第四話 疑われた音

【――江戸では、

事が大きくなってからでは遅いのです。

だから人は、できるだけ早く、

そして静かに、

理由を一つに絞ろうとします。】


 朝。


 一座に、同心が入りました。


 木戸が開く音は小さかったのに、

 空気が一段、硬くなります。


 誰も声を出していないのに、

 場が「張る」音がしました。


(来た)


 同心は二人。

 年嵩の男と、若い者。


 足音は控えめです。

 ですが、歩幅が揃っています。

 揃った足音は、命令の音です。


「昨夜の件だ」


 年嵩の同心は、それだけ言いました。


 言葉は短く、

 終わらせるつもりの音です。


 同心は、そのまま台所へ向かいました。


【――疑いが入るとき、

場は一度、息を止めます。】


 台所。


 昨日と同じ場所なのに、

 音が違います。


 鍋は乾いているのに、

 底の音が鈍い。


 桶の水は澄んでいるのに、

 返りが遅い。


 人が集まると、

 場の音は重なります。


 そして、

 重なりすぎると、

 一番弱い音が押し潰されます。


(……嫌な鳴り方)


 同心は、ゆっくりと見回しました。


 膳。

 棚。

 桶。

 そして――隅に置かれた器。


「医者の話では、

 喉が腫れていたそうだな」


 長老が頷きます。


「ええ。

 前の件と、似ていると」


 その「似ている」という言葉が、

 台所の奥で、低く鳴りました。


 同心は器を手に取りました。


 軽く持ち上げ、

 光に透かします。


 器は、素焼きのもの。

 薄く、軽い。


 見た目には、

 何の変哲もありません。


「中身に混ぜた様子はない」


 若い同心が言いました。


 年嵩の同心は、

 器を伏せます。


 そして、

 内側の縁を、

 指でなぞりました。


 きゅ。


 ごく、わずか。


 指先が、引っかかる音。


(……そこ)


 音音の胸の奥で、

 同じ音が、鳴りました。


「……ここだ」


 一同が息を呑みます。


 息を呑む音は、

 とても静かで、

 とても重い。


「内側に、薄く塗ってある」


 同心は、器を傾けました。


「強い毒じゃない。

 口をつけたときだけ、効くやり方だ」


 女衆の一人が、

 思わず口を押さえます。


 その動きが、

 遅れて鳴りました。


「では……どうして」


 誰かの声。


 理由を欲しがる音です。


 同心は、淡々と答えました。


「膳の片づけの最中だ。

 器を洗ったあと、

 汚れが落ちているか――」


 器を示しながら、言います。


「指で触る。

 舌で、軽く確かめる。

 台所では、珍しいことじゃない」


 音が、落ちていきます。


 納得という音。


 そして、

 逃げ道が塞がる音。


「だから、

 下女が口をつけたのだろう」


 同心は、器を布で包みました。


 包む音は、

 確定させる音です。


「さて」


 視線が、集まります。


 視線が集まるとき、

 場は、

 誰か一人を探しています。


「この器を、

 最初に扱った者は?」


 一瞬の沈黙。


 沈黙は、

 均等ではありません。


 音音の周りだけ、

 少し、薄い。


(……来る)


「……私です」


 音音が、静かに答えました。


 声は震えていません。


 同心が頷きます。


「それから?」


「棚に置きました」


「その後に触った者は?」


「……昨夜、倒れた下女が」


 同心は、

 ゆっくりと、

 音音を見ました。


 視線の音が、

 重く、低い。


「つまり」


 声は低く、

 感情がありません。


「毒が塗られた器を、

 最後に扱ったのは、お前だ」


 空気が、

 凍りつきました。


 凍る音は、

 割れる前の音です。


「違う!」


 弥吉が、

 思わず声を上げます。


「音音は、

 そんなこと――」


「待て」


 同心が、手を上げました。


 止める音です。


「この子は、

 前の件でも真っ先に異変に気づいた。

 詳しい。

 器にも触れている」


 理屈は、

 綺麗です。


 綺麗すぎて、

 音がしません。


 音音の喉が、

 ひくりと鳴りました。


(……触った)


 それは、

 事実です。


(でも)


 言葉が、出ません。


 今、何を言っても、

 場の音は、

 自分を削る方向にしか鳴らない。


「しばらく、

 この子から目を離さぬ」


 同心は、そう言い残し、

 器を持って立ち上がります。


 足音が、

 戸口へ向かいます。


 決まった音です。


 誰も、

 音音を見ようとしませんでした。


 見れば、

 決めてしまうからです。


 誰かが一歩、距離を取ります。


【――疑いは、

証よりも先に、

人を縛ります。】


 同心が去ったあと、

 台所は、

 妙に広く感じられました。


 音が、

 一つ、抜けたからです。


 音音は、

 舞台板に座り込みました。


 板は、

 朝よりも少し、温くなっています。


(私は、混ぜてない)


 その確かさだけが、

 胸に残っています。


 でも――


(触った)


 それも、

 事実です。


 音は、

 全部、覚えている。


 けれど、

 どの音が、

 誰のものか。


 まだ、

 分かれていない。


【――真実は、沈みます。

浮かび上がるのは、

いつも先に、疑いです。】


 音音は、

 板に手をつきました。


 板は、

 何も言いません。


 けれど――

 黙って、

 覚えています。


(……まだだ)


 音は、

 まだ、揃っていない。


 揃ったとき、

 きっと、

 別の響きになる。


 音音は、

 そう、

 聞いていました。


【――疑われた音は、

まだ、

真実の音ではありません。


ですが、

物語は、

確実に、

次へ進みました。】

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