第8話:忘却のしるし

1449年5月

陽は高く、カッファに吹く風はどこまでも穏やかだった。商館の中庭には、天日に干された薬草の乾いた香りが漂い、洗い立ての白い布が帆のように誇らしげに揺れている。ミレーナは、暖められた石の縁に腰掛け、両手で湯飲みを包み込んでいた。かつての凍てついた沈黙は、今や遠い日の夢のようだ。


「ねえ、ナディラ」


彼女の声は、春の陽光を反射する水面のように明るい。かつての掠れも、何かに怯えるような詰まりもない。あの地獄のような春を知る者からすれば、その声そのものが奇跡に等しかった。


「私ね……

 最初にここに来た夜のこと、実はあまりよく覚えていないの」


ミレーナは困ったように眉を下げ、小さく笑った。


「怖かったはずなんだけど……たぶん。

 でも、どこまでが怖くて、どこからが安心だったのか、その境目がとてもぼんやりしてて」


ナディラは、乾いた布を畳む手を止めずに、耳だけを彼女に向けていた。相槌は打たない。ただ、彼女の中から溢れ出す言葉が、空気に溶けていくのを待つ。


「覚えているのは、匂いだけ。石鹸の清潔な匂いと、スープの白い湯気。あと……」


ミレーナは少しだけ首を傾げた。


「誰かの、とてもあたたかい体温」


「……」


「でもね、その“誰か”の顔が出てこないの。

 声も、かけられた言葉も。

 ただ、ああ、もう大丈夫なんだって思った感覚だけが、心の奥に残ってるみたい」


それは、記憶の欠落だった。

だが、それは生命が前へ進むために選んだ、極めて健やかな欠落の形だった。


ナディラは、そこで初めて手を止めた。

ゆっくりと振り返り、ミレーナを見る。

陽光に透ける白い髪、健康的な赤みを帯びた肌、そして迷いのない瞳。


――元気だ。

――この子は今、ちゃんとこの瞬間に留まっている。


それを確かめてから、ナディラは微笑んだ。

それは何も失っていない者の無垢な笑みではない。

かといって、何かを奪い返した者の傲慢な笑みでもない。

ただ、激流の中で手を繋ぎ、共に生き延びた者だけが浮かべられる、静かな、祈りのような表情だった。


「思い出さなくていいわ」


ナディラは静かに、だが確信を持って告げた。


「思い出せないのなら、それはもう、あなたの中で役目を終えたということよ」


ミレーナは不思議そうに目を瞬かせた。


「……そういうもの?」


「ええ、そういうものよ」


ナディラは再び、布を畳み始める。


「あの夜は、遠い未来のための時間じゃなかった。ただ、次の朝まで生き延びるためだけの夜だった。

 明日の太陽を見るためだけに、すべてを使い果たした夜だったのよ」


ミレーナはしばらく考え、やがてその言葉の重みを受け入れるように、ふわりと笑った。


「そっか。じゃあ、私はもう忘れていてもいいんだ」


「いいのよ。ずっと」


その言葉に、理由は要らなかった。説明は蛇足でしかなかった。

ミレーナは湯飲みを置き、軽やかな足取りで立ち上がる。かつての、床に縫い付けられたような背中は、もうどこにもない。


「ありがとう、ナディラ。

なんだか、すごく大事なことを教えてもらった気がするわ」


ミレーナは弾むように歩き出し、日常の雑踏の中へと消えていく。彼女はもう、振り返らない。

ナディラは、その去りゆく背中を、逆光の中で見送った。


――あなたが覚えていないなら、それでいい。

――私が、それを覚えておく。


その記憶の非対称は、消えない傷ではない。

ナディラにとって、それは慈悲という名の「役割」だった。


風が布を大きく揺らし、石畳に薬草の長い影を落とす。ナディラは胸の奥で、一度だけ、深く静かに息を吐いた。あの夜のことを、物語らなくて済む世界に、この子は辿り着いた。


その背中の小さなが、今はただ誇らしかった。

それで十分だった。




【ナディラ手記/回復記録・終】


1449年5月

カッファ

ミレーナの回復記録を、ここで閉じる。


眠れる。

食べられる。

歩ける。

周りの人と自分から関われる。

問いを立て、自分の言葉で答えを探している。


夜に怯えて目を覚ますことは、もうない。

声を失うこともない。

触れられることへの過剰な警戒も見られない。

身体は生きる準備を終え、

心は「今」に留まっている。


最初の夜の記憶について、本人は多くを覚えていない。

匂いと体温だけが残り、顔も声も輪郭を失っているという。


それを聞いて、私は安堵した。

思い出さなくていい。

思い出せないなら、それでいい。

あの夜は、未来のための時間ではなかった。

ただ朝まで生き延びるための夜だった。

役目を終えた記憶は、残らなくていい。

忘れているという事実そのものが、

この子が前に進んでいる証だ。


私は覚えている。

だが、それはこの子の荷ではない。

私の役割だ。


回復とは、すべてを取り戻すことではない。

必要なものだけを残し、不要なものを手放すことだ。


ミレーナは、もう自分で歩ける。

以後、治療・経過観察の必要なし。

薬草処方、不要。

見守りのみ。

――この記録は、これにて終わる。


忘れたまま、生きていけるなら。

それ以上の回復は、存在しない。


ナディラ

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