第八話 羽衣の音(前)

【――朝の江戸は、

まだ音を選んでいます。

目覚めきらない町は、

静かなものだけを通すのです。】


 音音は、まだ人の少ない通りを歩いていました。


 夜露の残る土の匂い。

 それは鼻に届く前に、

 ひんやりとした低い音になって、胸の奥へ落ちてきます。


 どこかの家で、桶を伏せる音。

 遠くで鳴る、早朝の鐘。


(……いい時間)


 この時間の江戸は、音が澄んでいます。

 余計なものが鳴かない。

 人の思惑も、商いの声も、

 まだ眠っている。


 角を曲がると、白い湯気が見えました。

 蒸籠から立ちのぼるそれは、

 空気を揺らし、

 甘く、丸い音を連れてきます。


「おはよう、新吉」


 声をかけると、団子屋の前で蒸籠を覗いていた少年が顔を上げました。


「あ、音音。今日は早いな」


 新吉です。

 この辺りでは知らぬ者のない団子屋の息子で、

 音音とは同じ年頃。

 幼いころからの顔馴染みでした。


 新吉は、少し照れたように目を逸らしながら、

 串を一本、多めに包みに入れます。


 紙に包む音が、柔らかく重なりました。


(甘い音)


 砂糖と米粉の混ざる、

 腹に溜まる音。


「……稽古か?」


「うん。羽衣」


「羽衣、かあ」


 新吉は、少しだけ誇らしそうに言いました。


「本田様のお屋敷でやるやつだろ。

 庭舞台でやるって、父ちゃんが言ってた」


(噂、早い)


 江戸は、音よりも早く噂が回ります。


「ありがとう」


 音音は包みを受け取り、歩き出しました。


 背中に、視線が刺さります。

 気づかれないように、そっと伸ばされた音。


「……がんばれよ」


 小さな声。

 音音は振り返らず、手を振りました。


【――甘い匂いは、

人の背中を押します。

そして時々、

厄介な縁も連れてくるのです。】


 花叢座の裏へ回ると、

 すでに人の気配がありました。


 板を踏む音。

 衣擦れ。

 囃子方の調弦。


 ですが、その中で――

 一人だけ、音が違います。


 静か。

 けれど、深い。


 音音は、思わず足を止めました。


(……沈まない音)


 庭に組まれた仮舞台の上。

 白い衣をまとった女が、立っていました。


 花村 紫乃(はなむら・しの)。


 花叢座に付き、

 庭舞台でのみ舞を見せる、舞の名手です。


 公には役者と呼ばれません。

 女が歌舞伎の舞台に立つことは、

 この時代、許されていないからです。


 けれど――

 屋敷の庭や、内々の興行では、

 今もなお、

 舞の系譜は息づいていました。


 紫乃は、その担い手でした。


【――禁じられたものほど、

美しく残ります。】


 三味線が、そっと鳴ります。


 紫乃は、動きません。


 動かないのに、

 場が変わる。


 音が、整う。


 指先が、ゆっくりと開きました。

 羽衣が、空気を含みます。


 足は、ほとんど鳴らない。

 けれど、板の奥が、

 かすかに応えています。


 重さではない。

 沈みでもない。


(……澄んでる)


 音音の胸の奥で、

 澄んだ音が、長く伸びました。


 紫乃の舞は、

 大きく見せません。


 ですが、

 一つひとつの所作に、

 音が残る。


 袖が揺れる。

 そのたびに、

 空気が、すこし遅れてついてくる。


 天女が、

 地上に降り立つ。


 そんな舞でした。


 音音は、息をするのを忘れていました。


 ――そのとき。


(……?)


 澄んだ音の中に、

 一つだけ、引っかかりがあります。


 細い。

 鋭い。


(……布の音とは違う。)


 音と音の間に、

 わずかに割り込んだ、

 異物のような響き。


 紫乃が、ふっと動きを止めました。


「……?」


 視線が、羽衣に落ちます。


 布を確かめると、

 指先に、きらりと光るものがありました。


「……針?」


 周りが、ざわめきます。


「どうした」


「何かあったのか」


 羽衣の内側。

 縫い目の近くに、

 細い針が一本だけ刺さっています。


 さらに、

 布の端に、

 淡い黄色の染み。


 まだ乾ききっていない色。


「誰かの……嫌がらせか?」


 声が上がりました。


 羽衣は、舞台衣装です。

 とくに『羽衣』は、

 清められ、

 大切に扱われるもの。


 そこに針。

 そこに染み。


 場の音が、ざわりと濁ります。


 濁りは、

 恐れと決めつけの音。


 音音は、羽衣を見つめていました。


(……音が、変わってる)


 嫌がらせ。

 悪意。


 そう決めるには、

 まだ、何かが足りません。


 けれど――


 確かに、

 羽衣は、

 「昨日まで」とは、違う音をしていました。


【――美しいものほど、

壊れたとき、

よく鳴ります。】


 誰かが、

 この羽衣に、

 触れた。


 その音が、

 まだ、残っています。


 音音は、

 そっと息を吸いました。


 吸い込んだ空気が、

 胸の奥で、

 低く鳴ります。


(……始まった)


【――羽衣は、

まだ舞台に上がっていません。


けれど、

その音はすでに、

揺れ始めていました。】

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