02. 10億円の契約

 営業職に定休日はない。営業日は、業務。時間外は、訪問予約アポイントメントに接待。休日は、体調管理に自己啓発。インターネットがこれほどまでに普及した現代だからこそ、「対面の価値」「人間の温度」という抽象的なものに価値観を見出す顧客は多く、顔出しの回数と契約数は比例する傾向にあった。

 それでも、この契約が取れれば、今週末は婚約者とお泊りデートする時間が取れるはずだ。

 金曜日の午後2時。

 俺、霧崎唯人きりさきゆいとは、明るい展望を抱いてハンドルを握っていた。


 今日の取引先は、関東でも名の知れた飲食店チェーン。ここにうちの機材を卸すことができれば、長期的な利益が確保される。初年度の契約金額だけでも、一年間の契約目標ノルマを達成できる、間違いない大きな取引だ。この半年間、本社に通いつめ、支店の環境を把握。完璧な営業資料はもちろん、接待もぬかりない。今日は、契約書類に署名捺印をもらうだけの予定だ。

 だが、最後の詰めだからこそ、念入りに実行しなくては。

 約束の場所にはゆとりを持って到着、身だしなみを整えて、受付嬢にも感じよくふるまう。社会人として、当たり前の行動だ。


 俺はもちろん、渋滞を見越し早めに社を出た。

 余裕を持ったスケジュールで動いていたのに、それを狂わせたのは、手土産を買うために寄ったデパ地下で、菓子屋の店員がミスをしたからだ。

 普段なら、こんこんと説教して、何が悪かったのか教えてやるところだが、俺は店長に頭を下げさせると、急いで車に飛び乗った。美しくラッピングされた菓子折りを助手席に乗せて、運転を再開する。この先ICへの接続のため、混雑が予想されることを考えると、時間の余裕がほとんどない。


 イライラしながらも、ネットニュースで時事情報を閲覧しながら、取引先本社の近くまで来たとき。

 交差点に進入しようとしたら、一台の救急車が走ってくるのが見えた。

 ほかの車は、窮屈そうに道の端に避けていく。

「ラッキー、運が味方したな」

 そう思い、スピードを上げて交差点を突っ切った。

 救急車なんて、営業で都内を走り回っていれば、一日に一台や二台程度はすれ違う。その程度の存在だ。


 約束の10分前にコインパーキングに車を停めた俺は、急ぎ身だしなみを整え、手土産を携えて取引先を訪問した。

 事前準備は正しく報われ、なんと契約金10億円を超える巨大な契約に、署名捺印をもらうことに成功した。


 その日、勤怠アプリで直帰の報告を入れた俺は、ノルマ達成を祝って高いボジョレーヌーボーを開けたのだった。

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