第三話 触れたもの
【――松平 忠尚の死は、病として片づけられました。
江戸では、高貴な死ほど、早く、静かになります。
名前のある死は、名もない者たちが音を飲み込むことで、
なかったことのように処理されていくのです。
芝居は止められず、
一座は今日も、幕を上げます。】
朝の舞台板は、昨日より少し冷えていました。
冷えた板は、音が低く鳴ります。
低い音は、残りやすい。
音音は雑巾を押し当て、
端から端まで、ゆっくりと拭いていきます。
きゅ、きゅ、と布が鳴る。
鳴り方は、悪くない。
ですが――
(……まだ、ある)
強くはありません。
けれど、消えてもいませんでした。
甘さの残り音のようなものが、
板の奥に、沈んでいます。
昨日の甘さ。
途中で切れた音。
消えたはずの音が、
薄く、低く、残響だけを残している。
(しつこいな)
甘い音は、残りやすい。
人の気持ちと、よく似ています。
「音音」
弥吉が桶を運びながら言いました。
桶の水が揺れて、低い音が一緒に鳴ります。
「気にしても、しょうがねえぞ」
「……」
「終わった話だ」
終わった、という音は、
終わらせたい側の音です。
音音は答えませんでした。
終わった話ほど、
場に残ることを、知っているからです。
【――場は、人よりも正直です。
人が口を閉ざしても、
床や壁や空気は、黙りません。】
昼前、最初の客が来ました。
松平家の近習だという男です。
供養だと言って、酒樽を一つ、舞台脇に置いていきました。
酒樽が置かれる音は、重く、鈍い。
丁寧に置いているのに、
音だけが少し荒れています。
「ここが……舞台か」
男は板を覗き込み、
しばらく、じっと眺めています。
(探ってる)
音音はそう思いました。
男の視線が、
舞台そのものではなく、
裏の動きに向いているのです。
「この板、ずいぶん手入れがいいな」
「はい」
「子どもがやっているのか」
「……私です」
男は、ふうん、と低く鳴らし、
音音の手元を見ました。
見ている、というより、
確かめている感じです。
それ以上、何も言わず、
男は去っていきました。
次に来たのは、
家老筋の家臣でした。
足音が揃っています。
揃った足音は、命令の音です。
長老とだけ話し、
ちらりと音音を見ると、言いました。
「子どもがいるな」
「裏方です」
「余計なものは、口に出さぬ方がいい」
その言葉は、
注意というより、
釘の音でした。
(言われなくても)
意味が分からないふりをして、
音音は頭を下げます。
その後、
縁戚だという女が香を持ってきました。
包みを開いた瞬間、
強い音が、広がります。
「舞台の匂いが気になって」
女はそう言って、
台所を覗きました。
「ここで、役者のものも用意するの?」
「はい」
「まあ……」
香は強く、
鼻に残ります。
ですが音音には、
香はまず、
音として鳴ります。
広がりすぎる音。
覆い隠す音。
(消したい音だ)
女は満足そうに頷きました。
(見てるだけ)
音音は、そう聞き取りました。
探している音ではありません。
興味の音です。
夕刻。
商人が訪れました。
松平 忠尚の贔屓(ひいき)筋だと名乗り、
丁寧に頭を下げます。
「お騒がせして、申し訳ない」
その声は柔らかく、
誰にでも向けられる音です。
柔らかい音ほど、
どこにでも入り込みます。
「供養の品を」
そう言って、
小さな包みと器を差し出しました。
器が、かちり、と鳴る。
(軽すぎて、残らない音)
「扱いは、子どもの方が丁寧だろう」
「……はい」
受け取り、棚に置きます。
商人は台所を一回り見て、
弥吉と長老に挨拶をし、
帰っていきました。
【――この日、一座には、
他にも多くの人が出入りしました。
供養という名目は、
人の出入りを正当化します。】
その夜。
台所で、下女が倒れました。
「どうしたの!」
「……気持ち悪い……」
声が、かすれています。
息の音が、詰まっています。
水を飲ませ、
背をさすり、
皆が慌てて取り囲みました。
鍋が、がたり、と鳴りました。
火から外された拍子に、金属の底が竈石に触れた音です。
いつもなら、忙しい音。
ですが今は、重く、遅れています。
柄杓が桶に落ち、
水が、ばしゃり、と跳ねました。
跳ねた水音が、いつもより低く、濁っています。
慌てた手は、音を揃えられません。
誰かが襖を引きました。
がら、と鳴るはずの音が、途中で詰まります。
畳に膝をつく音が、あちこちで重なり、
乾いたはずの畳が、湿った音を返しました。
鍋。
水。
柄杓。
襖。
畳。
それぞれの音が、
ばらばらに鳴っています。
場の音が、揃っていない。
慌てる音は、
場を乱します。
「医者を」
ほどなく、
町の医者が呼ばれて来ました。
医者の足音は、
静かです。
静かな音ほど、
場を支配します。
医者は下女の脈を取り、
喉元に指を当て、
口の中を覗きました。
「……腫れてるな」
その一言で、
台所の音が、
一段、下がります。
「また、ですか」
長老の声が、
低く鳴りました。
医者は、
はっきりとは言いません。
「断定はできん。
だが、喉に刺激が入った形だ」
少し間を置いて、
低い声で続けます。
「……前と、似ている」
その言葉で、
空気が固まりました。
固まる音は、
動かない音です。
誰も、続きを聞きません。
聞けば、
厄介になるからです。
下女は、
しばらくして落ち着きました。
命に別状はありません。
「大事にしない方がいい」
医者はそう言い、
道具を片づけます。
片づけの音は、
終わらせる音です。
皆が、それで
終わりにしようとしました。
(……似てる)
音音は、
台所を見回しました。
膳。
棚。
包み。
(誰でも、触れる)
触れられる場所は、
音が混ざります。
その夜、
音音は眠れませんでした。
舞台板に腰を下ろし、
膝を抱えます。
夜の板は、
昼よりも
よく鳴ります。
遠くで、三味線の名残りが鳴っています。
もう誰も弾いていないのに、
壁と梁に残った音だけが、
細く、遅れて、返ってくる。
湯屋帰りの下駄の音が、
通りの向こうで、からり、ころり、と鳴りました。
笑い声が一つ混じり、
すぐに夜気に溶けて消えます。
どこかで、猫のこてつが鳴きました。
短く、低い声。
屋根の上を移る爪音が、
板の下の空気を、わずかに揺らします。
風が、花叢座の軒を撫でました。
障子の紙が、かすかに震え、
舞台板の下で、空気が返ります。
夜の音は、
昼の続きでできている。
今日の音も、
誰かの足音も、
消えたはずの甘い音も、
すべて、重なって残っている。
(触った)
(いろんな人が)
今日一日で、
何人もの手が、
この場に入りました。
【――人は忘れます。
ですが、場は、積み重なります。】
音音は、
そっと床に手を置きました。
板は、
何も言いません。
ただ、
静かでした。
静かだけど、返りがばらけている
(……まだ、分からない)
【――答えは、まだ出ません。
ですが、問いは、残りました。】
【――一度は終わったはずの違和感が、
形を変えて、戻ってきました。】
【――次の問題は、
「誰が毒を持ち込んだのか」です。】
【――そしてその視線は、
思いもよらないところへ、
向かっていきます。】
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