ね?」


 もやもやと体の内側がかゆくなるような、まるで子どもを諭す言い方だ。彼は石垣の向こうに足を向けた。


「待てったら!」


 砕いたサンゴが足裏を刺すのも構わず、ザドーは配達人に憑りつくように追いかける。三年のあいだ、ほとんど外出しなかったザドーの足腰を置いて、迷路のように張り巡らされた石垣の中に、配達人は消えていった。思わず舌打ちするが、ロジャ島の朝日は相変わらず楽しそうに輝いている。


 隣人の家を訪ねてみるしかない。わざわざ話したこともないし、誰が住んでいるのかもよく知らない。そもそも、言葉が通じるのかさえ怪しい。大陸の言葉を知っているかどうかなど、人による。若者がいればいいが、爺さんの口から出てくる呪文はてんで分からない。


 緑色の丸い葉が作る濃い影に紛れて、子どもがいた。丈の足りない着物の裾から、裸足の足首が見えている。太陽に透けて赤い髪が、じっと石垣越しの家の様子を伺っている。


「ナナビ!」


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2026年1月20日 12:00

輪断ちの開錠師 谷 亜里砂 @Arisa_Tani

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