第5話:元気な子
「お産の手伝いに行ってくるね。元気な子が生まれてくると思うよ」
そっと手に触れると、寝ていたマクジが薄目を開けた。黄色くなった白目だって、治してみせる。キセル筒を持ち、下駄を履いて家を出た。
暗い夜に吹き付ける風は、鋭く頬に刺さって、肉を削ぎ落としていく。泥棒仲間と合流し、下駄から草わらじに履き替えた。油の浮いたドブ川を、レンガの要塞へ向けて、小舟が手漕ぎで進んで行く。
表は門があって外壁が続き、警備と猛犬に守られている。ドブの運河が流れる裏手には、平たいレンガを積み上げた壁がそびえたち、見上げると首が痛くなるほどだ。はるか上に、鉄格子のついた高窓がある。
何艘もの小舟の上の仲間たちが、ザドーをちらりと見やる。
「絶壁だぜ」
仲間の言葉にザドーはうなずき、竹の梯子に足をかけた。荒縄で結んで固定した、しなる足場だ。犬が通るほどの狭い通路で、力自慢の二人が踏ん張り、梯子を支える。
「いけ、ザドー」
分かっている。下は見ない。高窓を目指して、音聴棒をくわえ、竹が手の汗で滑るのを感じながら、それでも握りしめ、登り続けた。角度はほぼ垂直、後ろはドブ川だ。揺れる。怖い。でも全部、開けてやる。
しかし鉄格子まで辿り着いてみると、ネジ穴がない。
「生えてる。鉄がレンガから……」
足場の竹がギリギリと音を立てている。継ぎ目すらない。こんな格子は見たことがない。どうやって外せばいい。
「ちくしょう」
ザドーは鉄格子を握りしめた。なんで、こんなものを。なんで、ここまでする。どうすればいい。諦めるしかないのか。それならドブ川に落ちて死んだ方がマシだ。マクジを助けてあげられないなら、何の意味もない。
不意に、鮮明な絵がザドーの脳内に浮かんだ。それは刺すように冷たい意地悪な鉄をつたって、レンガの中に達している。そこでは他の金属、なにか鉛のようなものが絡み合っている。
「バラバラになれ」
金色の光がちらりと輝く。鉄格子がぬるりと抜け、落ちていった。危うく倒れそうになりながら、ザドーは窓枠に爪を立ててしがみつく。下を見ると、控えていた仲間が布を使って、鉄格子を受け止めたらしい。息を吸い、窓の錠を開け、するりと中へ入り込んだ。
巨大な吹き抜けに、幾何学模様を描いて交差する大人の胴ほどの太さの梁が何本も渡っている。眼下には人を殺すための商品が並び、銃を持った男たちが番をしていた。
梁の向こうに、分厚い扉で閉ざされ、鳥の巣のようにも見える監視小屋がある。軍艦代はきっと、あの中にある。
梁の真下で、手首ほどの鎖に繋がれたシャンデリアが、宝石をぶらさげたように炎を揺らめかせている。シューッと音を立てて、管からガスを引き込んでいる。直視できないほど明るい。
「まるで太陽だ」
身を乗り出し、鎖に触れる。きらりと光って開錠すると、シャンデリアは重力を一手に引き受けた。ガス管が千切れ、光を失った太陽が地に落ち、ガラスが砕けて悲鳴をあげる。地響きじみた轟音のおかげか、壁際をぼんやりと照らしていたガス灯の一部も消えた。
「シャンデリアが落ちたぞ」
「ガス漏れだ!」
ザドーはまた高窓に走り、三つの窓を開け放ちながら、鉄格子をずるりと外しては、はるか下の仲間に投げていった。目の良い仲間が、言葉を失っている。じろりと睨むと、今度はあの鳥の巣へと急いだ。
梁から飛び降りるように侵入し、即座に扉に飛び付く。内側から施錠されていることを確認する。息が上がっている。
「落ち着け、落ち着け。大丈夫、できる」
鍵を開け、おそるおそる扉から外へ手を伸ばす。螺旋階段の支柱、ネジ、あらゆる絡まったものを開錠する。金色の光が他の人間にも見えていたとしたら、かえって目くらましになっただろう。
支える物を失った階段が、女の叫び声に似た声を出す。横倒しになる振動が聞こえる前に、急いで扉を閉め、また施錠する。額に金属の扉がひんやりと触れる。
「これで警備の奴らは来ない。いや、まだだ、まだ」
この一部始終を見ながら押し黙っていたのは、どんな大男よりも大きな金庫だった。下をうろついている、銃を持った男たちがまた頭によぎる。
高窓の仲間が見つかるか、この部屋に上ってくるような根性のある奴がいたら、終わりだ。喉が塞がる感じがする。いつの間にか唇を噛んでいたのか、血の味がする。
ああ、そうだ。マクジの腹も、きっとこんなに痛むんだ。これよりも、もっと痛むんだ。金庫にいざり寄り、べったりと両手をつける。
「やれ、ザドー、開けてしまえ……」
複雑怪奇な中身がありありと見える。手にとれるように鮮明だ。どれを開錠すればいいか分からない。だからいっぺんに、全て断ち切った。
観音開きの中身のありったけを、梁をつたってやってきた仲間と一緒になって袋に詰める。黒く煤汚れを付けた麻縄で高窓へ、高窓から滑車で小舟へと運ぶ。
重くなった小舟は、何度も陸と裏手を行き来した。ザドーが乗ると、不安定に揺れながら、それでも前へと進む。油が浮いた腐ったドブに浮かんで、真っ黒になっても気にも留めない。
「ザドー、お前は神様だ。軍艦だって買えるんじゃねえのか」
仲間たちが、興奮を隠せない血走った目でささやく。
「軍艦なんか、何に使うんだよ。だいたい、袋が足りなくて全部は持ってこられなかった」
「欲深いな、十分だろ」
「やめろって。ザドーはな、旦那を治してやりたいだけなんだよ」
「えっ、そうなのか? 泣けるねぇ……」
なぜ知っているのか、聞く気すら起きなかった。とにかく、金庫には銀がたくさんあった。懐にも、いくつかねじこんでおいたぶんがある。これを少しずつ換金して、まずマクジを外国人の医者に診てもらおう。治療の段取りは、あっという間につくはずだ。
グラグラと、小舟が揺れる。凍えるほど寒いのは、真冬のせいだけではないだろう。梁の上から見た筒のような銃が、まだ頭の中でちらついている。でも、やり遂げた。
「着いた。降りるぞ」
足が、しっかりして確かな陸の土を踏む。山の向こうの空が、白み始めていた。今日から、きっと町中の警備が厳しくなる。いつもは自堕落な戒民局の見回りもさすがに増えて、仕事がしづらくなるだろう。
マクジはまだ寝ているだろう。なにも知らずに、ゆっくり夢でも見ていてくれたら嬉しい。外国人の医師に会って、あのくだらない腹の中の石を蹴飛ばしてもらうんだ。太陽が昇り、あたりが明るく照らされていく。坂を上っていくと、体がぽかぽかと暖かくなる。
道の真ん中に、外れて割れかけた戸が一枚落ちている。ザドーとマクジの家の戸だった。
「なんだこれ」
二人の家は、長屋の一つにも見える粗末な家だ。その玄関が破られて、中からは物音ひとつしない。外が明るいから、中が暗くてよく見えない。ザドーはためらいなく、家に入っていった。
まだ寝ているかもしれない。だから足音は立てないままでいた。それでも自分の胸で跳ねる心臓を安心させたくて、思わず名前を呼んだ。
「マクジ?」
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