第9話:水平線を前にして
1449年6月
中庭に差し込む陽光は鋭く、白い石畳が照り返す熱気は、春のそれをとうに追い越している。
ミレーナは回廊の影から、その光の渦を眺めていた。
足元に落ちる、濃い影がひとつ。
それは、彼女の肉体がたしかにこの世界に繋ぎ止められているという、無機質で確かな証明だった。
傷は癒え、泥のような眠りは遠のいた。
自分の足で歩き、自分の頭で明日を考える。
そして何より――記憶の断片を、一本の糸で手繰り寄せることができるようになった。
ひとりひとりの顔と思い出が浮かぶ。
ナディラのぬくもりとパンの味わい
ファーティマの慈しむ眼差しと薬草の匂い
レオニダスの穏やかな声と蝋板
トゥマニの揺るぎなさと甘い果実
マッテオの軽やかな話に屈託のない笑顔
サムエルの厳しい視線と深い愛情
アントニオの迷いのない真っ直ぐな思い
「ラウロ」という名の、不在にして巨大な引力。
ミレーナは、自分を生に繋ぎ止めたその存在の正体に興味を抱き、彼らに尋ねた。彼らはそれぞれが違う言葉で、違う角度から、話をしてくれた。彼らが語る物語は一つに収束し、朧げながら人の姿を形どる。
「私は…どうなっていくんだろう」
独り言は熱い風にさらわれたまま、答えは返ってこない。ミレーナを包む安心と心の片隅に湧く不安とが交差する。胸の奥で何かが芽吹く確かな疼きがあった。
⸻
同じ頃。
風の抜けない執務室で、ラウロは机上の報告書に目を落としていた。
【健康状態:良好】
【精神状態:安定】
【継続治療:不要】
事務的な筆致。過不足のない事実。
ラウロは肺にある熱をすべて吐き出すように、深く息をついた。
「……そうか」
安堵はあった。確かにあった。
あの日の彼女は、いつ壊れてしまってもおかしくなかった。体は強張り、睡眠も取れていない、感情の発露もない。何より、食べない。そんな生と死の境界が溶け合う、底なしの泥濘から彼女は生還した。だが、それと同時に、避け続けてきた問題が、ようやく目の前に立った。
アルビノ。銀髪赤眼。
その希少性は、この世界において呪いと同義だ。
王宮の奥、貴族の歪んだ蒐集癖や慰み者、あるいは教会の奇跡の証や悪魔の徴として――彼女を待ち受ける「需要」は、どれもが彼女の尊厳を削り取る未来しか予感させなかった。
分かりやすい選択肢が並ぶ。だが、そのどれもが自分にとっては、良い選択だとは思えなかった。最初から分かっていた話だ。一年、考え続けた。だが、答えは出なかった。
(……甘いな、ラウロ。贖罪のつもりか?そんなもの偽善でしかないぞ…)
眉間に皺を寄せた師サムエルの苦々しい顔と言葉が脳裡に浮かぶ。
一年。彼女の回復を待つという大義名分のもと、決断を先送りにしてきたツケが回ってきたのだ。
控えめなノックの音が、思考の連鎖を断ち切った。
「入れ」
扉が開き、ミレーナが姿を見せる。
8歳くらいの少女。白銀の髪、純白の肌、赤い瞳。あの頃に見た折れそうなまでに酷く痩せた体はそこにはなく、虚空を見つめたその眼には生気が宿っていた。ラウロはホッとしたと同時に彼女と共に歩んでくれた仲間達に感謝した。
これから始まるのは、奴隷達と重ねてきたいつもの面談と同じもの。名前、状態、特性。形式的な問いと答え。そして今後に向けての宣告。
だが、椅子に座るよりも早く、彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「この一年、ここで……生き直すことができました」
ラウロは一瞬、呼吸を忘れた。
顔を上げた彼女の瞳は、緊張に微かに震えながらも、逸らされることなく彼を射抜いている。
「そうか」
「そう捉えて貰えるなら、皆にとっても光栄だろう」
ラウロは感謝の言葉を仲間と共に受けとめた。
「座りたまえ」
ラウロは驚きを抑えながら、ミレーナに着席を促す。ミレーナの着席を確認したラウロは、ミレーナにひとつひとつ質問していった。いつものように。そして、いつもの問いを最後に投げ掛ける。
「今の気持ちについて、率直な思いを聞かせて欲しい」
彼女は堰を切ったように語り始めた。
カッファで出会った人々、交わした言葉の温度、初めて口にした異国の料理、そして、何の意味もなく笑い合った時間のこと。
サムエルの名が出た際、ラウロの眉根が僅かに寄ったが、彼は黙って彼女の言葉をすべて受け止めた。
話が一段落し、沈黙が部屋を満たす。
ラウロは組んだ指に力を込め、絞り出すように問うた。
「……君は、どうしたい?」
いつもとは違う言葉が漏れた。いつもはここで告げる。アル=イスカンダリヤに向かうこと、或いはアル=カーヒルが新天地になることを。
ミレーナを前にして溢れた言葉は、奴隷商人としては不合理で理解され得ぬものだった。
「故郷に近い村へ送ることもできる。あるいは、身を隠せる修道院も。君が望むなら、私はそれを拒まない」
ミレーナは、少し考えた。
視線を窓の外、遠い水平線へと向ける。
わずかな沈黙の後、彼女の唇からこぼれたのは、ラウロの予測を鮮やかに裏切る言葉だった。
「あなたの航海に、連れて行ってほしいです」
ラウロは瞬きをした。
「……それは」
完全に想定外だった。沈黙が落ちる。彼女を待たせたのは自分だ。回復という理由で、決断を先送りにした結果でもある。だが腑に落ちない。
「なぜだ」
「私は…」
「世界を怖いままにしたくないからです」
ミレーナは訥々と語り始める。その思いを乗せて。
ミレーナは世界を「怖い場所」から「理解できる構造」に変えたかった。
かつてのミレーナにとっての世界は、突然壊れるものだった。説明がなく理由なく奪われるものでもあった。
だが、商館で過ごす中で彼女は知る。
人は、それぞれ立場と理由を持って行動していることを、残酷さにも構造と事情があることを。
そして、それを理解した上で「別の選択」をする人間がいることも。
ラウロは、その最前線に立っていた。
ラウロは世界の残酷さを否定しない。
だが、そこに介入する余地があると知っている。
ミレーナは思っていた。
怖いのは、世界そのものではない。
理由が分からないまま、飲み込まれることだと。
「だから…
私は、世界がどう動いているのかを、マスターの横で見たいと思ったのです」
ミレーナの話を聞き終え、ラウロは目を瞑り俯いた。しばらくの沈黙を置いてラウロはつぶやく。
「それは違うな」
ラウロが言葉を重ねる。
「君にその言葉を言わせるも違う」
「君が私に申し出るのも違う」
「これは私が君にお願いしなければならない話だな」
少し間を置いて続ける。
「申し訳ない。全ては私の至らなさだ。
どうやら今の私には、君の運命を導く知見も度量もなかったようだ」
「だから……君の運命を導けるその時が来るまで、しばし私の航海に同行してもらえないか」
ミレーナの目が見開かれる。
お願いだった。
命令ではなかった。
「私が見てきた世界を、君にも見てほしい。そこで改めて、君自身の行き先を決めて貰えたら良い」
ミレーナは、しばらく言葉を失っていた。
呆然と彼を見つめていた。
けれど、その困惑はやがて、深い納得へと変わっていく。そして、その沈黙の中で、彼女の中の印象が、ひとつに重なった。
ナディラやレオニダスや皆が語っていた「ラウロ」という男。
逃げない人。
切らない人。
答えを持たないまま、目の前の人と向き合う人。
それも誠実に。
(やっぱり)
この人は、そういう人なのだ。
皆が惹かれる理由が、今、すとんと胸に落ちた。
ミレーナは深く息を吸い、凛とした声で応えた。
「……お願いします」
執務室の窓から、港が見える。
港では停泊するガレー船の帆が、来るべき風を孕んで小さく震えている。
二人はまだ、何者でもない。
地平の果てに何があるのか、その答えも持っていない。
けれど、二人の視線は今、同じ海の色を見つめていた。
今は、それで十分だった。
【ミレーナの日記】
1449年6月xx日
今日は、マスターと話をした。
とても大事な話だったと思う。
でも、終わったあと、胸が苦しくならなかった。
それが、少し不思議だった。
最初にここに来た頃のことは、もうよく思い出せない。
夜のことも、怖かったことも、途切れ途切れだ。
でも、今はそれでいいと、ナディラは言ってくれた。
この場所で、たくさんの人に会った。
名前を呼ばれて、話をして、一緒に食べた。
ナディラは、何も聞かずに側にいてくれた。
ファーティマは、体のことを教えてくれた。
レオニダスは、名前の書き方を教えてくれた。
トゥマニは、強い人だった。
でも、甘いものが好きだった。
マッテオは、世界は楽しいと教えてくれた。
サムエルは、最初は怖かったけど、本当は優しい人だった。
アントニオは、迷わず前を見ていた。
みんな、同じことは言わなかった。
でも、不思議と、同じ人の話をしていた。
マスター・ラウロ。
私は、最初、あの人が怖かった。
声も、目も、近づき方も。
でも、それは
「何を考えているかわからない」怖さだった。
今日、はっきり分かった。
あの人は、答えを先に持たない人だ。
それでも、考えることをやめない人だ。
世界は、まだ少し怖い。
でも、理由が分からないまま怖がるより、
理由を知ってから考えたいと思った。
だから、船に乗りたいと思った。
連れて行ってほしいと言った。
そしたら、お願いされた。
命令じゃなかった。
びっくりした。
でも、少しうれしかった。
私は、どうなっていくのかな。
どこに行くかも、何になるかも、分からない。
でも、前みたいに、
何も分からないまま怖がることは、
もうしなくていい気がする。
日差しは、まだ少し眩しい。
でも、前より、ちゃんと目を開けられる。
忘れたこともあるし、覚えていることもある。
でも、これから見るものは、
ちゃんと覚えていたい。
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