第4話:大物が欲しい
夜中、ドンドンドンと戸が鳴る。草むらの虫たちが一瞬で黙りこくる。開けると、そこには白く冷え込んだ息を切らして、男が立っている。
「奥様が産気づいて……呼びに来ました。早く来てください……」
ザドーは産婆の手伝いとして、呼びに来た男と一緒になって大急ぎで駆けていく。清潔な布に仕込んだ音聴棒を携えて、しばらく行くと走るのをやめる。
呼んでいるのは陣痛を迎えた妊婦でもなければ、赤子でもない。固くて冷たい、黒塗りの金庫だ。煮ても焼いても開かないそれは、ザドーが触れるとたちまち降参して大口を開ける。
昼になると、マクジがシミ抜きした着物を持って家を出る。まるで高く支払ってもらったかのように、嬉しそうに笑ってみせる。
「あんたの腕がいいんだね。ねえ、また頼まれちゃった。いつでもいいから、これもお願いってさ」
暮らしていける。それも、好いた人と一緒に。なにもかもを綺麗にしようなんていう方が、無理な話だったのかもしれない。針子の仕事をしようにも、裁縫が出来ない。針と糸を持つのは分かるが、縫い方なんて考えたこともない。港で働こうにも、この細腕では重い荷物が持てない。下働きも酒屋も、共用井戸に期待を込めて立ち寄っても、素性の知れない女と話したがる人などいない。
「ワケありなんだろうよ」
「上品すぎるよねぇ」
人間たちは見る目がない。人の物を盗って生きている女に品格など、あるわけがないというのに。高尚に映るのは単に、色の違いが珍しいからだろう。
マクジは手を休めるということがない。金はあるのに、働くことが好きみたいだ。約束した期日を守って、シミのない素晴らしい物を仕上げることが生きがいなのだろう。
「そんなに働かなくてもいいのに」
冬になると、水はマクジの手を真っ赤にするほど冷たくなった。ザドーは懐に彼の手を突っ込んで、暖めようとした。
「わあ、氷みたい。溶けたりしないでしょうね?」
「こら、こんなガサガサの枯れ木じみたものなんか、離しなさい。着物が傷付いてしまうから、ほら。こんなのなんでもないんだから」
岩みたいな手は、布を羽毛立たせてしまう。だから彼は、薄いさらしを巻いて商品に触れずに仕事をする。本当に平気そうに笑った。まともな仕事に就けない自分には分からないが、重い物を軽々と運ぶ人たちのように、マクジも冷たい水が平気なのだろうか。
横長の木製火鉢には、煙が出ず、臭いもしない高価な炭が燃えている。ザドーは張り合って言った。
「やだよう。あたしが太陽みたいになって、暖めてやるんだ。ねえ、あったかい?」
顔を上げて笑いかけると、マクジはぽつりと言葉を漏らした。
「いつか、ロジャ島に行かないか?」
「ロジャ島?」
「俺の生まれた島なんだ」
マクジが、伺うようにじっとこちらを見ていた。ロジャ島は、甘い砂糖がたくさんとれるだけの、貧しくて暑い土地だ。島民は入れ墨があるらしいし、言葉も違う。彼は、このあたりの出身ではなかったのか。幼少期のことを聞くと、歯切れが悪くなるとは思っていた。
「黙っていて、ごめん。野蛮人だと思われたくなくて、言えなくて。それなのに、言えないことがつらくて、俺は……」
「行こうよ」
なんてふざけた人なんだろうか。こんなことくらいで瞳を揺らして、涙ぐんでいる。生まれた場所がどこか、そんな簡単なことがずっと言えずに、秘密を胸の内で腐らせていたのか。
最近、食事があまり喉を通らない様子なのも、それが原因だろう。愛情を見くびられたことには腹が立つが、自分にだって言えないことはある。かえって明るく聞いてやろうと、ザドーは微笑んだ。
「南の島から、どうやってここに来たの?」
言葉に詰まるマクジに、「なんでも話してよ。ずっと一緒でしょ」と一押しした。
彼はロジャ島で生まれ育ったが、借金のカタに大陸に売られることになったという。ところが船が難破して、運良く生き残ったものの、今度は拾ってくれた家の夫婦に売られて、港町ナガザにやってきた。しかし仕えていた主人が死んで、どこにも行けないまま、洗濯女に混じって働くしかなかった。
「ザドーは俺の神様みたいなものだ」
懐に入れた岩のような手は、いつの間にか熱くなっていた。
「神様なんかじゃないよ」
「いや、神様だ。ザドーが持ってきた注文は高値になるし、ほら、この炭だって爆ぜずに、大人しく燃えてる」
呑気で真剣な台詞、瞳の奥の説得するような必死さに、思わず笑いがこぼれる。
「じゃあ、神様でいいや」
蔵の錠でも槍のついた扉でも、なんでも開けてやる。金持ちから少しもらったって、やつらは痛くも痒くもない。後ろ暗いなんてことは、もう思わない。昼があれば、夜だってある。幸せを独り占めしている方が、ずっとどうかしている。このささやかな日常を、守り切ってみせる。
マクジが、飲み込んだ食べ物を吐き出すようになったのは、それからすぐのことだった。高級な肉も、米も、野菜も、食べてしばらくするともどしてしまう。触ってみると、腹の中にごりごりと固いものがある。
「石でも食べたわけ? 寝てなよ」
わざと明るく、胸にかかるモヤを見ないようにしながら言った。こんなこと、なんでもない。買ってきた薬が効かないなら、町医者が役に立たないなら、外国から来た立派な医師のところに連れていって、治してもらえばいい。
雪を落としそうな、低く暗い雲が垂れこめていた。ザドーは買い物に行くと言って家を飛び出し、井戸前の店に飛び込んだ。扉が勢いよく音を立て、火鉢に当たっていた泥棒仲間が「おお」と声を出した。
「大物を狙うよ」
後ろ手で戸を閉めるなり宣言すると、ぽかんとしている。奥からも仲間が集まってきた。
「雪で足跡が残るだろうが。もう少し待とうぜ。夜回りだっているし……」
「嫌だ。すぐなんだ。やるなら取り分を多めにやるよ。やる気のある奴は誰?」
何も諦めたりしない。男たちの顔をぎっと睨む。一人が、諦めたように言った。
「どこを狙う?」
「レンガの要塞。武器の買い付け金が欲しい」
ある者は乾いた笑いを浮かべ、またある者は湯呑をひっくり返し、ため息と身震いが部屋を満たす。
「……武器商人の? ダメだ、命がいくつあっても足りねえ」
「せめて阿片窟にしようぜ。どうやっても、もうここに住めなくなっちまうけど……」
怒鳴りつけてやりたい。泣いてすがってもいい。でも、あのレンガの建物に眠っている富は、自分一人では運べない。ザドーは胸を張って、余裕の表情を作った。
「これで稼いで、みんな好きに暮らせばいいだろ? 百年分の金が、一晩で手に入るんだ。分けたって分けきれないくらいだよ」
「うん、あるだろうな」
低い声が、ザドーの背後から響いた。
「『軍艦代を返せ』って、警備兵に掴みかかっている男たちを見たぜ。それからも夜通し見回りしてる。あるのは間違いない」
武器どころじゃなく、軍艦さえ買えるほどの金がある。マクジを助けられる。ザドーの指に、彼の腹の固い異物の感覚が蘇る。あれを、とってやれる。指先が震えた。やれる。
「ただな、ザドー、お前どうやって入るつもりなんだ」
「窓も扉も金庫も、あたしが全部、開けてやるよ。建物の中に混乱をばらまいて、あんたたちを引き入れてやる」
こぶしを作った。声は震えたりしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます