第二話 甘い音の客

【――御前興行が止まった翌日です。

一座の者たちは、何事もなかったふりをして、いつも通りの朝を迎えます。

江戸では、厄介ごとは「無かったこと」にされるのが、いちばん早いのです。】


 朝の花叢座は、まだ薄い音をしています。

 夜の冷えが板の隙間に残り、桶の水も、台所の湯気も、起ききっていない音。

 それでも、座の者たちは動き出します。動かなければ、昨日が今日に食い込んでくるからです。


 舞台板は、昨日より少しだけ乾いていました。

 音音は端から端まで布を滑らせ、鼻先を近づけます。


(……まだ、うっすら)


 油の匂いは消えきっていません。

 けれど音音にとって、匂いは匂いのままでは届きません。

 鼻に入る前に、まず音として耳に落ちてきます。

 昨日は、べた、とした鈍い音でした。

 今日は少し、薄い。音が少しだけほどけています。


 ですが、昨日ほど嫌な色はしていませんでした。

 長老が黙って、上から塗り直したのでしょう。

 塗り直しの油は、同じ油でも、鳴り方が違う。昨日の油は音を押し潰し、今日は音を「薄く包む」だけです。


「音音、拭いたら裏へ来い」


 そう言って、長老は袖へ消えます。

 長老の声は、いつも短い。短いほど逆らえない音になる。


 音音は布を畳みました。

 角が合いません。


(あとで叱られる)


 直そうとして指が引っかかり、布がほどけます。

 布がほどける音は、軽いのに恥ずかしい。

 慌てて押さえ、前のめりになりました。


「おっと」


 襟首をつまんで引き戻したのは、弥吉です。


「またかよ。舞台より先に、自分の足元を拭け」


「転んでない」


「転びかけてた」


 音音は舌打ちして裾を払いました。

 舌打ちの音はわざと鋭くします。鋭い音は、弱い音を隠せるからです。


(べつに助かったなんて思ってない)


 舞台は正直ですが、自分の足は時々嘘をつきます。

 板の上では嘘がつけないのに、板の外では嘘をつく。

 人間はややこしい。


【――音音は賢い子です。

ですが、賢いことと器用なことは、必ずしも同じではありません。】


 裏へ向かう途中、甘い匂いがしました。

 正確には、甘い匂いが「鳴った」。

 音音の鼻が勝手にそちらを向く前に、耳が先に反応します。


(……甘い)


 ただの甘さではありません。

 立ち上がりが軽く、すぐ消えそうな音です。

 舌に重く残る甘さじゃない。花が咲くみたいに一瞬でほどけて、消える甘さ。


 花叢座の裏は、こういう音が多い。

 役者の白粉、油、汗、衣裳の香、湯気、米の炊ける音。

 町の朝は売り声が先に鳴りますが、座の朝は「準備の音」が先に鳴ります。


「おい、どこ行く」


「確認」


「どうせ食い気だろ」


 弥吉の声を背に、音音は厨房を覗きました。


 木箱があります。

 和紙で包まれ、紐が丁寧に結ばれています。

 紐の結び目の音が、きっちりしています。乱れていない音。


 脇には、乾いた魚卵。

 赤黒い粉。

 小瓶に入った艶のある液体。


(にひっ、珍味だ)


 胸の奥が、きゅっと鳴りました。

 音として聞こえる甘さは、たいてい裏を持っています。

 そして珍味は、もっと裏を持っています。

 表も裏もまとめて、面白い音がする。


【――音音は珍しいものに目がありません。

珍しい味、妙な匂い。

それらは、何よりの誘惑です。】


「触るなよ」


 厨房の女衆が言います。

 女衆の声は、忙しい音です。忙しい音は、切れやすい。


「御礼の品だよ。昨日の騒ぎで、お詫びも兼ねて、だとさ。客人の家から」


 客人――

 昨日、御前の席にいた高貴な身分の人間です。

 役者が倒れたのを見て、使いを寄越したのでしょう。


 客人は、松平 忠尚と言った。


 将軍家に連なる家の名でありながら、芝居や舞いを好むことで知られていた。

 一座にとっては、ありがたい贔屓(ひいき)であり、

 同時に、軽々しく扱えない相手でもあった。


(偉い人って、自分が見た不幸まで自分のものにする)


 長老が入り、箱を一瞥しました。

 長老の視線が落ちる音は、重い。

 箱が「礼」なのか「刺」なのか、長老は音で測っている。


「……丁寧だな」


 箱が開けられます。

 白く丸い砂糖菓子が並びました。

 白い菓子は、白い音をしているはずです。

 けれど今、箱から聞こえる音は――白だけではありません。


「一個くらい……」


 弥吉が呟きます。

 呟きは軽いのに、胃の音が一緒に鳴っている。


 長老は何も言いません。

 黙るのは、許可でもあり、警告でもありました。

 長老の黙りは、音がないのではなく、音を「締める」音です。


「私が味見する」


「なんでお前だ」


「珍しいから」


「理由になってねえ」


 音音は一つ、菓子をつまみます。

 粉が指につき、軽い音がしました。

 粉の音は、乾いていて正直です。


 口に入れます。


 甘い。

 ですが――


(……うるさい)


 音が高く、落ち着きません。

 甘い音が鳴るはずなのに、その中に、細い棘が混じっている。

 刺す音。舌の奥をチリ、と鳴らす音。


 すぐに、消えます。


(甘いのに、途中で音が落ちる)


 舌に残らない甘さ。

 それは、甘さを装った別の何かです。


 視線が、赤黒い粉に向きました。

 匂いが鋭く、甘さの音を上書きしています。

 匂いというより、鋭い音が鼻の奥で鳴る。

 息を吸うと、音が短くなる。喉が細くなる音。


(こっちだ)


 そのとき、表が騒がしくなりました。

 客人が、再び訪れたのです。


【――子どもは、席に出ません。

それが決まりであり、同時に救いでもあります。】


 座敷で茶と菓子が出されます。

 箱の菓子が、そのまま並びました。


(本人のものなら、疑わない。偉い人って、そういうところがある)


 音音は襖の陰から、音を拾います。

 畳を踏む足。袖が擦れる音。杯が置かれる音。

 客人の息は、薄く高い。

 「上の人」の息は、いつも薄い。厚い息をしてはいけないからです。


 客人は笑い、菓子を口に運びます。


 次の瞬間。


「……っ」


 喉を押さえ、崩れました。


 甘い匂いが、急に無音になります。


(……消えた)


 胸が上下しません。

 音が、ありません。


 「息の音」が消えると、人間は小さくなる。

 大名も、役者も、下女も同じです。

 命の音だけは、身分に従わない。


【――人が死ぬとき、音は消えます。】


 ほどなく同心が来ました。

 同心の足音は、一定です。迷いがない。

 迷いのない足音は、よく人を黙らせます。


「病だろう」


 そう言って、終わらせようとします。


(終わらせたい音だ)


「違う」


 音音は口を開きました。

 声を出すとき、胸の奥が少し痛む。

 屋敷の空気は、余計な声を嫌う音です。


「味が壊れてた」


 弥吉が慌てて袖を引きます。


「やめろって」


 その拍子に音音はよろけ、膳に当たりました。

 皿が傾き、粉が畳に散ります。


 白の中に、赤黒い粒。

 重い音。


(混ざってない。添えただけ)


 混ざっていれば、音が均される。

 添えただけなら、音が二つに割れる。

 白は白の音。赤黒は赤黒の音。

 違う音が、そのまま残る。


「こっち」


 音音は粒を指さしました。


「甘さに隠れてた」


 同心は顔をしかめます。

 顔をしかめる音は、鼻の奥が狭くなる音です。


 そこへ、町の医者が呼ばれて入ってきた。

 医者の音は、静かです。静かなのに、道具の音がきちんと鳴る。

 医者は客人の脈を取り、瞼を押し、口元を嗅いだ。


「……香辛料だな。喉が痺れてる。毒性がある」


 同心が顔色を変える。


「毒、だと?」


 医者は頷き、私をちらりと見た。


「舌が利く子だ。……いや、鼻か。どちらにせよ、気づけるのは珍しい」


(舌でも鼻でもなくて、最初に聞こえるんだけど)


 音音は言い返さない。

 言い返すと、場の音が壊れる。

 壊れた場は、誰かを壊して収めようとする。


【――正しさは、いつも表に出るとは限りません。

結局、詳しい話は伏せられました。】


 菓子箱は持ち去られ、座敷は片づけられました。

 片づけの音は速い。

 速い片づけは、「無かったこと」にする音です。


 音音が台所で皿を洗っていると、


「なあ、音音」


 弥吉が小声で言います。


「……怖くなかったか」


 水の音が、少し重くなりました。

 水は嘘をつけない。心が重いと、水も重く鳴る。


「怖い」


「……だよな」


「でも」


 音音は手を止めます。

 止めた指先が、皿の縁で小さく鳴る。


「珍味が、もったいなかった」


 弥吉は一瞬黙り、吹き出しました。


「お前は本当に……」


(だって、珍味は珍味だし)


 笑い声が少しだけ場を軽くする。

 軽くしないと、台所の空気は沈み続ける。

 沈み続けた空気は、人を弱くする。


 夜。

 音音は懐から、こっそり包みを取り出しました。

 灯りにかざすと、中の珍味が、相変わらず嫌な音を立てています。


(……だめなやつほど、気になる)


「にひひひひ」


 誰もいないのを確かめて、音音は目を細めて、口の端をつり上げました。

 珍味を前にすると、口角が勝手に上がる。

 それも癖です。


 そっと、そっと包みを畳み直し、引き出しの奥へ押し込みます。


(今は食べない。あとで、ちゃんと調べよう)


 そう決めたはずなのに、指先は名残惜しそうでした。

 名残惜しい音が、指に残る。


 答えは出ません。


(甘い音は、人を安心させてから殺す)


【――人は忘れます。

ですが、場は忘れません。】


【――そして音音は、

犯人へと、少しずつ近づいていくのです。】

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