輪断ちの開錠師
谷 亜里砂
第一章:ザドー編
第1話:ちょっとの洗濯物が呼んでいるわけ
冬でも霜が降りず、雪もあられも見ることがない。海は溶けた宝石のように青く、太陽に恵まれたロジャ島にかつての大泥棒がやってきてから、もう三年が経った。
若い頃に死に別れた夫がこの島の出身だったからという理由で、この島を終の棲家にしようと、ザドーは三年前、はるばる海を渡った。
この島の家というのはまるで東屋同様で、ザドーが暮らしてきた大陸のそれとは全く趣が異なる。柱と床、屋根しかない造りで、玄関もへったくれもあったもんじゃない。風通しの良さが桁違いだ。
『ちょっとの洗濯物が、呼んでいるわけ』
夫が最期に遺したのは、妻であるザドーへの愛の言葉ではなく、洗濯物の心配だった。真面目で実直な彼らしくて、愛らしくて、笑えた。ここなら洗濯物もすぐ乾くだろう。
しかしザドーは四方八方に雨天用の板を持ってきて締め切った上、内側から錠やつっかえ棒で固定した。南洋の暖かい風を閉め出して、薄暗くした室内で過ごすことを選んだ。そうしなければ、どこから人が入ってくるか分からないからだ。
もみじのように小さな手をしていた頃から、ザドーは泥棒として生きてきた。赤い花で爪を染め、女たちに混じって井戸の周りで洗濯する彼を見かけた日も、一緒に住むようになっても、ずっと泥棒稼業がやめられなかった。
それなのに、亡き夫の影を求めて渡った島はこんなに明るく、暖かく、住民は島の外からやってきた人間を意味する『ワダリビト』とザドーを呼び、なぜか医者か学者だと思い込んで、容赦なく雨戸を叩く。
「せんせぇ、せんせー」
庭に撒いた、砕いた白いサンゴをじゃりじゃりと踏みしめて、勝手口の木戸がガタガタと音を立てる。合図もそこそこに、戸を開けようとしている。ザドーはため息をつき、体を起こして土間に降り、木戸を開けた。
「あっ、先生。お届け物です」
語尾が間延びした、ゆるい声だ。焦げた米のように日焼けした肌の配達人が、釘で固く閉じられた木箱を運び込む。
「先生、ちょっと雨戸は開けた方がいいんじゃないの」
「余計なお世話だ」
「水は足りてる? 俺、汲んでこようか?」
「いらない」
へらへら笑いやがって、とザドーは配達人を睨み上げた。ここに住んでもう三年、配達以外のおせっかいも焼きたがるこいつは、南の気質を代表したような人間なのだろう。
死んだ夫はもっと慎ましかった。ロジャ島で過ごしたのは、幼少期だけだと言っていたのを思い出す。
太陽に近くで焼かれ続けると、人はべたべたした熱気を帯びるようになるのだろうか。自分にはその兆しはないと思うが、こうして言葉を返すようになったということは、やはりロジャ島の湿気に浸食されているのだろうか。
「ほら。もう帰れ」
配達人に代金をやって追い払うと、ザドーは勝手口の木戸を隙間なく閉め、つっかえ棒をかませる。
「困ったことがあったら、いつでも言ってねぇ」
扉に反響する声に、ため息をつく。届いたばかりの木箱に、年の割に荒れていない手を添える。目の奥では、木箱に食い込んでしがみつく釘が、接合部にいくつもの輪を作っている姿が踊る。
「開錠」
金色の光がにじむ。木と金属がお互いを拒絶して、釘という釘が音もなくぴょんと飛び出す。
中の油紙を切り裂き、木くずに包まれた大陸の新聞や金文字の背表紙を取り出した。これでまた、しばらく時間を潰せる。
ザドーは座り込み、字が追えなくなるほど薄暗くなるまで、どこかのバカなコソ泥が捕まったとか、いつぞやに自白した強盗が死刑になったなどという話を読んだ。
石油ランプをつけ、頭を文字でいっぱいにする。夜が更けてきて、ホッホー、とフクロウが、ギギギと長く小刻みに、虫が鳴いていた。どれも、ザドーが生まれ育った港町ナガザでは聞いたことのない合唱だ。
それに混じって、庭の白いサンゴがサク、サクと控えめに、およそ二秒ごとに音を立てている。
暗いはずの外に、誰かいる。今日は明るい月がサンゴの白に反射して、さぞ足元がよく見えるだろう。ザドーはランプを消し、焼け残った火の臭いから離れ、闇に身を沈めた。目をかっと開き、暗さに慣れるのを待つ。そのあいだにも、足音は近付いてくる。
雨戸は内側から固定し、開かないように対策済みだ。一対のみの足音は、雨戸のすぐ向こうにいる。ずいぶん軽く、歩幅も狭い。子どもか、ずいぶん小柄な女だと分かる。
一枚ずつ、どの戸が開くか、わずかに押し、滑らせようと試している。律儀に、手前から順番に触っている。
斥候だろうか、とザドーは考えた。戒民局の連中が追ってきたのか、それとも泥棒仲間がこの場所を嗅ぎつけたのだろうか。
使い込まれた木綿の着物は、布擦れの音を立てない。ザドーは立ち上がり、足音を先取りするように動いた。雨戸の一枚に触れ、つっかえ棒をそっと外す。
罠とも知らず、小さな足音が板をそっと押す。わずかに戸が開いた。向こうからは、室内が見えないはずだ。月に目が眩んで、暗い場所を覗き込むには時間を要する。
しかしザドーの方からは、指がはっきりと見えた。子どもだ。
「おい」
低い声で唸ると同時に手首を掴み、雨戸を開け、板敷きの上にずるりと引きずり込んだ。子どもを月明かりが照らす。
この島の女たちは、子どもに至るまで、頭頂に結い上げた黒く長い髪を自慢にする。それなのにこの子は、肩ほどまでしか髪がない。毛は赤く、透けているようだ。明らかに、この島の人間ではない。
「誰に頼まれた」
粗末な着物越しにも分かるほど、子どもの筋肉は固く緊張していた。外にも意識をやるが、他に仲間がいるような気配はない。動物や虫がうるさくて、石垣の向こうに隠れている人間たちを守っているのかもしれない。
子どもが、ふーっと細く長く息を吐いた。がっちりと岩のように凝固していた体が、まるで散歩でもしているような柔らかさにほどけていく。汚い恰好は擬態で、どこかで訓練でもされた手練れか。そんな話は聞いたことがないが、有り得ない話ではないだろう。
得体の知れないそいつはザドーに顔を向けて、眉根を寄せ、困ったように言った。
「道に迷って……」
「嘘を付くな。どこの戸が開くか確かめながら、向こうの方から来ただろうが」
やはり子どもは子どもだ。瞳がわずかに揺れた。しかし、すぐにまた演技に戻る。
「本当に、道に迷っただけ。ごめんなさい」
「誰に頼まれた?」
すごんでみたが、子どもは目を逸らさない。既に眼振も止まった。自分は無害だとでも言いたいように、パチパチと、瞬きだけを繰り返す。
都合が悪いはずなのに、崩れない。恐ろしくてたまらないはずなのに、顔色が全く変わらない。子どもとはいえ、相手がこの胆力の持ち主では、殴ったところで本当のことは言わないだろう。
そういえば瞳の色も、少し赤みがかっている。大陸からやってきた人間なのだろうが、この短いやりとりでは言葉が不自然かどうかさえ分からない。しかし長い睫毛は、まるでこの土地の人間のようにも見える。
死に別れた夫の顔が、ちらついた。あの人も、こんな目をしていた。
疑えば疑うほど、油よりも重い何かが体中にまとわりついて、座り込みたくなる。もう、潮時なのかもしれない。ザドーはふっと笑って、子どもから手を離した。
盗んでは逃げ続け、死に場所として最後にロジャ島を選んだ。今さら戒民局が来たって、泥棒仲間に見つかったって、何が怖いもんか。
盗んでは逃げ続け、死に場所として最後にロジャ島を選んだ。今さら戒民局が来たって、泥棒仲間に見つかったって、何が怖いもんか。
視線を落とすと、子どもの手が映った。ほとんど爪がない。見られていると気付いたのか、拳を握って手を隠した。ザドーは長いため息をついて、言った。
「もう行きな。もういい」
子どもは、途端に視線を揺らめかせて下を向き、月明かりの射す雨戸の方へ体を向けた。
「ちょっとの洗濯物が呼んでいるわけ」
月も、虫も、あまりに賑やかな夜だった。そこへ紛れ込んだ子どもの一言を、ザドーは聞き逃さなかった。
「なんだって?」
去ろうとする子どもの首根っこを掴み、再び室内に引き戻す。
「お前、今、何て言った?」
こいつの平気な顔は、やはり演技だ。また瞬きをしている子どもを前に、ザドーの心臓が跳ねる。喉が締まる。涙が出てくる。それでも叫んで聞かずにいられない。
「何て言ったんだよ、今!」
「何も……」
『ちょっとの洗濯物が、呼んでいるわけ』
ロジャ島に生まれた夫が、最期に遺した言葉がそれだった。ザドーはそれを、何十年もずっと、仕事のうわごとだと思い込んできた。ちがう。別の意味がある。
三年もこの島にいて、なぜ気付かなかったのか。ここでは独自の言語が交わされ、大陸の言葉と結びついて独特の表現をとることも多い。
「お前、どういう意味なのか……それがどういう意味なのか、言え、どういう意味だ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます