駄目な精神科医
真田直樹
第7話
説明されない決定
佐藤は、病院から帰ったあと、靴を脱いだまま動けなくなった。
玄関の床が、ひどく冷たい。
だが、靴を揃える気力もなかった。
——今日は、何も起きなかった。
診察はなかった。
言葉もなかった。
ただ、「変更」という事実だけが残った。
それなのに、心は消耗しきっていた。
ソファに座り、天井を見上げる。
——説明されなかった。
そのことが、じわじわと効いてくる。
理由を知りたいわけではない。
誰かを責めたいわけでもない。
ただ、自分が人として扱われているのかを、確認したかっただけだ。
患者であっても、
不調を抱えていても、
事情を理解する力は、まだ残っている。
そう思いたかった。
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数日後。
佐藤は、病院からの電話を受けた。
「今後の診察について、ご説明があります」
その一言で、心臓が跳ねた。
説明。
やっと、説明される。
期待と不安が、同時に膨らむ。
指定された時間に、病院へ向かう。
診察室ではなく、相談室だった。
机の向こうには、見知らぬ医師と、医療ソーシャルワーカー。
桐島はいなかった。
それだけで、胸が沈む。
「本日は、お時間ありがとうございます」
丁寧な口調。
訓練された声。
「佐藤さんの治療環境について、より良い形を検討した結果——」
言葉が、滑るように続く。
「担当医を変更し、複数の視点から支援していくことになりました」
佐藤は、黙って聞いていた。
「これは、佐藤さんの状態を考えての判断です」
その言葉に、微かな怒りが湧く。
——私の状態?
「依存傾向が見られたため——」
その瞬間、胸の奥が、強く締めつけられた。
依存。
その一言で、これまでの感情が、すべて「問題」に変換される。
「……それは」
声が、震えた。
「それは、私が悪かった、ということですか」
医師は、即座に首を振る。
「いえ、誰が悪いという話ではありません」
その言葉が、かえって残酷だった。
誰も悪くない。
だから、誰も責任を取らない。
「ただ、治療上の判断として——」
「私は……」
佐藤は、言葉を探した。
「私は、説明されないまま、外された気がしました」
その場に、短い沈黙が落ちる。
ソーシャルワーカーが、ゆっくりと頷いた。
「そう感じさせてしまったことは、申し訳ありません」
謝罪は、あった。
だが、それは感情に向けられたものではなく、手続きに対するものだった。
「桐島先生とは、今後、距離を取る形になります」
その言葉を聞いた瞬間、佐藤の中で、何かがはっきりと折れた。
——距離を取る。
それは、別れを、やわらかく言い換えただけだ。
「……会えないんですね」
確認する声が、自分でも驚くほど静かだった。
「はい」
即答だった。
佐藤は、笑いそうになった。
——やっぱり。
予感は、当たっていた。
「分かりました」
それだけ言うのが、精一杯だった。
患者として、
「理解のある人」でいることが、求められている気がした。
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その夜。
佐藤は、久しぶりに、何も考えずに泣いた。
理由を分析しない。
意味を探さない。
ただ、涙が出た。
名前を呼ばれた記憶。
沈黙を共有した時間。
「分からなくてもいい」と言われた声。
それらが、すべて過去形になった。
——治療のため。
そう言い聞かせようとするたび、
胸の奥が、否定する。
——それでも、あれは、本物だった。
正しかったかどうかは、分からない。
だが、偽物ではなかった。
佐藤は、布団の中で、小さく呟いた。
「……私は、ちゃんと人だった」
誰かに証明してほしかった言葉。
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一方、桐島は、同じ夜、診察室で一人、灯りを落としていた。
佐藤に、直接説明することは、許されなかった。
それが、組織の判断だった。
——守るため。
そう言われた。
だが、何を守ったのか。
誰を守ったのか。
桐島は、机に手を置き、深く息を吐いた。
医師としては、正しい判断だったのだろう。
それでも、人として、
あの沈黙を、引き受ける覚悟は、まだ足りなかった。
駄目な精神科医 真田直樹 @yukimura1966
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