音音の音 (ねねのね)

@Muromitsu

第零話 音が鳴る町

【――幕が上がる前。

江戸は、まだ静かです。

ですが、ひとたび板が鳴れば、

町の心臓は、いっせいに踊り出します。】


 闇が、息を潜めていました。


 油皿の灯が、舞台の端を赤く舐め、板目の筋を浮かび上がらせています。客席は黒い海で、そこに浮く白い顔だけが、潮の泡のようにちらちら動く。


 ――トン。


 最初の一打は、腹の奥に落ちました。太鼓でも鼓でもない。役者の足が、板を叩いた音です。


 ――トン、トン。


 二つ、三つ。強さが違う。床を試し、空気を探し、間合いを測る音。たったそれだけで客席のざわめきが、ぴたりと止まる。


 舞台は、音で命令する。


 三味線が一筋、夜気を裂きました。細いのに骨のある音。糸が鳴いたというより、張り詰めた心が鳴いた。小鼓がすっと入り、大鼓が響きを添え、笛が高く風のように走る。


 その音の束の真ん中へ、役者が現れます。


 見得――。


 止まったはずなのに止まっていない。肩の線が客席へ刺さり、肘が空気を押しのけ、指先が一本ずつ意志を持って光る。衣装の裾が遅れて追いつき、重い絹が擦れて、はらり、と音のない音を落としました。その「遅れ」が、たまらなく美しい。


 役者がゆっくり腕を上げる。肘が先、手首が次、最後に指が開く。花が咲く順番で、同時に刃物が抜ける順番でもある。


 客席の誰かが喉を鳴らしかけて飲み込む。息が止まり、また動き出す。


 すり足で滑るように進むのに、板はほとんど鳴らない。なのに「迫る気配」だけが確かな重さで近づく。


 ――トンッ!


 踏み替えの一打で、世界が反転します。足の裏が板を撃った瞬間、腹まで揺れた。板の下の空気が鳴り、柱が鳴り、梁が鳴り、その鳴りが役者の背中を押す。囃子が厚くなり、笛が舞い、三味線が地を固め、鼓が呼吸を刻む。


 役者の体が音の中でほどけました。肩が柔らかく落ち、首がわずかに傾く。そこで顔が変わる。客に向けた笑みではない。演じる者の心の癖の笑み。


 背筋が、ぞくりと鳴る。舞台は絵ではない。刃の向きと、呼吸の長さと、足の置き場で出来ている。


 一歩。半歩。そこで止まる。


 止まり方が、音になる。


 役者は見得を切った。目を開き、睨む。睨みは敵に向けたものではない。客席の一人ひとりの胸を、順番に刺す。


 その睨みの中で、三味線が一段低く沈む。鼓が間を作る。笛が細く長く、風のように伸びる。


 台詞はない。けれど「言った」ことだけが伝わる。


 (逃げるな)


 そんな空気。


 江戸の夜が、役者の手の中に入っていきました。


【――芝居小屋の外では、

また別の音が鳴っています。

売り声、下駄、車輪、湯気、笑い。

江戸は、音でできた町です。】


 芝居がはねれば、人が溢れます。木戸口のあたりには番付を畳む者、下足札を探す者、土産の団子を頬張る者。夜店の明かりに虫が寄り、甘い蜜の匂いに子どもが寄り、酒の匂いに大人が寄る。


 道の角には蕎麦の屋台。湯気が立ち、つゆの香が夜気に滲む。天秤棒を担いだ売り子が「飴ぇ」と声を張り、豆腐屋が笛を吹く。深川の方からは水の匂いが運ばれ、橋の上では風が強く鳴った。


 芝居は、町の真ん中にある。

 けれど、芝居だけが江戸ではない。


 ここは花叢座(はなむらざ)。


 大店の座元が抱える大芝居ほど派手ではありませんが、屋敷や庭に舞台を組み、間近で見せる芝居を得意とする歌舞伎一座です。三味線と囃子方が小回りよく動き、役者は距離の近さで客の息を奪う。大げさな仕掛けより、所作と間で魅せる――そんな座でした。


 だからこそ、裏も忙しい。


【――舞台の光が強いほど、

影は濃くなります。

そして影の方が、

よく「何か」を覚えています。】


 舞台の隅。幕の陰。道具の影。

 そこに、小さな影がありました。


 音音(ねね)です。

 稽古子。小舞を任される控え役。主役ではない。けれど、群舞や導入の舞では板の上に立つことがある。子どもだから許される半端な立場で、半端だからこそ、見えるものもありました。


 音音は、舞台端の道具箱を押さえながら、目を細めます。板が鳴る。客が息をする。衣装が擦れる。三味線が震える。


 そして――人の嘘が、鳴る。


 音音にとって、それは「感じ取る」ものではありませんでした。


 彼女には、生まれつきの癖があります。

 五感で受け取るものすべてが、音として耳に聞こえるのです。


 色は、音の高さとして鳴る。

 匂いは、音の広がりとして満ちる。

 味は、尖ったり、丸くなったりする音になる。

 触れた感触は、重さと間を持った音になる。


 見る前に、

 嗅ぐ前に、

 確かめる前に。


 それらはすべて、

 音として、耳に届く。


 胸で感じるよりも先に、

 考えるよりも早く、

 世界が「鳴る」のです。


 それは特別な力でも、誇れる才能でもありません。

 音音にとっては、少し厄介な、生まれつきの癖でした。


(……今日の板、少し乾いてる)

(囃子の入りが、ほんのちょっと早い)

(あの客、笑ってるのに、息が浅い)


 誰も気づかない小さなズレが、音音には分かる。

 だからこそ、ほんのわずかな違和感も、音の狂いとして逃さない。


 音音は、口の端を上げます。

 憎らしいのに、憎めない。そんな顔。


(江戸は、毎日が芝居みたいだ)


 舞台の上だけが芝居じゃない。

 町も、人も、噂も、取引も。

 嘘も、真も。


 音音は、舞台の端で、息を吸いました。

 油と木と、汗と、粉白粉の匂い。

 そこに混じる、ほんのわずかな「違和感」。


(……始まる)


【――江戸は、謎を隠す町です。

けれど、音は隠せません。


舞台に残る音。

人にまとわりつく音。

嘘が立てる、わずかな軋み。


小さな稽古子は、

その音を拾い集め、

謎を解き明かしていきます。


――これは、

江戸を舞台にした、

音のミステリーです。】


https://kakuyomu.jp/my/news/822139843339302062


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