第3話:清廉潔白になる方法

 ザドーは知っていた。自分がいなければ暮らしていくことさえできない仲間たちの中にも、賢い人物とそうでない者がいる。


 翌日、ザドーが居室で起きると昼過ぎだった。キセル筒がない。途端に、尊敬と畏怖まじりの目で音聴棒を見ていた、昨晩の新入りが頭によぎって、冷笑を誘う。


「また、馬鹿が出たなあ……」


 キセル筒は他にもあるが、新調してもいい。音聴棒の方は愛用していたことになっているから、新しく手に入れよう。前の物は先端に少し傷が入っていたから、今度はもっと上等なやつがいい。また盗られるだろうけど、人より余計に持っていれば自然とそうなるものだ。だから開錠の能力のことは、誰にも話してはいけない。


 藤色の絹の着物を身に付け、誰にあげるわけでもない菓子折りを風呂敷に包む。良家の若奥様として一人で町を歩くには、言い訳が必要だ。仲間と話すために外に出るだけで、まるで大仕事だ。


 店のあたりまでやってくると、セミの鳴き声をかき消すように、元気に跳ねる声が響いていた。


「うちの飲んだくれの亭主、昨日はひっぱたいてやろうかと思って……」


 店の前の井戸の周りでは、たすきをかけた女たちがおしゃべりに興じている。ザドーは空を見上げた。晴れているが、ぽつぽつと小雨が降っている。店はすぐそこなのに、桃色の花で頭を飾り立てた木の下で足を止める。


 洗濯女の一人が言った。


「ねえ、雨だよ」


「構いやしないよ、洗濯物に泥さえつかなけりゃ……」


 店と、井戸が見える。ザドーは時々、天を仰ぐふりをする。日なたでまぶしく働く女たちの声を聞きながら、菓子折りの風呂敷に、まだらに散らばる雨の点を撫でる。


 シミひとつない手だ。どこも痛くない。血も出ない。


「あたしなら、これだって開けられるんだ」


 風呂敷の固い団子になった結び目が、どう組み合っているのか分かる。頭の中で透けて見えるようだ。店に行って、やることを考える。愛用の音聴棒を盗られてがっかりした顔、それから少し怒りを混ぜて、あんな新入りを仲間にした誰かを責めよう。


「あの……」


 低い声にはっとして顔を上げると、そこには長い睫毛を何度も瞬きさせた男が立っていた。几帳面に畳んだ白い布を手に持って、差し出している。金庫の中に入っていた、あの透けた布だ。


「これ、たぶんあなたのものですよね」


 そうでもあるし、元々は違う。自分の物だと言えば、どうなるか。違うと言えば、どうなるか。こいつは何を知っていて、なぜこんなことを尋ねているのか。親切そうな顔の向こうに、何を隠しているのか。


「今朝早く、キセル筒を持って走っていた男が落としていって……追いかけたんですが間に合わなくて。でもあのキセル筒はいつも、あなたが持っていたものだから、きっとこれも……」


 洗濯女たちが、チラチラとこちらを見ている。受け取った布は真っ白で、土の汚れひとつない。


「……洗ってくれたの?」


「ああ、薄いからすぐ乾きました。すみません、勝手なことをして。じゃあ、俺は仕事に戻ります」


 割れた爪、薄い黄色のタコができた親指だった。彼はお辞儀して、小雨を弾きながら、洗濯女たちの中に飛び込んでいった。男が洗濯なんて、有り得るのか。気付かなかった。洗濯は女の仕事じゃないのか。女たちが、かがみこんで仕事をする彼を囲んで、口々に話しかけている。


 夏の太陽は男も、女も照らしていた。石畳は井戸水に濡れて、乾いているときにはない煌めきを放っている。木陰のザドーが身に付けている絹に、風呂敷に、帯に、あんな清々しい風は吹かない。この手だって、滑らかなだけ。


 小雨が止んだか、晴れたか、分からなくなった。店の扉を開けると、仲間が息を呑んだ。


「なんだ、どうした。お前、泣いてるじゃねえか」


「泣いてねえ、うるさい」


 見たものをそのまま言うのは野暮だ。そんなふうに、全部を口に出すものじゃない。飾りの向こうに何が潜んでいるか、知りもしないし想像もできないのに、余計なことを並べ立てるから物事の芯がますます隠れて、着ぶくれするあまり、痛みも分からなくなる。


 色々言ったが、結局、音聴棒を盗られたことで落ち込んだのだということになった。


「もうそういうことでいい。お前らには分からない!」


 どんな扉も、錠も、開けることができる。それは紙を破ることと同じくらい、簡単だ。浮浪児だった頃から、使い捨てにされないための方法を考え続け、運良く開錠の能力を手にした。


 自分が何でも開けられると知ったとき、これで一生食べていける、誰にもバカにされずに、大事にされて生きていけると思った。涙が出るほど嬉しかった。


 開錠を押し付けてきた、あの訳の分からない女にだって、どれだけ感謝したか知れない。今だってそうだ。開錠を誰かにやるつもりはないし、泥棒でいること以外に道がない。


 この能力がなかったらと思うと、背筋が凍って寒くなる。猫に食われるわけでもなく、道端で死んでいるネズミの腐臭が鼻をつく。それは珍しい話でもなんでもない。



 たくましく生まれたかった。物がないことを恐れず、あるものでなんとかして、周りと違うことに感傷的にならず、夜はぐっすり眠り、朝に目が覚め、太陽の下で計算のない笑顔を浮かべ、他人と話し、楽しかったという気持ちだけを残して、ほどよく疲れて眠りにつく。


「ねえ、あたしと逃げようよ」


 マクジは白い布を手渡してきたときと同様、長い睫毛を瞬きさせた。


 雲は平たくなり、流れるのも早くなった。秋の風は乾いているのに、ザドーの頬は涙で濡れてばかりだ。


「嫌になっちゃった。生き直したい。ここじゃない、どこか別の場所で」


「苦労するよ、俺といると」


 ごつごつした指が、ザドーの目元を拭った。


 泥棒の話も、開錠の能力も、真面目で一途なマクジにはとても言えなかった。もう窃盗はしないで、働いて暮らしたいと願った。しかし、物を盗む以外に、家事も労働もしてこなかった手だ。井戸の周りで生きる女たちのようにはなれなくても、その隅でいいから、自分が立てる場所を探そう。


 急な坂の途中にある、こぢんまりとした家を借りて、二人で暮らすことになった。迷路のような路地にあり、一見すると長屋に見えるが、薄い壁で隔てられている。


「こんな家で、ごめんな。着物だって、もっと良い物を……」


 謝られても、ザドーの心は晴れやかだった。ここでやり直す。隠し事のない生活を、そばにいてくれる人と一緒に送る。不安がないわけではない。マクジはザドーと暮らすために、人にあまり会わない仕事に変えた。坂の下の共同井戸から重い水を運ぶか、雨水を溜めて、シミ抜きをやるという。


 二日目の朝、マクジは坂の下まで出かけていった。昼まで寝ていたザドーが玄関を開けると、そこには見知った顔が三人、並んでいた。手には筒状に丸めた紙を握っている。ザドーは後ずさりした。


「やらないよ……もうやらない」


 まるで親切から忠告しているような声色で、泥棒仲間が言う。


「どうやって暮らしていくんだよ?」


「旦那がシミ抜きをやるんだよ。あたしだって働くし、問題ない」


 それがいくらの収入になり、何が買えるのか。いつかザドーが開けた金庫の中身と比べて、どれくらいの価値があるのか。働くにしたって、ザドーの身元を保証できる身持ちの確かな人間は、どこにいるのか。


「ザドー、お前は『普通』になりたいんだよな? こんなままごとをやってまで……」


 仲間の一人が、玄関の戸をガタガタいわせる。


「触るな」


 いっそ、開錠の能力をこいつに押し付けてやろうか。そうすれば、放っておいてもらえる。そうだ、そうしよう。ザドーは男の手首を握った。指が回らないほど太く、がっしりしていたが、負けずに力を込めた。


「旦那が怪我でもしたらどうするんだよ?」


「ならない」


 言い返しながら、マクジが倒れるところが脳裏によぎる。この力を失ったら、どうなるだろうか。働いたことのない、自分一人の稼ぎで彼を治してやれるだろうか。暮らしていくぶんの金だって、このままじゃ足りない。


「金はあった方が良いんだ。旦那に出どころを言いたくないなら、黙っていればいい。な?」


 三人の目が、ザドーに注がれる。


「お前が清廉潔白なんて、初めから無理なんだよ」

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