第七話 静まったあとの音
【――事件が終わったあとに残るのは、
犯人の名ではありません。
人の口と、場の気配です。】
同心の名は、佐久間 兵馬(さくま ひょうま)といった。
町方でも古株で、芝居小屋や興行の裏にも通じている男です。
花叢座の裏手、客を入れない控えの座敷。
ここは芝居の音が届かないように造られた場所でした。
床は厚く、柱は太く、障子も二重。
話し声が外へ漏れないよう、音を閉じ込めるための部屋です。
音音は、敷居をまたいだ瞬間に、
この部屋の音が「澱んでいる」ことを聞き取りました。
(終わったあとの音だ)
事件が片づいた直後の音。
高鳴りも、緊張も、もうありません。
けれど、完全な静けさではない。
使われたあとの場が、ゆっくり呼吸している音。
兵馬は、湯呑を置いて言いました。
「動機はな、思ったより単純だ」
湯呑が畳に触れる音は、軽い。
力を抜いた置き方。
もう、急ぐ話ではないという音でした。
「松平 忠尚は、
この一座を、他へ替えるつもりだった」
音音の胸の奥で、低い音が鳴ります。
(替える……?)
「次の御前興行は、
別の一座に声をかける話が出ていたらしい」
兵馬は、湯気の消えかけた茶を見ながら続けました。
「芝居小屋が変われば、
出入りする商人も変わる。
菓子も、酒も、道具も――
全部だ」
言葉は淡々としています。
ですが、その裏にある重さが、音として残ります。
「今まで納めていた商いは、
そこで終い。
名前も、信用も、
一気に細る」
兵馬は、少しだけ目を伏せます。
目を伏せたときの音は、
長い時間を見てきた者の音でした。
「商人にとって、
この一座は“太い口”だった。
松平の名があるだけで、
他の商いも通りやすくなる」
「それを、失う」
兵馬は、短く言いました。
「だから、
一座を替えられる前に、
松平そのものを消した」
音音は、静かに息を吐きます。
吐いた息の音が、畳に吸われて消えました。
(芝居を、道具にしたんだ)
舞台。
役者。
音。
本来、人を楽しませるためのものを、
都合のいい仕掛けに変えた。
兵馬は、音音を見て続けました。
「だが、それを見抜いたおまえを、
黙らせる必要があった。
あわよくば、
犯人に仕立てようとしたんだ」
音音は、何も言いませんでした。
胸の奥で、低く鳴っていたものが、
すっと静まっていきます。
怖さでも、怒りでもない。
終わった、という音。
【――真実は、
暴かれたあと、
場に馴染んでいきます。】
噂は、すぐに広がりました。
大声ではありません。
囁きです。
「音音が気づいた」
「音で分かるらしい」
「いや、匂いだ」
言い方は様々でした。
人の口は、勝手に形を変えます。
音音にとって、それらは、
ひとつひとつが軽い音でした。
確かさのない、跳ねる音。
けれど、場の音は違います。
台所では、器の扱いが丁寧になりました。
布を置く音が揃い、
水を流す音が落ち着く。
舞台では、床を踏む足が揃います。
誰かが急げば、誰かが待つ。
見えないところの手順が、
前よりも静かになりました。
(……場が、落ち着いてる)
音音にとっては、
それがいちばん分かりやすい評価でした。
長老は、相変わらず多くを語りません。
ただ、指示が減り、
目だけで合図を送ることが増えました。
目の動き。
首の角度。
それだけで伝わる音。
「好きにやれ」
それが、あの人なりの信頼です。
その日の夕方。
稽古が終わったあと、
長老は、包みを一つ、音音に渡しました。
「ご苦労だった」
厚手の紙に、きっちり結ばれた紐。
中の音が、重い。
(……強い)
開くと、中には鮒ずしが入っていました。
近江から運ばれる、川魚の保存食。
鮒を塩と飯で長く漬け、
乳酸発酵させたものです。
江戸では、
匂いで好みが分かれる珍味。
通は好み、
慣れぬ者は顔をしかめる。
けれど、腹に溜まり、
酒にも粥にも合う。
(……いい音)
音音の胸の奥で、
丸く、深い音が鳴りました。
「にひひひひ」
思わず、頬が緩みます。
小さく切って、ひとかけ。
舌に触れた瞬間、
音が、ほどけました。
(生きてる)
それが、嬉しかった。
包みを畳んでいると、
長老が、ふいに言いました。
「次は、
おまえも舞台に立つ」
音音の手が、止まります。
「……ほんと?」
「稽古子だ。
小舞だがな」
長老は、それ以上言いませんでした。
ここ、花叢座は、歌舞伎を看板にする一座です。
大芝居ではありませんが、
屋敷や庭に舞台を組み、
間近で見せる芝居を得意としていました。
三味線、鼓、笛。
床板を打つ足。
衣装の擦れる音。
音音は、稽古子として、
群舞や導入の舞を任されます。
主役ではありません。
ですが、舞台に立ち、
音の中に入る役目です。
舞台に上がる瞬間。
幕が上がる前の、
張り詰めた静けさ。
音音は、その一瞬が好きでした。
音が、まだ鳴っていないのに、
確かに、そこにある時間。
(……鳴る)
胸の奥が、
高く、軽く、鳴ります。
【――歌舞伎は、
音で始まり、
音で終わります。】
次の演目は、
庭に組んだ仮舞台での羽衣。
静かな舞から始まり、
やがて囃子が増し、
天へ昇る話。
音が、変わる。
場が、動く。
音音は、足袋を揃え、
深く息を吸いました。
(よしっ)
【――そして、
舞台の上で、
また一つ、
音が狂うのです。】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます