章末解説:白のまなざし

本章の背景には、15世紀前半から中葉にかけての東ヨーロッパおよび黒海周辺世界に特有の、複雑で不安定な社会構造が存在する。


以下は、その理解を補助するため、本章に関わるいくつかの「キーワード」を軸に、当時の社会的・歴史的背景を整理したものである。


尚、以下は、断定的な歴史解説ではなく、本章に描かれた人物と状況を理解するための視点整理である。



【1】奴隷

中世ヨーロッパおよび周辺地域において、「奴隷」は単一の身分ではなく、様々な存在を含んだものだった。


・奴隷(chattel slave):完全に所有物として売買される存在

・家内奴隷/技能奴隷:家庭内労働や専門技能を担う者

・捕虜奴隷:戦争捕虜として一時的または恒久的に隷属する者

・債務奴隷:借金返済のために拘束される者

・農奴:土地に拘束されるが売買は原則不可の存在


これらは法的・宗教的・地域的慣習によって扱いが異なり、どこからどこまでが奴隷で、どんな者が奴隷であるか否かは明確な線引きが存在しなかった。


とりわけ、舞台となる都市カッファを含めた黒海交易圏では、人そのものが「商品」「労働力」「担保」「象徴」のいずれとして扱われるかは、その時々によって変わり、非常に流動的であった。


ミレーナのような存在は、これらいずれにも完全には当てはまらず、

その「分類不能性」そのものが価値と危険の両方を生んだ。



【2】都市カッファ・黒海交易圏

黒海沿岸、とりわけカッファは、以下の文明圏が交錯する交易拠点であった。


・ラテン-カトリック世界(ジェノヴァ商人)

・ギリシア正教世界(ビザンツ文化圏)

・イスラム世界(マムルーク朝・オスマン勢力)

・遊牧民社会(タタール系諸集団)


この地域では、国や宗教の法体系や秩序も完全な支配力を持たず、慣習と実利が優先された。


その結果、奴隷売買が合法的に行われる一方で、宗教的禁忌や倫理が選択的に適用されるという矛盾が常態化していた。


黒海交易圏は「秩序の中心」ではなく、秩序が常に交渉される境界空間だった。



【3】アルビノ、銀髪赤眼

中世社会は、特徴ある外見や身体について、周りから意味を与えることがごく自然な社会だった。

身体的特徴は単なる個性ではなく、宗教的・政治的意味を付与される対象であった。


特異な外見は、神の徴、悪魔の印、王権や奇跡の象徴として解釈された。

その為、異形・異色の身体は、見せ物、聖遺物、呪物として扱われることがあった。


ミレーナのような希少な外見は、「保護」ではなく「意味付け」の対象となることが多く、本人の意思とは無関係に役割を押し付けられた。


この社会において、身体は自己を表現するものではなく、他者によって解釈される記号だった。


その為、異形の身体を持つ者は「見る存在」ではなく、常に見られ、解釈され、意味を割り当てられる側に置かれた。

それは、生きること以前に「何者かであること」を強制される状態でもあった。


【4】文字と記録

中世の歴史記録は、極めて限定的な人々のみを対象としている。


支配者や聖職者や商人・都市エリートは、記録されやすい存在であるのに対し、奴隷、女性、子ども、異端・異民族は記録から消えやすい・記録されない存在だった。

名前・出自・経歴を記録されないことは、単なる忘却ではなく、社会的に存在しないことを意味した。

そのため、文字を学ぶこと、記録に関与することは、生存や自由以上に重要な意味を持つ場合があった。


記録することは、保護であると同時に、管理と支配でもあった。



【5】救済

この章において、救済について言及するシーンはないが、よりよい理解の為に一部解説を行う。


中世における「救済」は、現代的な意味での人道主義とは異なる。

この時代の救済とは、正しさの提示であり、価値の再定義を伴う行為である。


多くの場合、救う側が基準を決定し、救われる側は選択権を持たない構図となっている。

そのため、救済はしばしば支配・改宗・隷属の正当化装置として機能し、「救われること」と「選ぶこと」は、必ずしも一致しなかった。



【6】歴史的背景:ロシア正教会の独立(1448年)


1448年、ロシア正教会(モスクワ府主教座)の事実上の独立が行われた。


この年、モスクワ公国は、コンスタンティノポリ総主教の承認を得ることなく、独自に府主教を任命する。

これは、教会法上は異例の措置であり、形式上は分離状態に入ったことを意味する。


これは単なる宗教問題ではなく、正統信仰の解釈権・異端認定の権限・精神的支配の中心を巡る政治的再編でもあった。


この分裂により、「正しい信仰」「正しい人間」という基準はさらに揺らぎ、境界地域に生きる人々は、複数の正しさに同時に晒される状況に置かれた。



●フィレンツェ公会議と正統性の断絶

この決断の直接的背景には、フィレンツェ公会議(1438–1439年) があった。


15世紀前半、 ビザンツ帝国(東ローマ)は、軍事的危機の中で、ローマ教皇(西ローマ)との教会合同を選択した。


・教皇首位権の承認

・教義上の妥協


ローマ教皇(西ローマ)の優位を認め、東ローマから西ローマに歩み寄る形での教義の妥協だった。

これらを含む合同は、ビザンツ側にとっては「生存のための政治的判断」であった。


しかし、モスクワ側はこれを正統信仰の放棄と受け取った。

モスクワ公国にとって重要だったのは、教会の存続ではなく、信仰の純粋性である。


そのため、コンスタンティノポリが合同を受け入れた時点で「東ローマにおける正統性は失われた」と判断した。

その為、正統信仰を保持する側が、自ら教会を維持すべきであるという論理が形成された。


1448年の独自府主教任命(ロシア正教会の独立)は、この論理の帰結となった。



●キーウ系正統性の継続

一方、キーウを中心とする正教会系譜は、コンスタンティノポリとの関係を維持し、フィレンツェ公会議後も教会秩序を重視するという立場を取り続けた。


キーウは、東スラヴ世界における最初の正教受容地(988年)であり、使徒継承と教会法秩序の連続性を正統性の根拠としていた。


そのため、モスクワは「正統信仰を守った者」。キーウ系は「歴史的・教会的正統性を継承する者」という、正統性の基準そのものが分岐することになる。



●境界地域への影響

この分岐は、黒海北岸・ルーシ諸地域において、同じ正教徒でありながら"異端視"・"不信"・"忠誠確認"の対象となるという状況を生んだ。


信仰は個人の内面に留まらず、政治的帰属と共同体の選別装置として機能するようになり、時には略奪や暴力の正当化装置として利用された。


その為、ミレーナが村を襲撃した者達の言葉と祈りを知っていても、聖人を知らないという分断が生じた。


・Преподобный Сергий Радонежский(尊者セルギイ・ラドネシスキー)


ロシア正教会の独立は、帝国崩壊後の結果ではなく、正統性判断をめぐる能動的選択として、行われたが、それは、どの教会に従うか、何をもって「正しい信仰」とするかという問いに対する、異なる答えが同時に存在し得ないという現実が生んだ分岐である。


この構造は、境界に生きる人々の運命を、静かに、しかし確実に分けていった。

その分断は、五百年を経た現在にまで連なる、深い溝となっている。

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horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王 つみ² @tsumi2

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