第五話 移った音
【――真実は、
いつも正面から姿を現すとは限りません。
時にそれは、
誰も見向きもしないものに、
ひっそりと染みています。】
前の晩。
花叢座の裏は、夜更けになると急に広く感じられます。
昼間は人の気配と役割で埋まっていた場所が、役目を解かれ、ただの「場」に戻るからです。
一座が寝静まったあと、音音は台所に戻りました。
誰にも告げず、足音を立てないように、板の癖をなぞるように歩きます。
灯りは落としたまま、月明かりだけを頼りに、
膳や桶の位置を確かめます。
障子越しの月は、白く、少し冷たい光でした。
昼間の油煙を吸った空気を、夜の湿りがゆっくりと冷やし、
台所全体が、ひとつ息を吐いたように静まっています。
昼の台所は、人の段取りで鳴ります。
鍋、火、柄杓、足音、声。
順序よく重なり、役割ごとに意味を持った音。
ですが夜の台所は違う。
物そのものの音が、先に出ます。
棚板の反り。
甕の腹。
床のわずかな傾き。
昼間は気づかれない音が、
月の下で、ゆっくり浮かび上がる。
音音は、立ち止まり、息を潜めました。
耳で聞く、というより、胸の奥で受け取る。
(……まだ、ある)
昼の騒ぎが消えたあとも、
台所の奥に、薄い音が残っています。
それは主張する音ではありません。
「ここにいる」と言わない音。
けれど、消えきれず、場に貼りついている音。
(昨日と同じ場所だ)
音音は、昨日、器が置かれていた棚の前に立ちました。
背丈より少し高い棚。
普段は、膳や器が規則正しく並び、
何も考えずに使われる場所です。
器は、もうありません。
同心が持ち去ったあとです。
棚板には、何も残っていません。
指でなぞっても、粉も油も感じられない。
けれど、
そこにあったはずの音だけが、
まだ、場に引っかかっている。
(……逃げきってない)
音音は、棚の下へ視線を落としました。
布の束。
洗い物に使う、白い布。
昼なら、ただの布。
使われ、洗われ、乾かされ、また使われる。
特別でも、意味深でもないもの。
音音は、触れずに、まず聞きます。
乾いた布の音。
軽く、揃った音。
――その中で。
(……ひとつ、沈んでる)
ほんのわずか。
下に引かれるような、鈍い返り。
音音は、布を一枚だけ、そっと持ち上げました。
月明かりの中で、布は白く見えます。
染みも、汚れも、目には映りません。
指先に返ってくる音は、
確かに、布の音です。
けれど。
(軽いはずなのに)
(下で鳴ってる)
濡れてはいません。
重くも見えません。
それなのに、
音だけが、床の方へ落ちていく。
布というより、
「何かを含んだ後の音」。
(……変だ)
胸の奥が、わずかに締まります。
確信には、まだ遠い。
名前をつけるには、形が足りない。
それ以上、確かめることはできませんでした。
夜の闇の中では、
音は輪郭だけを残し、
中身までは語ってくれません。
(……でも)
音音は、布をそっと元の位置へ戻しました。
布が重なり、
元と同じ並びに戻ります。
音も、沈んだまま、隠れました。
台所の奥で、
どこかの戸が、小さく鳴ります。
夜が返した、短い音でした。
それ以上、
この場から聞こえてくるものは、ありませんでした。
【――音は、
触りすぎると逃げます。
気づいた者は、
ただ、そこに在ると知るだけです。】
翌朝。
朝の花叢座は、昨日より少しだけ重い音をしていました。
人は動いています。
火も入っています。
けれど、どこか慎重で、
昨日までの「いつも」とは、少し違う鳴り方です。
音音は長老に頼み、同心を一座に呼びました。
理由は、詳しく話していません。
説明しようとすれば、
言葉が音を壊す気がしたからです。
「台所を、もう一度見ていただきたいです」
同心は、短く頷きました。
台所。
朝の光が入り、
夜とは違う表情をしています。
音音は、下女の方を向きます。
「昨日、器を洗ったあと、
どうしましたか」
下女達が、顔を見合わせました。
「洗って……拭きました」
「その布は?」
一人の下女が、思い出したように、
棚の下に積まれた布の束へ視線を向けました。
白い布。
新しい布。
どれも同じに見えます。
(でも、違う)
音音は、同心を見て、続けます。
「器には、最初、何もありませんでした」
「私が受け取ったときも、
棚に置いたときも」
「でも」
布の束を示します。
「洗ったあと、
この布で拭かれました」
同心が、静かに言いました。
「器ではない……布か」
同心は、布束へ手を伸ばしました。
ですが、すぐには掴みません。
一瞬、指先を止め、布全体を見下ろします。
若い同心が、何か言いかけて口を閉じました。
年嵩の同心は、布束の端から一枚を選び、
音を立てぬよう、つまみ上げます。
白い布が、ふわりと揺れました。
軽いはずのものです。
同心は、親指と人差し指で、布を軽く擦ります。
次に、顔を近づけました。
わずかに、眉が動きます。
「……匂いが、残っているな」
誰かが息を呑みました。
同心は、布を強く嗅ぎません。
確かめるだけです。
香でも、油でもない。
けれど、台所の空気とは違う、
説明しづらい残り香。
同心は、布を指先でつまんだまま、
しばらく黙っていました。
布を裏返し、
縁をなぞり、
もう一度、静かに息を吸います。
「……毒を染み込ませたのか」
言葉は淡々としています。
ですが、その声音は、
疑いが形を持ち始めた音でした。
「はい」
迷いなく、音音は頷きます。
「毒は、塗られていませんでした。
移っていました」
音音は、倒れた下女を見ました。
下女は、俯き、何も言いません。
けれど、否定もしない。
「いつもの手順を、教えてください」
下女は、少し黙ってから言いました。
「器を洗って、布で拭いたあと……
汚れが残ってないか、
指で触って」
「それから?」
「……舌で、少し」
同心が、低く息を吐きます。
「昨日もか」
「……はい」
台所が、静まり返ります。
音が消えたのではありません。
音が、逃げ場を失ったのです。
同心は、その布を布袋に入れました。
「昨日、この布を持ち込めたのは?」
「一座の者以外では、器と一緒に台所に来た人だけです」
音音は、はっきり言いました。
「商人です」
同心の目が、決まりました。
【――真実は、
派手な場所にはありません。
いつも、
使い慣れたものの中に、
ひっそりと移っています。】
同心は、短く命じました。
「商人を呼べ」
その声は、低く、揺れません。
音音は、胸の奥で鳴っていた音が、
ようやく、静かになるのを感じました。
完全に止んだわけではありません。
ですが、
ばらけていた音が、
ひとつの方向を向いた。
【――音は、嘘をつきません。
嘘をつくのは、
いつも人の方です。】
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