第4話:蝋板の名前

1448年11月

年の暮れも差し迫るカッファの冬は、黒海から吹き付ける湿った風が骨の髄まで冷やした。


レオニダスが受け持つ読み書き教室に、ミレーナが通い始めてしばらくが経つ。教室に並ぶのは、彼女と同じ奴隷の境遇にある者たちだった。屈強な男もいれば、年季の入った顔つきの女、まだ幼さの残る少年もいる。だが、ミレーナと同年代の少女の姿はそこにはなかった。


周囲の反応は一様ではない。好奇の目で見られることもあれば、身の程知らずだと冷笑されることもあった。かつての村で浴びた視線と似ていたが、今のミレーナは以前ほどそれらに心をかき乱されずに済んでいた。ファーティマやナディラといった、自分を一個の人間として扱ってくれる存在が、彼女の心に確かな土台を築いていたからだ。


館の一角にあるその教室には、石造りの壁を温めるような静かな熱気が満ちていた。

部屋には、蜜蝋を塗った蝋板(ワックス・タブレット)独特の甘い香りが漂っている。冬の空気を吸った鉄筆は冷たく、ミレーナも鉄筆の冷たさに一瞬息を詰めた。


※この頃、紙はまだ貴重品であり、庶民や初学者が文字の練習に使うのは、木枠に流し込んだ黒い蝋を鉄筆(スタイラス)で削るこの道具が一般的だった。


レオニダスは、最後の少年が部屋を出ていくのを見送ると、パチパチと音を立てる炉の火を整えた。ふと振り返ると、ミレーナが一人、自らの席に残っている。

彼女の手元には、使い古された蝋板があった。

鉄筆を握る指先は赤く、ひどく緊張している。


「……ミレーナ。何か、困ってないかい」


声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らしたが、すぐに首を振って一枚の板を差し出した。

そこには、無数の「削り跡」があった。何度も何度も、ヘラの方で蝋を平らにならし、再び書き直した跡だ。その中心に、まだ不格好ではあるが、力強い筆跡で彼女の名が刻まれていた。


「……私の、なまえ」


ミレーナが、消え入るような声で呟く。


「これまでは、呼ばれるだけだった。

でも、こう書くと……私だけのものなのだと、わかる」


レオニダスの胸の奥に、温かい灯がともった。

かつて村の司祭をしていた頃も、彼は今と同じように村人や子ども達に言葉や文字を教えていた。


あの頃に似た暖かさが胸の奥に広がる。

ただ一人の少女が、自分が「商品」でも「物」でもなく、かけがえのない人間であることを、文字を通して自覚しようとしている。


「そうだよ、ミレーナ。

その文字、名前は、君だけのものだよ」


レオニダスは彼女の隣に腰を下ろした。かつては侵略者の目を見て絶望したこの瞳が、今はただ、黒い蝋板に刻まれた自分自身の存在を見つめている。


ふと、レオニダスはここにきてからの自分自身の変化を思い出す。家族を失い、生きる目的を見失っていた自分。当初は戸惑いと困惑でいっぱいだった。


名前は尊厳だ、とはラウロの言葉だった。

ラウロはここで文字を教えることで、彼らに名前と共に尊厳を返していた事に気づいたのは、大分経ってからの事だった。


レオニダスは、今はここで出会う一人一人の小さな変化に、明日へ続く微かな存在意義を見出している。


「ここ……この曲げるところが、上手くいかなくて」


ミレーナが、少しだけはにかむように鉄筆を向けた。


「どれ、貸してごらん。ここは、力を抜いて……

そう、こうして滑らせるんだ」


鉄筆が蝋を削る小さな音が、静かな教室に響く。

レオニダスは、ラウロが言った「奴隷に教育を」という言葉の真意を、改めて噛み締めていた。

文字を教えることは、ただの技術を授けることではない。それは、凍てついた魂に再び火を灯す作業なのだ。


窓の外では、依然としてカッファの喧騒が聞こえていた。

人を値踏みし、命を金に換える街の音。

だが、この小さな部屋の、この蝋板の上だけには、何ものにも汚されない尊厳が確かに芽吹いていた。


「……できた」


ミレーナが、パッと顔を輝かせる。

その光景は、レオニダスにとって、かつて神に捧げたどんな祈りよりも尊く、報われる瞬間に感じられた。




「……先生」


蝋板に刻まれた文字を見つめたまま、ミレーナが静かに口を開いた。


「この館の主の人……ラウロさんは、どういう人なの?」


問いは唐突だったが、軽くはなかった。

無邪気な好奇心でも、評価を求める響きでもない。

ミレーナは、言葉を選びながら、それでも逃げずに尋ねていた。


レオニダスは、すぐには答えなかった。

炉の中で薪がはぜる音を聞き、蝋板の上に残る削り跡を一度だけ見下ろす。


「……厳しい人だよ。特に…自分に対して」


そう前置いてから、ゆっくりと言葉を継いだ。


「多分、誰よりも“世界がどういう場所か”を、よく知っている人だ」

「そして同時に……それを、良い場所だとは思っていない」


ミレーナは顔を上げた。


「じゃあ、どうして……」


「諦めていないのだと思う」


レオニダスは、はっきりと言った。


「彼は、人を値段で扱う商人だ。

だが同時に、“値段しか見ない人間”になることを、心の底から恐れている」


かつて市場で向けた怒り。

夜の倉庫で見た、肩を落とした背中。

それらが、静かに思い出される。


「彼はね、救えなかったものを数える人間だ」

「救った数で自分を慰めたりしない。

救えなかった分だけを、ずっと覚えている」 


ミレーナは小さく息を呑んだ。


「……怖い人?」


「ある意味怖いね。とても」


レオニダスは微かに笑った。


「だがそれは、怒鳴ったり殴ったりする怖さじゃない」

「間違えたら、取り返しがつかないと分かっている人の怖さだ」


ミレーナは、蝋板に刻まれた自分の名前に視線を落とした。


「……私たちに、文字を教えるのも?」


「ああ」


レオニダスは頷いた。


「彼は“名前を教える”とは言わなかった。

“返す”と言ったんだ」

「一度奴隷になるとほぼ名前を呼ばれることはなくなる。

自分のことを忘れていく。

名前を書けるようになると、自分のことを思い出す。

彼は、それを知ってて、名を返すと言ったんだろね。

だからあの人は、相手が奴隷でも必ず名前で呼ぶんだよ」


それでもそれは慈善ではない。

同情でもない。

“人を壊さないための、最低限の線”を引いているだけだ。


「ラウロはね、優しい人間ではないと思う」

「けれど……人を使い捨てることに、最後まで慣れない人」


ミレーナは、少し考えてから言った。


「……変な人。よくわからない」


レオニダスは、小さく笑った。


「そうだね。よく分からない人だよね」


蝋板の上で、ミレーナの名前がもう一度、静かに刻まれる。

その線は先ほどよりも、わずかに迷いが少なかった。



【ミレーナ評注録】

1448年11月某日 レオニダス評


識字・筆記:

蝋板と鉄筆の扱いに慣れてきた。

自身の名前を正確に記すことができる。

書字行為に対する恐怖・拒絶は見られない。


理解力:

音と文字の対応を早く把握する。

意味を伴った言葉として文字を捉え始めている。


情緒:

教室内での緊張は軽度。

他者の視線に過剰反応しない。

質問を自発的に行うようになった。


特記事項:

自身の名前を書く行為を通じて、

「呼ばれる存在」から「名を持つ存在」への移行が見られる。

これは教育効果というより、尊厳の回復過程と判断する。


総評:

この子は、学んでいるのではない。

“取り戻している”。


急がせる必要はない。

この速度で十分だ。


——

文字は、剣よりも遅い。

だが、確実に人を殺さず、確実に人を生かす。


この館で、それを最初に理解していたのは、

あの若い商人だった。


──以上。

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