第6話:港の少年、館の少女

1449年3月

春の兆しはまだ遠く、街を包む空気は剃刀のような鋭さを含んでいた。

湿った潮気が石造りの建物を濡らし、灰色の空を背景にラウロ商会の重厚な門がそびえ立っている。そこは、カッファの喧騒から切り離された、奇妙なほどに静謐な聖域だった。


ミレーナは、いつものように館の内側にいた。

彼女にとって、世界はこの壁の内側で完結している。外の世界へ手を伸ばす理由も、外へ出るための許可も、彼女は持ち合わせていなかった。


中庭に面した回廊の奥。

ミレーナは、石柱に背を預けて座り込んでいた。

目の前では、ナディラが洗い立ての布を丁寧に畳んでいる。規則正しい手の動き、布が擦れる微かな音。ミレーナは、そのリズムに思考を委ねるのが好きだった。


その時、門の方がわずかに騒がしくなった。

それは商人の打算に満ちた野太い声でも、兵士の荒々しい怒声でもない。

まだ変声期を迎えきらぬ、高く、張り詰めた少年の声。


「……ここ、ラウロ商会で合ってますか?」


ミレーナは顔を上げた。

視線の先、門扉の隙間に一人の少年が立っていた。


陽光を吸い込んだ浅黒い肌。潮風に洗われた身軽な衣服。その立ち姿だけで、彼が荒波と市場の喧騒に揉まれてきた「港の住人」であることを物語っている。


アントニオ・バッサーノ、十三歳。


彼は今、必死に視線を巡らせていた。

大商館を想像していたわけではない。噂に聞く“異質な奴隷商会”。少なくとも奴隷商人で儲かっているという情報からは、もっと禍々しいか、あるいは成金趣味な商館を想像していた。

しかし、目の前の光景はあまりに静かで、奴隷商館特有の人を押し込める「檻」の気配が微塵もない。

あまりに静か過ぎる異質さにアントニオは困惑していた。


(……本当に、ここか?)


港で聞いた話は、どれも胡散臭かった。


奴隷を教育して価値を高める

経費が非常に掛かりそうなのに儲かっている

タタール人に一級品を卸している

それなのに、商船の沈没も、奴隷の反乱や逃亡も、不吉な噂が一切聞こえてこない


計算が合わない。理屈が通らない。だが、その「歪み」こそが、アントニオをここまで突き動かした好奇心と野心の正体だった。


彼は門番に向かって、真っ直ぐに宣言した。


「仕事を探しているんです。

ここで働きたいんです。

学ばせてほしいんです。

お願いします」


門番の男は、すぐには答えなかった。

値踏みするように少年を見つめ、それから無意識に視線を館の奥へと流した。


その視線を追った先で、ミレーナと目が合った。


真っ白い少女。

銀色の髪。

赤い瞳。


一瞬、思考が凍りつき、鳥肌がたつ。


(……なんだ?…人間…なのか…?)


ここは奴隷商館だ。どんな人がいてもおかしくない。絶望に打ちひしがれた人間や、恐怖に怯える子供なら嫌というほど見てきた。だが、この少女は一体。

彼女は隠れようともせず、ただ透明な眼差しで、こちらを「観察」している。


アントニオは何かしらの深淵を覗き込んだような、心の奥底まで見透かされているような、言葉にならない思いを抱いた。



ミレーナもまた、少年を見ていた。

彼からは、港の強い匂いがした。魚の鱗、波しぶき、そして焦燥。

ラウロやレオニダスが持つ、完成された冷徹さとは違う。真っ直ぐで純粋な、理想に向かって歩もうとする強い意志を感じていた。


その直感に根拠はなかった。

けれど、彼が放つ「ここではないどこか」を渇望するエネルギーは、静止した館の空気の中で鮮烈に浮き上がって見えた。



門番が改めてアントニオの方を向いて告げる。

「ただ今、主は不在だ」

門番のあしらいに、アントニオは唇を噛んだ。

だが、すぐに視線を強めて頷く。

「それでもいいです。待ちます」

その返答に、門番が困ったように眉を上げる。


少年の熱意に揺り動かされてか、ミレーナの唇が不意に動いた。


「……マスターは海に出てるので、しばらく帰ってきません」


小さな、けれど凛とした声が風に乗って届く。

アントニオは驚いて彼女をみつめる。


「君は…?」


「私は、ミレーナ。タタールの商人さんがこの街に来る頃にはマスターも戻ってる」


その響きには、年不相応な程に落ち着きがあり、聞き逃せないような存在感があった。

アントニオは思わず、屈託のない笑みをこぼした。


「そうか。」

「じゃあ仕方ないね。

わかった、出直すよ。」

「マスター、て呼ぶという事は、君も――この商会の一部なんだね」


ミレーナは、少し考えた。


「……たぶん」


曖昧な答え。

けれど、アントニオの胸にはその言葉が妙に重く残った。

彼は改めて館を見渡した。

港は、奪い合い、勝ち残るための戦場だ。

けれどここは、何かが熟すのをじっと「待つ」ことが許されている場所のように思えた。

それが、少年には新鮮で、同時に眩しく見えた。


「また来る」


アントニオは短く告げると、迷いなく踵を返した。その足取りは、先ほどよりも確信に満ちているように見えた。ミレーナは、遠ざかる背中をじっと見送った。


門の向こうへ歩き出す少年の背と、回廊に残る少女の足元に、同じ淡い光が落ちていた。

それはまだ春ではなかったが、冬の終わりを告げるには、十分だった。



【アントニオの日記】

1449年3月


今日は、ついに噂のラウロ商会に行った。

主はいなかった。


思ってたのと、全然ちがった。

もっと、うるさい場所だと思ってた。

怒鳴り声とか、そういうのがあると思ってた。

びっくりするくらい、静かだった。


門の奥で、白い女の子を見た。

正直、おばけを見たと思った。

ずっとこっちを見てる。

逃げないし、隠れもしない。

ずっと、じっと、見てる。


……ちょっと、こわかった。

そわそわした。


門番と話してたら、その子が声を出した。


小さい声だったけど、よく通った。

「マスターは海に出てる」って。


あの子に、正体を聞くのを忘れてた。

館の子なんだろ?って聞いたけど、

なんだか、よく分からない返事だった。


早く、ちゃんとした仕事を見つけないといけない。

僕は、みんなに負けたくないから。


あの館は、怖いっていうより、変な感じがした。

商売する人の建物なのに、空気が違う。

港とも違う。

なんだろう。


白い子に、また来るって言っといた。


主に会ってみたいし。

それは本当だ。


でも、なんであの子に言ったんだろ。

理由は、よくわからない。

また会えるような気もする。


白い子。

名前は……ミレーナ、だっけ。


あれは、忘れられないな。

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