第5話:黒帳簿の観測者

1449年1月

年が明けたカッファは、冬の底にあった。

港から吹き上げる風は湿り気を含み、石造りの商館の廊下を冷やしていく。風は鋭く、カッファの街を灰色に沈めていた。


サムエル・ベン・エリアスは、用件を終えた執務室の扉を静かに閉め、歩を進めた。


帳簿は問題なし。

資金繰りも健全。

人員配置も、――相変わらず、理解しがたいほど「非効率」だが、破綻はしていない。


(……あの馬鹿弟子め)


ラウロは海に出ている。

一年の大半を交易に費やし、カッファの商館には春から夏にかけてしか戻らない。

不在中の対応は、元聖職者の男――レオニダスが副官として担っていた。

この館は、副官の存在も相まって商館というより療養所と学舎に近い。

大きな取引は舞い込まない。

トラブルも起きない。

だが、それがかえってサムエルの神経を逆撫でする。頼られないのが、一番気になるものである。


子会社の監視。

そう自分に言い聞かせながら、彼は定期的にここを訪れていた。


重厚な外套を翻し、ラウロの商館を後にしようとしていたサムエル・ベン・エリアスは、廊下の角で小さな影とぶつかりそうになった。


――白い。

髪も、肌も、目の縁さえも。

一瞬、光が人の形を取ったかのように見えた。


少女はサムエルの存在に気づいた瞬間、立ち止まった。

空気が変わったことを、本能的に察したのだろう。


「こ、こんにちは」


即座に、挨拶。

声は震えているが、逃げない。

サムエルの琥珀色の眼が、少女を射抜いた。


「……ほう」


噂に聞いていたアルビノは、これか。

なるほど。

目立つ。

扱いに困る。

売り先も限られる。


(また、処分を先延ばしにしたな、ラウロ)


師にはお見通しだった。

情を捨てきれず、かといって現実を無視もできず、時間を稼ぐために彼女をこの「箱庭」に囲い込んだ。

商館に療養を命じ、自分は海へ逃げた。

あの弟子は今も、海の向こうで迷っているに違いない。


(相変わらず、甘い小僧め)


だが、決断から逃げるわけでもない。

誰かに押し付けるわけでもない。

時間をかけて、静かに抗う。

その様子を観測するのは、悪くない娯楽でもあった。

口元に皮肉な笑みを浮かべながら、サムエルは目の前の少女へと言葉を投げた。


「私を、知っているか」


唐突な問い。

試すような声。

ミレーナは僅かに身をすくめたものの、視線は逸らさなかった。この男が纏うものは、かつてラウロと初めて会った時に感じたものと同質、いや、それ以上に濃密で完成された商人の空気だった。


少女は一拍置き、答えた。


「いえ、知りません。

私はミレーナと申します」


一瞬の沈黙。


先に名乗る。

余計な言葉はない。


(……この年で、この判断か)


サムエルは少女の分析力に舌を巻いた。


怯えない。


だが、無防備でもない。

そして、自分の正体を探るより先に、まず自らの身元を明かすことで相手の出方を伺う。この年齢で、この圧迫感の中で、最短の正解を選び取った。


「文字は書けるか。計算はどうだ」


畳みかけるように問う。


「計算は、まだです。でも、数はわかります」


正確だ。

出来ないことと、分かることを分けて答える。

的確すぎる答えに、サムエルは、思わず口元を歪めた。

笑いを堪えたのだ。

怯えに支配されず、状況を読み、最速で言葉を導き出す。


「名乗りが遅れたな。

私はサムエル・ベン・エリアス。ラウロのボスだ」


ミレーナの中で、すとんと何かが落ちた。


(やっぱり)


あの、商館に入った瞬間に感じた圧。

ラウロが纏っていた空気の源はこの人からのものだ。


「よろしくお願いします」


礼は簡潔。

過不足なし。

ミレーナの瞳に納得の色が浮かぶ。その様子を見て、サムエルはさらに一歩踏み込んだ。


「ところで、ミレーナ」


サムエルは、少しだけ声を落とした。


「私のことは、怖くないのか」


ミレーナは、正直に答えた。


「……怖いです。

でも、今すぐ逃げる必要はないと思います」


一瞬、時が止まった。


(なるほど……)


ミレーナは恐怖を否定しなかった。

それでいて、感情に支配される素振りもなかった。


サムエルの胸に、久しく感じていなかった高揚感が沸き上がった。まるで、新しい鉱脈を見つけたかのようなあの感覚。

極上の原石を見つけ出した職人のような微かな愉悦が胸の奥に広がる。

弟子への不機嫌は、この好奇心をそそる少女への興味に塗り替えられた。


「甘い物は好きか」


唐突に話題を変える。


「ここは寒い。

暖かい飲み物でも飲みながら、お前の話を聞かせてくれんか」


弟子への不満と苛立ちは、すでに霧散していた。

ミレーナは、緊張の糸が切れたように、少しだけ声を弾ませる。


「甘い物は、だいすきです。

暖かいものも、だいすきです」


「左様か」


サムエルは満足そうに頷いた。


「ついてこい。

心配は無用だ。レオには私から伝えておく。

帰りはウチの者が送る」


そう言って、踵を返す。

ミレーナは一瞬迷い、そして付いていった。




サムエルの館

サムエルの邸宅は、ラウロの商館とは比べものにならないほど豪華でありながら、主の趣味を反映してかどこか落ち着いた静謐さを湛えていた。

自室に戻り、威圧感の象徴だった外套を脱ぎ、商人の顔を下ろした。


そこにいたのは、好々爺然とした老人だった。


「さあ、遠慮はいらん。これはヴェネツィアから取り寄せた菓子だ」


温かな湯気を立てる飲み物と、蜂蜜たっぷりの甘い菓子。


サムエルはミレーナの過去を問うことはしなかった。代わりに、彼女が今、何に心を動かされ、何に興味を持っているのかを、一つ一つ丁寧に拾い上げていった。


好きなもの。

安心できる場所。

興味のあること。


「ラウロという男は、商才はあるがどうにも甘い。

もう一人の弟子も、頭は回るが性格に難があってな……」


二人の弟子――ラウロともう一人の人物の話になると、彼は苦々しくこき下ろしながらも、その言葉の端々に不器用なほど深い愛情を滲ませた。


サムエルは、ミレーナの視線に気づき、内心で微笑んだ。


(……面白い)


ラウロとも、ジュリアーノとも違う。


この少女は、別の道を拓くかもしれない。

その可能性が、久しく忘れていた感情を、サムエルの胸に呼び起こした。




【サムエル私記/観測覚書】


1449年1月 カッファ


ラウロ商館にて、

噂の少女ミレーナと初めて対面。


アルビノ。

身体的脆弱性はあるが、精神は驚くほど均衡している。


第一印象:

恐怖を即座に把握し、否定せず、制御している。

これは教えられた反応ではない。

生存の過程で獲得した判断様式だ。


問いへの応答が正確。

出来ないことを誇張せず、出来ることを過小評価もしない。

名乗りの順序、間の取り方、視線の置き所。

年齢不相応だが、異常ではない。

――環境がそうさせたのだろう。


計算能力は未修得。

ただし数概念は把握済み。

教えれば伸びる。


興味深いのは、

こちらを「脅威」と認識した上で、

“即時回避は不要”と判断した点。


恐怖と安全を、感情ではなく状況で測っている。

これはラウロにはない資質。

ジュリアーノとも異なる。


総合評価:

理解力が高い。

だが、理解したからといって切断しない。

受け入れるが、飲み込まれない。


これは危険だ。

同時に、稀有でもある。


ラウロは、この少女を見て迷っている。

当然だ。

彼は「理解した後に苦しむ者」だからな。


私は――

この子が、理解したまま別の選択をする可能性を見た。


期待か?

否。


観測価値が高い、というだけだ。


……それにしても。

甘い物を差し出した時の反応は、年相応だった。

あれは、悪くない。


結論:

当面、保留。

干渉不要。

だが、見失うな。


――記録終わり。

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