最終章 続きの形

 朝は、少しだけ静かだ。


 目覚ましが鳴る前に、彼女が起きることもあるし、起きないこともある。台所で物音がすれば、今日は起きているのだと分かる。しない日は、そういう日だと思う。


 マグカップが二つ、並ぶ音がする。コーヒーの匂いが、部屋に広がる。


「砂糖、要らないよね?」


「うん、ブラックが良いかな」


「了解」


 彼女はそう言って、スプーンを入れる。量はいつもと同じ。タイミングも同じ。違うのは、言葉が続いていないこと。


 カップを受け取る。指は触れない。


 僕らは一緒に暮らしている。


 引っ越したわけじゃない。家具も、配置も、ほとんど変わっていない。変えなかった、という方が近い。変えたところで、埋まらないものがあると分かっていた。


---


 週に一度、彼女は外出する必要がある。


 決まった時間、決まった場所へ。


 彼女はそれを「帰る」とは言わない。

 「行ってくる」と言う。


 要は施設へ行く日。


 そこでの手続きは簡潔だ。チェック、記録、短い面談。体調と情緒の確認。職員の声は丁寧で、距離がある。


「問題ありません」


 彼女は決まってそう答える。声は落ち着いている。安定している、と評価される声だ。


 帰り道、並んで歩く。


 歩幅は合っている。

 肩は、触れない。


「どうだった?」


「いつも通り」


「そっか」


 それで会話は終わる。終わらせた、という方が近い。


 家に戻ると、日常が再開する。洗濯、買い物、夕飯の相談。どれも、以前と同じようで、どこか違う。

 「以前」が、もう一つに定まらない。


 夜、ソファに並んで座る。テレビはついている。内容は、覚えていない。彼女は膝を抱えて、画面を見ている。


 少し、間が空いてから言う。


「ねえ」


「ん」


「今日さ、夢を見た気がする」


 一瞬、言葉に詰まる。


「どんな?」


「覚えてない」


 彼女はそれだけ言って、画面に視線を戻す。嬉しそうでも、残念そうでもない。事実を置いただけの声だ。


 眠る前、電気を消す。暗闇の中で、彼女の気配は分かる。近い。けれど、重ならない。


「……ねえ」


「どうしたの?」


「もしさ」


 言葉が止まる。


「……やっぱ、いい」


 以前なら、続きを促したかもしれない。

 今は、しない。


 聞かないことも、選択だった。


 そのまま、眠る。


 日々は、特別じゃない。


 特別じゃないことが、積み重なっている。


 街で、時々、視線を感じる。店で、道で、知らない人の目がこちらに向く。気づかないふりをする。気づいても、何もしない。


 説明はしない。

 求められても、答えないことがある。


 彼女は、そこにいる。


 それでも、

 そこにいない何かも、確かに残っている。


---


 ある日の夕方、帰り道で雨に降られた。

 思ったより強くて、二人とも少し濡れてしまう。


「結構降ってるな」


「そうだね」


 言い合うほどの余裕はない。でも、無言でもない。


 同じコンビニに寄る。

 彼女は棚を見る。

 同じお菓子を取る。


 レジに並ぶ。

 飲み物は一つずつ。

 袋は別々だ。


 店を出て、歩く。


 半歩、ずれている。

 意識しなければ、気づかないくらいの距離。


 触れようと思えば、触れられる。


 けれど触れない。


 家に戻って、濡れた服を脱ぐ。彼女が洗濯機を回す。僕は床を拭く。役割分担は自然に決まった。でも、それは「前と同じ」ではなかった。


「ねえ」


「ん」


「前さ」


 少し間を置いて、彼女は言う。


「質問、されたことあるんだよね」


 心臓が、ゆっくり鳴る。


「大切な人が、そうじゃなくなったらどうする、って」


「……うん」


 彼女は、少し考える。


「今なら、どう答える?」


 問いは、静かだった。


 僕は、少し長く考えた。


「今は……」


 言葉を選ぶ。


「寂しくても、一緒にいるって答える」


 彼女は、しばらく黙っていた。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「……らしいね」


 肯定でも、否定でもない。


 洗濯機が止まる音がする。彼女が立ち上がる。


「干してくる」


「ああ」


 窓の外は暗い。雨は上がっている。


 彼女の背中を見る。

 触れようと思えば、触れられる距離。


 触れない。


 選んだのは、回復じゃなかった。


 失われたものを抱えたまま、

 続けるという選択だった。


 正しかったかどうかは、分からない。

 きっと、ずっと分からない。


 それでも、朝は来る。

 コーヒーの匂いがする。

 週に一度、彼女は施設へ行く。


 それ以外は、

 生前とよく似た形で、

 一緒に暮らしている。


 問いは、消えない。


 答えも、完成しない。


 それでも、今日も――

 ここにいることだけは、選び続けている。

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彼女バックアップ アボカド18% @OTOKO18

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