第9章 ずれ

 外で会う時間が、少しずつ長くなった。


 制限が緩んだ、というより、問題が起きていないから延びただけだ。職員の言い方はいつもそうだった。問題がない、という評価は、安心でもあり、保留でもある。


 その日は、夕方だった。


 空が暗くなりきる前の時間帯で、人通りが増え始める。駅前の雑踏に混じって歩くと、彼女は自然に少し後ろに下がった。半歩だけ、距離ができる。


「疲れた?」


「ちょっと」


「どこか座ろっか」


「うん」


 ベンチに腰を下ろす。街灯が灯り始めて、足元に影ができる。二つ並んだ影は、形が似ているようで、重ならなかった。


「最近さ」


 彼女が言う。


「前より、静かだよね」


「何が?」


「あなたが」


 即答できなかった。静か、という言葉が何を指しているのか、分からなかったからだ。


「前は、もっと、こう……」


 彼女は手を動かして、言葉を探す。


「余計なこと言ってた」


「悪かったですね」


「そんな風に言ってるわけじゃない」


 そう言って、彼女は少し困った顔をした。


「ただ、違うなって」


 違う。


 その言葉を、初めて彼女の口から聞いた気がした。


「そこまで?」


「分かんない。でも、前はもっと言い合ってた」


 確かにそうだ。些細なことで口論になって、どうでもいいことで笑っていた。今は、衝突する前に、どちらかが引く。


 ぶつからない代わりに、残らない。


「喧嘩したいわけじゃないんだけどさ」


「分かってる」


「分かってる、って言い方が、前と違う」


 その指摘は、的確だった。反論できなかった。


 沈黙が落ちる。気まずさはない。ただ、間が長い。


 通りの向こうで、救急車のサイレンが鳴った。遠ざかっていく音を、二人で聞いた。


「ねえ」


「ん」


「私、ちゃんとここにいるよね」


 何度目か分からない確認だった。


「いるよ」


「……即答だね」


「だって、いるから」


「そう言ってもらえるのは、嬉しい」


 嬉しい、という言葉に、体温がなかった。感情がないわけじゃない。ただ、確かめるための言葉だった。


 前なら、そこで話は終わらなかった。


 今は、終わる。


 施設へ戻る道すがら、彼女が足を止めた。


「ねえ」


「ん」


「一個だけ、聞いていい?」


 嫌な予感、というほど大げさなものじゃない。ただ、ここを越えたら何かが変わる、という直感はあった。


「いいよ」


「私がさ」


 一度、言葉を切る。


「私じゃなかったら」


 心臓が、少しだけ遅れた。


「……どういう意味?」


「例えば、同じ顔で、同じ声で、同じ記憶の人がいて」


 そこで、彼女は言葉を選び直した。


「私じゃない人」


 風が吹いて、髪が揺れる。


「それでも、今みたいに一緒に歩く?」


 答えは、すぐには出なかった。


 正解を探しているわけじゃない。ただ、どの言葉も、嘘になる気がした。


「……分からない」


 正直にそう言うと、彼女は頷いた。


「そっか」


 それだけだった。責める様子も、落胆する様子もない。ただ、受け取った顔だった。


 施設の前に着く。職員が視線を送ってくる。


「今日は、ここまでだね」


「うん」


 彼女は一歩下がって、こちらを見る。


「ありがとう」


「何が?」


「ちゃんと、答えてくれて」


 それが、礼を言われるようなことなのか、分からなかった。


 彼女が中へ入っていく。ドアが閉まる。


 外に残された僕は、しばらく動けなかった。


 ずれは、もう無視できないところまで来ている。


 同じ場所に立っているつもりでも、向いている方向が、少しずつ違っていた。


 その差は、小さい。


 でも、小さいままでは終わらない。


 次にどちらかが踏み出せば、

 もう、元の位置には戻れない。


 それだけは、はっきりしていた。

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