第11章 準備

 次の面会まで、少し間が空いた。


 理由は「調整」だった。言葉としては何度も聞いている。便利で、曖昧で、何も説明しない言葉だ。そのあいだに、考える時間が与えられたのか、奪われたのかは分からない。


 部屋に戻ると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。施設からのものだ。形式ばった文面で、次回の確認事項が記されている。持参物、所要時間、注意点。どれも事務的だった。


 最後の一行だけが、少し違っていた。


《必要に応じて、過去の記録をご参照いただく場合があります》


 過去、という言葉に、視線が止まった。


 何の過去なのかは書かれていない。書かれていないことが、かえって意味を含んでいる気がした。


 封筒を閉じて、机の引き出しを開ける。奥に、古いスマホがしまってあった。画面は割れていないが、もう使っていない。充電ケーブルを繋ぐと、しばらくして画面が点いた。


 通知は、ほとんど残っていなかった。整理して消した記憶がある。消した理由は覚えていない。


 写真のフォルダを開く。風景や、食べ物や、どうでもいいものばかりが並んでいる。彼女が写っているものは少ない。写っていない時間のほうが、長かった。


 一枚、動画があった。


 再生すると、画面が揺れて、彼女の声が入る。


「ちょっと、近すぎ」


 その言い方に、胸の奥が反応した。覚えている声だ。覚えている調子だ。


 画面の中の彼女は、こちらを見ていない。カメラの外に向かって、何かを言おうとしている。続きは、途中で切れていた。保存された時間は短い。


 なぜ、ここで終わっているのか。


 分からないまま、再生を止めた。


 スマホを伏せると、部屋が静かになった。静かすぎて、時計の音が聞こえる。前からあった音だ。最近、気づくようになっただけだ。


 その夜、彼女から連絡が来た。


《次、少し長いって聞いた》


《そうらしい》


《外、出られる?》


《分からない》


 しばらくして、返事が来る。


《そっか》


 それだけだった。


 言葉が続かないことが、当たり前になってきている。以前なら、理由を聞かれた。今は、聞かれない。


 それが、彼女の選択なのか、配慮なのか、分からなかった。


 翌日、施設の資料室を訪れた。職員に案内されて、端末の前に座る。許可された範囲で、閲覧できる記録があるらしい。


「ご本人の意思に基づいて保存されたものです」


 職員はそう言って、画面を操作した。一覧が表示される。日付と、短い注記。


 最後のバックアップの日付を見て、指が止まった。


 見覚えのある日付だった。


 あの夜の、前日。


 胸の奥で、何かが静かに繋がった。


 だから、なのか。


 そう思いかけて、思考を止めた。まだ、結論を出すには早い。早すぎる。


「こちらは、閲覧されますか」


 職員が聞く。


「……いえ」


 今は、見ない。


 見てしまったら、何かが決まってしまう気がした。


---


 施設を出ると、夕方の光が街を包んでいた。人が歩いている。車が通る。日常は、変わらずそこにある。


 彼女と初めて外を歩いた道を、ひとりで歩いた。ベンチは空いている。座らずに、通り過ぎた。


 あのとき、彼女は言った。


 外に出ると、ちゃんと“いる”感じがする、と。


 では、今はどうなのだろう。


 彼女は、内側にいるのか。

 それとも、線の上に立っているのか。


 家に戻ると、引き出しにしまったままの古いスマホが目に入った。さっき再生した動画の続きを、もう一度見たい衝動が湧く。


 でも、再生しなかった。


 代わりに、机に置いたままの封筒を手に取る。


 次に会うとき、

 彼女は何を知っていて、

 何を知らないままなのか。


 それを決めるのは、たぶん僕だ。


 準備は、もう始まっている。


 そう思いながら、封筒を静かに閉じた。

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