第2話:空っぽの缶詰
「もう遅いので、帰らなくちゃいけなくて……」
子どもはおずおずと言った。帰すわけがない。
「じゃあ、食事していきなさい」
とっさに口から出た言葉を自分の耳で聞きながら、名案だと思った。返事が投げかけられる前に、雨戸を閉めて月明かりを追い払い、錠をかけた。
真っ暗になった部屋に石油ランプを灯し、牛肉の缶詰を取り出した。子どもに背を向け、金属に指を這わせ『開錠』する。浮き出た金色の線に沿って、缶詰の上部がカパリと開いた。
子どもの名前は『ナナビ』といった。島では一般的だ。箸と缶詰を渡すと、正座したナナビは両手で受け取り、礼を言う。それからザドーの顔色を見て、「食べて良い」と許可を出されるまで待っていた。しかも食べている最中、一言も喋ろうとしない。
「お前、いくつなの?」
話しかけると、急いで咀嚼して缶詰を置き、正座した膝の上に両手をやって、ようやく「十一です」と答える。ロジャ島でも港町ナガザでも、こんな食事の仕方をする人間は見たことがない。
「食べながら話せばいいでしょう」
自分の缶詰に箸を突っ込みながらザドーが言うと、ウンウンとうなずいてはいるものの、やはり声が聞こえてくることはない。
「あの言葉の意味は?」
食べ切るまで待ってから聞いてみると、今度はとぼけた顔をしやがる。
「もう帰らなくちゃいけなくて……」
「言えったら。缶詰をやっただろうが」
それでもナナビは曖昧な笑みを浮かべたままだ。子どもに恩着せがましく食べ物をやって、利用しようとするなんて。自分も情けない婆さんになったものだ。
「ここで待ってて」
ザドーは雨戸に貼り付けた板を開錠して外し、あるものを出した。金のネックレスだ。かつて大陸の煌びやかな屋敷で盗んだものだが、いつか換金しようと思ってとっておいたものだ。爪のないナナビの手に押し付けると、困惑したような表情を浮かべている。
「分かるか? 金で出来てる。これをお前にやる。だから言葉の意味を言いな」
だめだった。ナナビは喋らない。ひたすらに、何のことか分からないと顔で表現している。石油ランプの灯りが、チラチラと部屋を照らしていた。だんだん頭痛がしてきたところで、配達人に聞けばいいと名案を思い付いた。
ザドーはナナビを勝手口から追い出した。部屋に戻ると、空っぽの缶詰が二つ、転がっている。
息こそ上がっていないが、まるで駆り立てられた犬の気分だった。忠実にこなそうとする気持ちだけで、自分が何を追うべきなのかも分からないまま走り出し、森の中で途方に暮れるような。
配達人はいつやってくるだろうか。明日の朝になっても来なければ、こちらから尋ねて行けばいい。途中で人がいればそいつでもいいが、配達人ほど大陸の言葉が通じないかもしれない。
肝心なのは、朝がいつ訪れるのかということだ。あの言葉の意味を知ることができるのは、この瞬間をいくつ積み重ねた先の未来なのか。
港町ナガザの公共の井戸の近くには、おしゃべりな若い女たちがいつも集まっていた。明るい朝の光を浴びて、彼女たちは群れをなして外国人の大きな服を洗いながら、どこの店の何が美味しいとか、誰の目が青いとか、そんな話ばかりしていた。たまに意地悪をされたと泣いて、水をかけあって喧嘩をして、それさえまぶしかった。
それが湿気で黒ずみ、破れた障子の外の光景だ。畳の上に目を戻すと、大男が紙の図面を叩く。
「ザドー」
壁のシミが、お前の現実はここだとささやく。一見するとただの店に見える二階建てに、ザドーは男たちと肩を並べて座っていた。下には店番もいて、縄や桶、ザルなんかを売って、ままごとをやっている。
「聞いてたか?」
だるまみたいな優しい目つきだ。ザドーはあかぎれひとつない指を一本立てて、地図を示した。
「あたしがここを開ける。あんたたちが中に入ったら、着いて行って、ここと、ここも開ける。ちゃんと聞いてるよ」
「さすがだ」
子どもの頃からつるんでいる男たちが、みんな笑った。頭の中には今夜の稼ぎで飲む酒のことでいっぱいなんだろう。ただ一人、新入りだけがいぶかしんで眉を顰める。
「でも、こんな女が一人であの厳重な錠やら扉やらを開けられるのかよ。どうやるんだ」
「ザドーは天才だ。開けられないものなんて、この世にねえや」
あそこの商館の扉も、外国から入ってきたばかりのごつい錠前も、ザドーが全部ひとりきりで音聴棒を使って、つたってくる手先の感覚だけを頼りに開けてやったんだと、男たちがもてはやす。
真っ白な横板をいくら重ねたって、煉瓦に金属の扉を貼り付けたって、ザドーには敵わない。
異人館の主は、避暑地にお出かけだ。警備に雇われている男は酒が好きで、使用人室で寝ているだろう。
湿った風が雲を押し流すと、星が正門の鉄柵をぬらりと照らした。ザドーはキセル入れの筒から、金属の棒を取り出して触れる素振りをする。本当は、こんな音聴棒は必要ない。それでもザドーは『開錠』を使うとき、それを握ってみせる。それは泥棒仲間から、力の存在を隠すためだった。
治安維持組織である戒民局に見咎められても、牢の鍵をこじ開けて逃げればいい。でも仲間の男たちは違う。もし触れるだけで何でも開けられるのだと知れたら、きっとただでは済まない。力を寄越せと言われ、何をされるか分からない。
冷たい南京錠に触れると、一瞬だけ金色に光った。内部の構造が拒絶し合って、弾け飛ぶ。蛇のように崩れ落ちる重い鎖を受け止め、そっと地面に置く。金色の光が万人に見えるものなのか、ザドーは知らない。試したこともない。
石畳を歩き、玄関の扉を開け放つ。追いついてきた男たちが、家の中に入っていく。新入りは目を丸くして、ザドーが下げている音聴棒をまるで宝物みたいに見た。仲間が小声で言う。
「先に書斎に行け」
綺麗な家だった。どこもかしこも分厚くて、地面がいくら揺れたところで平気そう。壁紙を剥がして売れば、それだけで何年も遊んで暮らせそうだ。いっそ全部を燃やしてやりたいと思う。
こんな豪邸を放っておいて、持ち主は良い度胸だ。見張っておかないからこうなるんだ。大事なものなら手元に置いて、離れずに、大切にしておかなきゃいけないのに。
誰もいない書斎には重厚な、黒い金庫が鎮座していた。箱型ではあるが、見たことのない光沢が艶めいている。最新式だろう。手を触れると、ひんやりとした金属の中で輪がいくつも絡まって、噛み合って、仲良く眠っている。
「何も知らないくせに」
面倒だから、ありったけの輪を断ち切ってやった。観音開きの金庫の中には、向こう側が透けて見えるほど薄い、滑らかな手触りの布があった。権利書や現金、貴金属に覆いかぶさっている白い布をとり、ザドーは使ってもいない真鍮の音聴棒を丁寧に拭きながら、仲間の男たちが運び屋よろしく現金を運んでいくのを、革張りの椅子に腰かけて横目で眺めた。
「すごいな、まるでお姫様だ」
嫌味な響きのまるでない、純粋な誉め言葉に聞こえた。
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