第九話 羽衣の音(後)
【――美しいものが壊れかけたとき、
いちばん早く鳴るのは、
その「縁」です。】
庭舞台の空気は、まだざわついていました。
先ほどまで、澄んで揃っていた音が、今はばらけています。
人の声が重なり、足の位置が定まらず、
板の返りが落ち着かない。
羽衣に残った針。
淡い黄色の染み。
それらを見つけた瞬間から、
場には「決めつけの音」が広がっていました。
「誰かの悪意だろう」
「わざとだ」
「嫌がらせに違いない」
声は小さく、しかし早い。
噂が形を持つ前の、尖った音。
けれど音音は、首を振りました。
「……違う」
その一言は、大きな声ではありませんでした。
けれど、音としてははっきりしていた。
羽衣の縁が、わずかに鳴っていました。
布の端。
人の目が集まりにくい場所。
そこだけが、かすかに、しかし確かに、
「助けを求めるような音」を立てていたのです。
「嫌がらせの音じゃない」
花村 紫乃(はなむら・しの)が、音音を見ました。
驚きでも、疑いでもない。
確かめる目。
「どう違うの?」
音音は、羽衣の端をそっと持ち上げました。
引っ張らない。
揺らさない。
空気を割らないように、
音を逃がさないように。
(……残ってる)
音は、まだここにありました。
怒りの音ではない。
怯えの音でもない。
慌てる音。
「この針は、裁縫針です」
音音は言います。
声は落ち着いていました。
「誰かが、ここを縫った」
指先が示したのは、
羽衣の裏。
一見すると、模様に紛れて見えにくい場所。
「それも、三か所」
紫乃が目を細めました。
「……三本、並んでいる」
「はい。
平行に」
音音は続けます。
「わざと破ったなら、
こんな傷にはなりません」
刃物の音ではない。
乱暴な音でもない。
むしろ、
急いで整えようとした音。
ここで、音音は顔を上げました。
「衣裳部屋の小娘たちを、
呼んでください」
ざわり、と場の音が揺れます。
少しして、
三人の小さな影が並びました。
お春。
お梅。
お鈴。
年は同じ頃ですが、
立ち方の音が違います。
お春は、音が内にこもる。
お梅は、周りを気にする音。
お鈴は、言葉が先に鳴る音。
衣裳部屋を手伝う、小娘たちです。
「昨日の夕方、
この羽衣を最後に扱ったのは誰?」
三人は、顔を見合わせました。
視線が交わる音。
逃げ場を探す音。
「……私たち、三人です」
お梅が答えます。
「紫乃さまの稽古が終わってから、
片づけました」
音音は頷きました。
(揃ってる)
証言の音が、重なっている。
「この三本の傷は、
刃物じゃない」
羽衣を、そっと示します。
「爪です」
一瞬、場が止まりました。
「……猫?」
誰かが言いました。
「はい。
衣裳部屋にいる、三毛の」
「こてつ……」
お鈴が、思わず口にします。
名前が出た瞬間、
音が一段、柔らぎました。
責める音から、
思い当たる音へ。
音音は続けました。
「引っかかれて、破れた。
それを、縫い直した」
「……でも」
お春が、小さく声を出します。
「どうして、針が……」
その声は、震えていました。
音音は、静かに言いました。
「外し忘れただけです」
責めない音。
断じない音。
そして、
最後に残った“音”へ。
「この黄色い染み」
羽衣の端に、光が当たります。
「これは、よだれです」
三人が、息を呑みました。
音が一斉に引きました。
「唾液は、
乾いた直後は、目立ちません」
音音の言葉は、淡々としています。
「でも、水洗いだけでは落ちにくい」
「それを、
日光に当てると――
こうして、浮きます」
紫乃が、ゆっくりと息を吐きました。
「今朝、
人目につかない場所で干したのでしょう」
音音は、三人を見ます。
「この中で、
朝日のあたる南東の部屋にいるのは……」
お春の肩が、びくりと揺れました。
音が、裏切りません。
「……私です」
声は、震えています。
「紫乃さまのことが、
大好きで……」
お春は、俯きました。
「羽衣に匂いが残ってて……
抱きしめて寝たら……」
声が、途切れます。
「朝、
よだれがついてて……」
慌てて洗い、
干し、
乾かす間に、猫が爪を立て、
縫い直し、
針を忘れたらしい。
「……ごめんなさい」
最後は、泣き声でした。
泣き声は、
場を壊しません。
正直な音だからです。
しばらく、沈黙。
それを破ったのは、紫乃でした。
「顔を上げて」
お春が、恐る恐る見上げると、
紫乃は、笑っていました。
怒りの音ではない。
許しの音。
「大事にしてくれたんでしょう?」
「……はい」
「なら、怒る理由はないわ」
紫乃は羽衣を受け取り、
軽く振ります。
布が、澄んだ音を返しました。
「次からは、
一人で抱えないこと」
それだけでした。
【――悪意でないものは、
正しく触れれば、
きれいにほどけます。】
場の音が、
元に戻っていきます。
板が、呼吸を取り戻す。
空気が、軽くなる。
場に、誰も言葉を置かない時間が戻ってきました。
「……団子?」
紫乃が声を上げました。
音音が、包みを差し出します。
「さっき、買ってきました」
紫乃は、少し目を丸くし、
ふっと笑いました。
「それで?」
音音は、少しだけ背筋を伸ばします。
言葉にする前に、
胸の奥で音を整える。
「稽古を、
つけてください」
紫乃は、団子と音音を見比べ、
楽しそうに言いました。
「しょうがないわね」
庭舞台に、
また静かな音が戻ります。
羽衣が揺れ、
空気が澄む。
音音は、その音の中に、
身を置きました。
(ちゃんと、舞おう)
【――こうして、
小さな違和感は解かれ、
本当の舞台の音が、
戻ってきました。
けれど。
この羽衣は、
やがて――
人目の集まる庭舞台で、
再び、揺れることになるのです。】
音音の音 (ねねのね) @Muromitsu
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