第一幕 羽衣編 第一話 音が死んだ日

【――舞台板は、正直です。

人の顔より、言葉より、ずっと。】


 私は、稽古子。

 小舞を任される控え役。主役ではない。

 けれど、群舞や導入の舞では、板の上に立つこともある。


 ――ただ今日は、裏方。


 それだけで、胸の奥の音が少し軽くなる。


(今日は、聞く日)


「音音、そこ。油、拭き残し」


 低い声が、背中に落ちてきた。

 叱る音でも、命じる音でもない。

 ただ、位置を示すだけの、平たい音。


 私は振り返らない。返事もしない。

 しゃがんだまま、布を動かす。


 きゅ、きゅ、と。

 布が板を擦る音が、耳の奥で鈍く鳴る。


 乾いた音じゃない。

 湿った音。

 まだ、板が何かを抱え込んでいる音。


(……重い)


 今日は御前興行。

 大名様が来る日だ。


 偉い人が来る日は、

 だいたい――

 面倒なことが起きる。


 理由は簡単。

 音が、嘘をつくから。


【――江戸の町外れ。

代々、将軍家や諸大名の御前で芸を務めてきた、ある一座。花叢座。

その舞台裏に、ひとりの少女がいました。


舞台の端に腰を下ろし、囃子の音を聞いているその少女の名を、音音といいます】


 鼓。

 三味線。

 笛。


 それぞれの音が、空気を切り分けて届く。

 鼓は丸く、低く、腹に落ちる。

 三味線は細く、張って、背骨に沿って走る。

 笛は高く、薄く、天井に吸われる。


 音程は、合っている。

 拍子も、間も、型も、

 どこにも乱れはない。


 ――ない、はずなのに。


(……薄い)


 胸の奥に落ちてくる音が、

 やけに軽い。


 水で洗いすぎた布みたいな音。

 色が、抜けている。


 高さはある。

 けれど、芯がない。


 広がりはある。

 けれど、残らない。


 耳に届く前に、

 もう、消えかけている。


(音が、生きてない)


 それは「下手」とか「失敗」とか、

 そういう話じゃない。


 正確すぎて、

 正しすぎて、

 だからこそ、死んでいる音。


「ねえ、それ」


 気づいたら、口が動いていた。


「今日の音、死んでる」


 隣で縄をまとめていた裏方が、

 ぎろりとこちらを見る。


「何言ってんだい。

 合ってるだろ」


「合ってるよ。だから、気持ち悪い」


 私は布を畳み、

 舞台板に、そっと手をついた。


 ――ひやり。


 冷たい。


 いつもより、

 ほんの少しだけ。


 触れた感触が、

 重さを持たない。


 重さがない、という音。


 鼻を近づける。


(……違う)


 木の匂いじゃない。

 古い油の匂いでもない。


 鼻腔の奥で、

 濁った音が鳴る。


 嫌な音の匂い。

 輪郭がぼやけて、

 広がりすぎて、

 逃げ場をなくす音。


【――音音にとって、

世界は「見る」ものではありませんでした。


彼女は、生まれつき、

五感すべてを

まず、音として聞いてしまう癖を持っていました。


本人にとっては、

特別でも、便利でもない、

ただの“当たり前”でした】


 目に入る色は、高さになる。

 濃い色は低く、薄い色は高い。


 匂いは、広がりになる。

 鋭い匂いは細く、

 甘い匂いは丸く膨らむ。


 味は、角になる。

 尖るか、丸まるか、

 舌より先に音で分かる。


 触れた感触は、重さと間になる。

 軽いか、重いか。

 詰まっているか、抜けているか。


 だから音音は、

 見る前に、

 嗅ぐ前に、

 確かめる前に――


 まず、音として、世界を受け取っていた。


(舞台が嘘ついてる)


 奥で、役者たちが声を出し始める。

 主役が、深く息を吸った。


 その瞬間。


 ――すうっ。


 音が、逃げた。


 鼓の色が、消える。

 三味線の張りが、ほどける。

 足拍子が、床に吸われる。


 音が、

 舞台から、

 消えた。


(やばい)


「……っ」


 喉が、ひりつく。


「止めて」


 声は小さく、

 空気に溶けて消えた。


 主役は一歩踏み出し、

 二歩目で、よろめいた。


「息が……」


 倒れる音は、

 冷たかった。


 白く、

 割れる音。


【――舞台に異変が起きたとき、

観客はそれを「事故」と呼びます】


 ざわめきが広がる。

 御前の席の方で、

 人の気配が大きく揺れる。


「持病だろう」

「緊張したんだ」


 大人たちは、

 そう言って、

 納得した顔をする。


(違う)


 私は舞台に近づき、

 もう一度、板に触れた。


 指に、

 ぬるり、とした感触。


 ――油。


 新しい。

 塗りすぎ。


 音を殺す油。

 共鳴を奪う油。


(床が鳴らない)

(これじゃ、息の場所が分からない)


 舞は、

 音と息でできている。


 どちらかが欠ければ、

 身体は迷う。


 私は立ち上がり、

 長老を見る。


「……この舞台、

 誰が触りました」


 長老は、一瞬だけ言葉を失った。


「音音、お前……」


「触ってないなら、いいです」


 私は、布を差し出した。


「……あなたは、間違えていません。

 息も、踏みも、ちゃんとあってました。

 悪いのは、舞台です」


【――人は忘れます。

ですが、舞台は忘れません】


 誰かが、目を伏せた。


 主役は運ばれていき、

 興行は中止になった。


 事件にはならない。

 名前も、つかない。


 それでいい。


 私は舞台の端に座り、

 布で、板を拭く。


 きゅ、きゅ、と。

 今度は、少し音が戻る。


(……まだ、全部じゃない)


 音が死ぬとき、

 人は気づかない。


 でも私は、

 音が消えるから、分かる。


 裏で見る。

 嘘も、事故も、

 全部、音で分かる。


(……面倒な役だな)


「次はちゃんと、

 生かしてよ」


 誰に言うでもなく、

 そう呟いた。


【――音音は知っています。


舞台の裏には、

怪奇があり、

嘘があり、

そして、人の思惑があることを。


――やがて音音は、

江戸中を巻き込む

さまざまな怪奇事件に

関わってゆくことになります。


音を聞く稽古子の物語は、

ここから始まります】

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