第3話:薬草茶のかおり

1448年9月

夏の名残を引きずる陽はまだ強いが、空気の芯には確かに秋が混じり始めていた。

商館の中庭に差し込む光は、7月のように刺すものではなく、輪郭を持った暖かさを帯びている。


小さな煎じ鍋から、淡い湯気が立ちのぼっていた。

乾いた薬草を湯に落としたとき特有の、少し青く、少し甘い匂いが、静かに広がる。

ファーティマは鍋を火から外し、布で包んだ器に茶を注いだ。

色は薄い琥珀色。濁りはなく、澄んでいる。


「どうぞ」


ミレーナは両手で器を受け取り、そっと息を吹きかけてから口をつけた。

熱すぎない。喉を刺激しない。

飲み下したあと、胸の奥がふわりとほどける。


「……いい匂い」


ファーティマは小さく頷いた。


「よく眠れている?」


その問いは、あまりにも自然だった。

体調の確認というより、今日の天気を聞くような調子で。


「うん。夜中に目が覚めること、ほとんどなくなった」


「そう」


ファーティマはそれ以上、喜びを表に出さない。

ただ、次の器に茶を注ぎながら、使った薬草を指で示した。


「これは眠りのため。神経を鎮める草」

「これは胃を落ち着かせるもの」

「それから……」


一瞬、言葉を探すように、指が止まる。


「これは、“怖くなった時に息がしんどくなる人”のため」


ほんの短い沈黙。


「……あなたの体が、そうだったから」


説明はそれだけだった。

過去を掘り返すことも、理由を詳しく語ることもない。

ミレーナは黙って頷いた。

不思議と、胸がざわつかなかった。


その時、雲の切れ間から日差しが少し強く差し込んだ。

白い石床に反射した光が、ミレーナの視界の端で淡く脈打つように滲んだ。

ファーティマは何も言わず、静かに立ち上がると、ミレーナの頭布にそっと手を伸ばした。

影が目元に落ちるよう、ほんのわずか角度を調整する。

その動きに、ミレーナは身構えなかった。

目を伏せることも、肩をすくめることもない。

ファーティマは、そのことに内心で気づいた。

(……触れられても、大丈夫になっている)

声には出さず、ただ事実として受け取る。

そして、話し方がほんの少しだけ柔らかくなる。


「日差し、痛くない?」


「今日は平気。眩しいけど……嫌じゃない」


「そう」


ファーティマは一瞬だけミレーナの顔を覗き込み、瞳の様子を確かめる。

すぐに視線を外す。その距離感もまた、計算ではなく習慣だった。

しばらくして、ミレーナがぽつりと口を開いた。


「……前はね。目のことで、よく言われたの」


言葉を選びながら、途切れ途切れに続ける。


「怖いとか、不吉だとか。神のしるしだとか……」


ファーティマは遮らない。


「だから、外に出るのも、見られるのも、すごく……」


「あなたの目は、光を多く受け取るだけよ」


ファーティマは静かに言った。


「それは“呪い”じゃないの。“体の作り”」

「強い日差しが痛いのは、あなたが弱いからじゃないわ」


ミレーナは目を瞬かせる。


「だから」


ファーティマは、当たり前のことを言うように続けた。


「帽子を被れば良いし、布を纏えば良いし、影を歩けばいい。それだけのことよ」


少し間を置いて、はっきりと付け加える。


「目の色は、ただの色。神の声じゃないわ」


ミレーナは小さく息を吐いた。


「……ここにいる人たち、私を変な目で見なかった」


ファーティマは頷く。


「ええ。この館では、見かけがどうとか、出身がどうかより、その人自身を見る人が多いから」


そして、自然に言葉が続く。


「それを決めたのが、マスターよ」


彼女たちがそう呼ぶ、この館の主。

ミレーナは器を膝に置いたまま、顔を上げた。


「……ねえ。私、最初にここに来たとき、遠くで見たの。この館の主」


「どんな人?」


「怖そうだった。でも……今は、よく分からない」


ファーティマは少し考え、穏やかに答えた。


「多くを語らない人。判断が早くて、迷わない」

「でも、人を捨てたりはしないわ」


それ以上は語らない。

評価も、弁護も、付け足さない。

ミレーナはその言葉を胸の中で転がし、静かに頷いた。

その言葉をすぐに理解できたわけではなかった。

けれど、胸の奥で「ここにいていい理由」が、ひとつ増えた気がした。


9月の風が中庭を抜け、薬草茶の香りをやさしく攫っていく。

その時間は、特別なものではなかった。

だが確かに、ミレーナが「安心して誰かと話せる日常」の中にいる証だった。

ファーティマは湯の残った鍋を片付けながら、何も言わず、その光景を見守っていた。




【ファーティマ私記/簡易所見】

1448年 9月某日


対象:ミレーナ


睡眠:

夜間の中途覚醒は大きく減少。悪夢による覚醒は稀。

入眠は自然で、呼吸は深く安定している。


食欲・消化:

食後の胃部不快感なし。食事量は年齢相応。

緊張時の腹部収縮反応は軽減。


精神状態:

刺激(音・接触・視線)への過剰反応は明らかに減退。

目を見て会話ができる。沈黙を恐れない。

過去の出来事を語る際、呼吸の乱れなし。


身体的特性:

白化症による光過敏は継続。

日陰・布による遮光で問題なく対応可能。

これは病ではなく体質。


総合所見:

恐怖反応は「記憶」から「経験」へ移行しつつある。

生存のために張り付いていた緊張は、すでに常態ではない。


この子は今、“生存”ではなく“生活”の段階に移行しつつある。

特別な治療は不要。

必要なのは、日常の継続と、穏やかな関係性。

──以上。

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